ロダン カミーユと永遠のアトリエのレビュー・感想・評価
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美は創作の中に宿る
名神高速道路の小牧ジャンクション、
あそこの植栽に「考える人」にそっくりな枝振りの木があって、通過するたびにあれを見るのが楽しみだった。
・・雨の日は水滴の重みで背中が前にかしぎ、首はますます悩みに垂れ。「おいおいダンテくん、きみ大丈夫かいな!」の姿。
最近整枝・伐採されてしまって残念だった。
ロダン、ブールデル、ジャコメッティなど好きな彫刻家が何人かいる。
マイヨールや高田博厚はちょっと苦手かな。
先年はミケランジェロを見にフィレンツェ~ローマを巡った。
7年かかった「バルザック」の創作過程が映画の頂点だ。
実におもしろく、画面に喰い入り 見入ってしまった。
そして、
ロダンとサロン各人との交流は、夫々のエピソードは短くとも彼らと交わされる言葉が光っており、その互いの内面まで深く立ち入る描写は、単なる“カメオ出演”ではない。
ロダンの人となりがずっと厚みをもって迫る構成だったと思う。
主演バンサン・ランドンは「ティエリー・トルグドー」以来だが、人に向ける眼差しも 作品に対峙する時の視線も、眼の光の演技にはしびれる。
ロダンの映画は他にも幾種類もある。“女性関係”は伝記のストーリー上必ず触れられる。
カミーユとの上下関係と支配披支配の間柄は、あれは徒弟制なのだから仕方ないだろう。師を妨害する者は性別に関係なくenemyである。
芸術家は常人ではないのだ。
原題は「Rodin」だ。
【他人の言葉は聞かずに作り続けろ(セザンヌに)】
だ。
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カミーユ・クローデル
評価され始めたロダンが、代表作となる地獄門の制作に入るが、弟子入り希望のカミーユ・クローデルが現れる。
絵画と違い、彫刻は生きている間に評価が定まるのかな。
芸術家と、パワハラの構図。
今日の2作品目は、作品の最後のキャプションでも「近代彫刻の祖」と説明されるオーギュスト・ロダンを扱った『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』。
副題ではとりわけカミーユ(弟子)との関係が取り上げられているけれど、作品の主要なテーマは、40歳を迎えてようやく評価されるようになった天才彫刻家と、才能溢れるものの評価されない若き弟子でありかつ愛人と、長年内縁関係にある凡庸な女の3者を中心にめぐる愛欲と、それぞれの苦悩、といった感じ。
ロダンが、カミーユに向かって言った台詞は、最近少し炎上気味だった広告業界の大物をめぐるパワハラの構図にも似ている気がした。 「なぜ私に噛みつくか自覚しているか。世間に認められていないからだ。そして私は認められている」
創造性は必ずしも承認欲求や自己顕示欲と同じところに根ざしているものではないのだろうけれど、それらの異なったものがひとりのパーソナリティの中に共存することが多いということなんだろうな。
人物を撮影するときの構図やお互いの距離感がとてもよく考えられている印象でした。
2017年 通算44本目
まさにロダンの伝記
内縁の妻がいて、弟子やモデルと男女関係の遍歴を重ねるといった内容の良し悪しはあるにしても、製作者としてのロダンの伝記そのもの。作品が評価されない時の苦悩や制作に取り組む姿勢が分かりやすく表現されている。
次にロダンの作品を見る目が変わると思う。
自身の教養不足が悔やまれる
美術史をほんの少し聞きかじっている程度で、前情報を調べずに劇場へ足を運んだものだから結構的外れな感想を書いているかもしれません。
オギュスト・ロダンとカミーユ・クローデルの二人を中心に、ロダンの周囲の人間模様を描いた本作品。
一見、主人公ロダンの女性付き合いには驚かされるが、その時代の頂点に君臨している彫刻家の創造性の地盤には、性と美に対する素直な愛があるからこそだということが伺えた。
