「恐竜が人間を意識しすぎている」ジュラシック・ワールド 炎の王国 f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
恐竜が人間を意識しすぎている
そもそも『ジュラシック・パーク』は,「人間VS恐竜の戦い」ではなかった。自然という「より大きなもの」に放り込まれた人間が,自然の中で生き残ろうとする作品だった。自然の一部である恐竜にとって,人間というものは「人間」ではなく,ただの餌であり,食料であり,生存のための手段であった(ただし娯楽にする必要上,肉食恐竜はいちいち空腹かどうか確認されることなく,自動的に人間を襲うものとされているのだが)。
恐竜にとって人間が敵であるか味方であるかという考え方はなく,ただ人間は,動く動物であり,餌だった。空腹時に視界に入れば追って狩るし,満腹時には興味がない。ただ生きるという観点のみにおいて,人間という動くものを捕まえるかどうかという話になる。
『ジュラシック・パーク』の終盤。物語に登場する疑似家族ー父,母,姉,弟の四人構成ーを狩ろうとするヴェロキラプトルに割り込んだT-REXは,ヴェロキラプトルと争いつつ,天に向かって咆哮する。それと同時に,人間の建築したものは崩れて行き,「JURASSIC PARK」の横断幕も地面に向かってなびき落ちる。このシーンが印象づけるのは,人間が「PARK」のなかに自然を囲い込んで,押さえ込み,支配しようとしていたが,その囲みは破られ,空間に恐竜=自然が満ち満ちて,むしろ人間が恐竜=自然に取り囲まれ,放り込まれたのだということ。そしてその自然界の頂点に君臨する王が,ティラノサウルスであるということだ。
ここで強調したいのは,ティラノは決して人間を助けようという意図を持っていたわけではないということだ。人間という餌を得るために争いたかっただけで,もしもティラノがヴェロキに勝っていたら,人間は,ヴェロキからは逃れられたとしても,再び追われていただろう。やはり人間というのは,恐竜にとって敵だとか味方だとかではなく,単に生存のための食料なのだ。
ところが「ワールド」は違う。少なくとも当初は,人間は恐竜の制御に成功し,恐竜パークを商業化することにも成功している。恐竜の制御が試作段階であった「パーク」とは異なり,一度は恐竜の制御に成功してしまった時点で,もはや「ワールド」は「パーク」の趣旨を汲んでいない。
また「ワールド」ではヴェロキラプトルとティラノサウルスが人間の味方をすることによって,制御不可能な新種のインドミナス・レックスを撃退することに成功する。本来「パーク」にはヴェロキにしろティラノにしろ,人間に味方しようという意図も敵対しようという意図もなく,たまたま両者が争うことによって人間は逃れることができたのに,「ワールド」にはヴェロキやティラノを明確に味方にしようという意図を持って人間は作戦を立て,そして成功している。ヴェロキは明確に主人公たちに協力しようという意思を持ってインドミナスと戦っているように思えるし,ティラノに至ってはヴェロキと違って飼いならされていないにもかかわらず,そして食料を必要としているかどうかも問われずに人間(観客)の希望通り,開放された途端インドミナスにぶつかっていく。人間は,自分たちのために恐竜を制御し利用することに成功してしまっているのだ!
この点において,もはや「パーク」の,完全な予測が不可能で,暴発する,制御不能な自然というコンセプトは緩められ,破れ,人間にとって都合のいい物語が成立している。もちろん「パーク」にも,嫌われ者が殺され観客の応援したがるキャラクタが救われるという勧善懲悪&因果応報の様式は持っているけれども,「ワールド」は「パーク」の持っていた人間には制御できない自然の中で,自然の一部として生き延びることによって得られる爽快感を与えることはできないのだ。
インドミナスレックスにしても,ティラノのように人間という存在を認識せず単に動く生き物,餌としてみなすのではなく,人間の技術を理解し,対抗手段を企て,それを掻い潜る。人間を餌とみなすのではなく,敵としてみなし,反抗を試みているのだ。「ワールド」のインドミナス・レックスはもはや人間であり,恐竜=自然ではない。自我や人間的知性を持った存在なのだ。
懐古厨,「そもそも」厨と言われればそれまで。しかし「ワールド」は「パーク」の趣旨を汲んでいるとは言い難い。あれは単なるディザスター映画だ。
『ジュラシック・パーク』は,恐竜を2つの側面から描いていたと思う。恐竜に襲われる恐怖と,恐竜を雄大で愛すべき存在だとみなす視点。ラスボスとも言えるティラノにも,この2面性が備わっている。離れてみれば雄大,襲ってくれば恐怖。ティラノは善でも悪でもなく,ただ生きているだけだった。恐竜を恐怖することなく人間の武器を以って制圧し支配しようとする人間の試みは失敗し,彼らは殺され,愛情や好奇心と慎重な恐怖を併せ持つキャラクタだけが,スピルバーグによって生かされた。
ところが「ワールド」や「炎の王国」が作り出してしまったのは,純粋悪,悪者とも呼べる恐竜だ。この恐竜の出現が,味方とか敵だとかの観点から恐竜に接する考え方を生み出してしまった。インドミナス・レックスや,「炎の王国」に登場する恐竜は,作品中の人間にとって純粋な脅威でしかなく,それゆえに愛護の対象であると観客に思わせないやり方で描かれ,そしてただ消滅させられるのみだった。
「愛情」と「恐怖」という2つの側面を持った恐竜の姿は,もはやそこにはない。
ひとつの映画でもいろいろな見方があるのだなと再確認したレビューでした。
私は単純に「ジュラシックワールド」好きでしたが(「ジュラシックパーク」ももちろん好きです)、このレビューのような視点でもう一度、見てみたいなと思いました。