「人を裁くとはどういうことなのか」三度目の殺人 Kazさんの映画レビュー(感想・評価)
人を裁くとはどういうことなのか
これは法廷ミステリー/サスペンスの体裁はとっているが、その実は寓話なんだろう。
高利貸しの殺人も咲江の父親の殺人も犯人は三隅で疑う余地はない。重要なのはなぜ殺したのか。
そこでキーワードとなるのが「器」「裁き」「生まれてこないほうがよい人間がいる」ということ。
三隅は器であり、三隅自身に意思はない。三隅は人の心を読み取る力があり、読み取ったその人の意思に従い行動する。
一度目の殺人はおそらくは高利貸しの被害者の誰かの意思に従ったもの。二度目は咲江の意思に従ったもの。つまり父親を「生まれてこなかったほうがよかった」と裁いたのは咲江であり、三隅はその裁きを実行しただけである。
では三度目は? もちろん三度目は三隅の死刑を指す。三隅が死刑になったのは犯行の認否を翻したからである。それはなぜか。もちろん三隅が咲江を守ろうとしたからではない。なぜなら三隅は器に過ぎないから。それでは誰の意思か。それは重盛に他ならない。重盛と三隅の最後の面会の場面で両者が重なり合う描写がされていることがそれを示している。
ここで重盛と娘のエピソードが重要になってくる。
重盛は娘に困ったときは必ず助けると約束した。咲江と娘を重ねたのは三隅ではなく重盛だった。重盛は、三隅が犯行を否定し死刑になることで咲江が証言をしないでよいようにすることを望んだ。重盛が三隅に語ったことはすべて重盛自身の考えだった。三隅はその意思に従っただけだ。三番目の殺人は重盛の意思によって行われたのだ。
ラストシーンで重森は交差点の真ん中にいる。十字は「裁き」の象徴である。これは重盛が「裁き」を行ったことを示すものだろう。
このように三隅は全くリアリティのある存在ではない。法廷ミステリーではなく寓話だといったのはそういう意味だ。
本当のテーマは人が人を裁くのはどういうことなのかということではないだろうか。
法廷サスペンスとは異なり、本作では裁判を徹底的に事務的に描く。検事も裁判官も人の生き死にを扱うにあたっても極めて事務的に対応する。法廷では「だれも本当のことを言わない。」という咲江自身も本当のこと(父親を憎んでいたこと、暴行されていたこと、三隅と親しかったこと)を言わない。
法廷は茶番である。じゃあ三隅は?
被害者の裁きに従いただ実行しただけだ。どこが違うのか?むしろこちらのほうが内心に忠実であり真実に近いのではないか。
解釈はいろいろあるだろうが本作が素晴らしい作品であることは間違いない。特に役所と広瀬の演技は素晴らしかった。(平日とはいえ観客が少なかったのは残念だった)
あえて言えばもう少しわかりやすく作ってもよかったのではないだろうか。ミステリアスにしなくても十分な題材だと思う。