本作はロダンの感受性の豊かさを示唆するシーンがいくつかある。内縁の妻ローズと小道を散歩しているシーンでは、道端にカタツムリの通った後の微かに煌く軌跡を凝視したり、樹木の皮脂に手を触れて感触を味わっていたり。
他にも自然に対して愛情を向けているシーンが散見され、愛欲と葛藤が中心に描かれているように見受けられる中、そういった描写を盛り込むことで伝記映画としてはとても熟成されているように感じた。
また、ロダンの交友関係は現代の美術史に必ず名前が上がるような偉人ばかりで、食事会でモネやセザンヌが登場してきた時には思わず言い様のない興奮が込み上げてきた。
ただ、自分は教養が全く不足した状態での視聴だったので、その映画内で描写されていたセザンヌの葛藤やバルザック像の当初の評価と現代の評価の差異などは、映画を視聴するまで全く知らないでいた。美術史と時代背景をもっと勉強してから観に行けばよかったと後悔が残ってしまうほど、その時代に生きる人たちの美的感性の葛藤が色濃く表現されているのが本作品だと思う。
自分自身が、少しは"考える人"になったほうがいい
ロダンの創作に迫る、もっとゴリゴリのアート映画を想像していたら、上っ面だけの伝記路線で肩すかし。平凡。
"地獄の門"、"考える人"などの代表作で、"近代彫刻の父"と言われる彫刻家オーギュスト・ロダンを主人公に、その弟子だった女性彫刻家カミーユ・クローデルとの愛人関係をフツウになぞったラブストーリーである。
"ロダン没後100年"ということで、記念が製作の目的か、"カンヌ映画祭"の公式招待になることが前提で、ロダン美術館全面協力と、名匠ジャック・ドワイヨン監督をブッキングした企画モノのような趣き。
むしろ、ロダンよりもよっぽど映画向きの主人公になる数奇な運命なのは、カミーユ・クローデル。42歳のロダンに対して19歳のカミーユは、その若さと美貌と才能で、ロダンを狂わせ、しかしながらカミーユ自身の作品は評価が得られず、統合失調症で晩年は一人寂しく病院で亡くなっている。
その人生は、「カミーユ・クローデル」(1988年/Camille Claudel)と、「カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇」(2013年/Camille Claudel 1915)で映画化されている。なので美術通ならずとも映画ファンにも知られているかも。
一方で本作は、有名人ロダンを主人公にして、奥さんと別れられない典型的なダメダメ男である。"芸術"を言い訳にした自己肯定で、三角関係を続けるばかりか、カミーユをはらませて、中絶させる。そりゃ彼女も病気になっちゃうわね。
ロダン自身が、少しは"考える人"になったほうがいい(笑)。
ロダン美術館の協力があるので、アトリエなどの制作現場の再現や、作品の細部までのリアリティがもっともらしい。とくに「バルザック記念像」にまつわる作品群の制作秘話が興味深い。"裸スタイル"とか、"コートを羽織るスタイル"、"頭部だけ"とかのバリエーションの意味が初めてわかった。
当時のロダンの交友関係も見えてくる。セザンヌとゾラが出てくるのは、今年公開された「セザンヌと過ごした時間」(2017年/Cezanne et moi)を併せて観ると、当時のフランスの美術界の時代感がつながってきたりする。そういう楽しみ方でお茶を濁したい。
(2017/11/17 /新宿ピカデリー/シネスコ/字幕:横井和子)
芸術家って…
淡々と話が進んで行った…。
少し予習してから観た方が良かったかも…。
そして、劇中にも表現されているけど、日本とも関わりがあったのね。
でも、芸術家ゆえの激情だったり、常軌を逸する部分があったのね…という単純な理解をしてしまいそうになるけど、それが言いたい訳ではないよね?
邦題は失敗では?
没後100年の節目の記念映画で、興味がない人には限りなく退屈だろう…。
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