「これは恐竜映画ではない」ジュラシック・ワールド 炎の王国 しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
これは恐竜映画ではない
このシリーズの産みの親スピルバーグはユダヤにルーツを持つ。
だから、ラストで、恐竜をガス室で「絶滅」させることはないだろう、とは予想した。
では、誰がどういう理由で恐竜を“絶滅収容所”から救うのか?
恐竜を毒ガスから救い、人間社会に解き放ってしまうスイッチを押したのは少女のメイジー。富豪ロックウッドの「孫娘」として登場したが、実は彼女は、不慮の事故で死んだロックウッドの娘のクローンだった。
そういうことか!
邦題にミスリードされ、火山×恐竜という相性バツグンの絵を楽しめる映画かと思いきや、そこは物語の序盤に過ぎず、この映画のメインステージはゴシックホラーの香りたたずむ洋館に移る。
なぜか。
「ジョーズ」の伝統よろしく、生物パニック映画の皮を被った本作の真の姿は「フランケンシュタインの怪物」だからである。
本作のキャッチコピー、「生命は、新たな道を見つける」。
この「生命」とは遺伝子操作で蘇った恐竜のことではなかった。
クローン人間のメイジーのことだったのである。
主人公たちは恐竜を愛する。しかし、ガス室のドアを開けて、恐竜たちを街に放せばどうなるか、わかるがゆえに思い留まる。
しかし、メイジーは違う。
見た目は人間そのものだが、違う“種”ゆえ、主人公たちとは別の判断をするのだ。
そう、この映画は、「フランケンシュタイン」や「ブレードランナー」と同じ系譜の、人が命を創造することや、人造人間は何を思うのか、というメッセージを持つ作品なのである。
そもそも、本シリーズの原作者マイケル・クライトンは、もともと科学者だったが、SF 作家になり、科学の暴走をテーマした作品を書いた。
ジュラシック・シリーズは、「科学の進歩は、生命の創造という神の領域に踏み込んでいいのか」というテーマを常に掲げてきた。
テクノロジーの進歩、その始まりは科学者の純粋な夢だったかも知れない。しかし、いつでも人の持つ欲望が、それを暴走させる。
主人公たちと対立する、恐竜を金儲けの材料にする者たち。彼らは恐竜の遺伝子を操作し、生物兵器を作り出そうとさえする。
主人公たちは、その行為を断罪するが、しかし一方、愛娘の死が悲しいからといって、そのクローンを生み出す行為は認められるのか?
遺伝子操作による金儲けも、娘のクローンも、どちらも人の欲望の産物であることには変わりない。
恐竜から「フランケンシュタインの怪物」へ。
本作は、3部作の第2部らしいが、第2部にふさわしい転換、そして、大風呂敷ではないか。
エンドロールの後の思わせぶりなシーンからも、次作が相当なカオスになることは想像に難くない。どう、まとめ上げるのか、いまから楽しみである。