哭声 コクソンのレビュー・感想・評価
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これは“統一教会的なもの”の暗喩なのか。2022年7月に鑑賞して思う
2017年の日本公開時に見逃していたが、ナ・ホンジン監督が原案・製作を務めた「女神の継承」(日本公開は2022年7月29日)について本作との関連を言及していたので、参考のため最近鑑賞した。世界平和統一家庭連合(旧称は世界基督教統一神霊協会。以下は旧略称の「統一教会」とする)の霊感商法や政治家との関係が連日報じられる今、この「哭声 コクソン」で描かれていることは、実は統一教会のようなカルト教団の活動とその影響についての暗喩なのではないかと思い至った。その理由を以下の4つのポイントで説明したい。
【1. 皮膚がただれて変貌した人間が家族を虐殺する】
劇中では新聞やテレビの報道で、健康食品に混入した毒キノコの成分が皮膚の湿疹や精神錯乱などの症状を引き起こすことが示唆される。
カルト宗教にはまると「人が変わってしまう」とよく言われる。外見が激変し家族を殺してしまう村人たちは、カルトにはまって自己を見失い、家族に経済的・精神的な負担をかけて破産や一家離散といった犠牲をもたらす信者の暗喩ではないか。
【2. 祈祷師の除霊ビジネス】
村の警官ジョングは、娘に殺人犯たちと同じ湿疹が出て人格も変わったことから、義母のつてで祈祷師イルグァンを呼び、娘にとり憑いた悪霊を抹殺する儀式のため請求された高額の費用を支払うことに同意する。イルグァンいわく、山奥に住み怪しげな祭壇に村人たちの写真を多数並べている“日本人”(國村隼)の正体は悪霊だという。だが、イルグァンと日本人はいくつかの共通点から仲間であることが観客に示唆される(日本人が「燃やした」と言った祭壇の写真多数をイルグァンが保管している、白い褌をはいている、標的の人間をカメラで撮影するなど。さらに削除されたエンディングは、道端のベンチに座る日本人をイルグァンが運転する車に乗せ、遠くに走り去っていくという、2人が仲間であることを明示するシーンになっている)。
さて、霊感商法の手口は、信者本人や家族に悪霊がとり憑いている、先祖のカルマのせいで不幸になっているなどと言い、原因を取り除き幸福になるためと称して壺などの高額商品を売りつける、というもの。カルトに限らず詐欺の手口でも見られるが、相手の不安をあおってより信じ込ませるために架空の敵の存在を吹き込んだり、仲間に“敵”を演じさせたりすることもある。こうした類似点から、イルグァンらの除霊ビジネスはカルト教団の活動の暗喩として解釈できるのではないか。
【3. 日本人が“聖者”であり“悪魔”である理由】
映画の冒頭で聖書の一節が引用される。復活の奇跡を信じられず霊を見ていると思った信者たちに、イエスは「私の手や足に触れてみよ。この通り肉も骨もある」と告げる。この言葉は、ラスト近くで助祭イサムが洞窟の奥で遭遇する、死んだと思われていた日本人の口から発せられる。一瞬映る日本人の手の平には聖痕も確認される。この時、日本人はみるみる変貌し、まさに悪魔の姿になる。
統一教会はキリスト教をベースに1950年代に創設された新興宗教であり、聖書の教え、キリストの言葉を説く団体だ。聖なる存在を自認しながら、その一方で霊感商法などにより信者を食い物にする“悪の面”も持つ。統一教会ではまた、「日本はサタン(悪魔)の国である」と教えられるという。本作のよそ者の役に、ほかでもない日本人俳優を起用したのは、この教義とのつながりを示唆するためではなかったか。
【4. 警察上層部やマスコミの“不在”】
物語の時代設定は明示されていないものの、登場人物の何人かはスマートフォンを使っているので、少なくとも2007年以降の話だ。ひとつ気になったのは、これほどの惨殺事件が続発しているのにも関わらず、村を所管する警察署の上層部(日本でいうなら県警本部とか警視庁とか)から応援が来ることもなければ、マスコミが殺到する様子もないこと。情報伝達手段が乏しい昔の僻村ならいざ知らず、SNSも普及した現代に、これほど虐殺が相次ぐ村が国家権力や世間から無視され続けるなんてことがあり得るだろうか。
ストーリーを単純化するためにそうした要素を割愛した、という見方もあるだろう。だが、本作を統一教会的なものの暗喩とするなら、別の解釈ができる。それは、献金や寄付、あるいは信徒を国家権力内部や大手マスコミに送り込む形で、警察やマスコミに強い影響力を持つようになり、反社会的・非人道的な活動についても干渉させない、報道させないよう圧力をかけていることを示唆しているのでは、というものだ。安倍晋三銃撃事件後、少しずつ統一教会の霊感商法による被害者の話や、政治家への献金といった実態が報じられるようにはなってきた。だが、与党自民党の国会議員をはじめとする政治家多数に献金や選挙協力で関係を築いてきた統一教会に対し、かつてオウム真理教に行ったように宗教法人の解散命令を出すなど、有効な規制をかけられるかどうかは不透明だ。
以上、私見が長くなってしまったが、「哭声 コクソン」を鑑賞済みの方も未見の方も、時間があればこんな視点を頭の片隅に置いて観てみてはいかがだろうか。
謎めいたホラー的
どうなんだろう?
本当に彼は悪魔?あの女性は?
あんなに、人が亡くなってるんだ。
悪魔祓いの人も胡散臭い。
主人公の警官もわからなくなって
娘さんが、酷い目にあうと怒りいっぱいで
一瞬ゾンビもの?しかし通訳の方は感染してないし、
謎めいた話だ!國村隼も賞を獲得したみたいだ。
裏を探れば…。
この映画を見て率直に思ったことは、物事を決めつけないで冷静に見極めようということだろうか。
・毒キノコを活用した健康療法による被害
・日本人が来るようになり不可解な出来事頻発
・高額な祈祷代金
外部からの情報があまり入らない隔離された限界集落ならば、事件が連続して起きても応援を呼ぶにしても辿り着くのが難しいような場所ならば、自分達の知恵や憶測で解決していくしかないというのが根底にあるのでは?
悪霊を殺すための、高額な祈祷代金も普通に考えたら対象となる人物が死んでいるということなら殺すじゃなく除霊になる。何でそんなに高い?という話だし、村で唯一の祈祷師だから信用していいということなのか。案の定、霊視に間違いがあったという洒落にならないオチ。
隔離された限界集落ほど、新しい技術であったり、外国人に対し、強い警戒心を抱き、何かトラブルが起きた際にはきちんとした原因追求もなくキメツケにより解決しようとする。
エンドでは、日本人の正体が実は祈祷師で、村に現れた悪霊と対峙していたというが、違う見方もできる。
あの女性の正体は、祈祷師だったのでは?
目が届き難い限界集落を少しでも無くしたいのか、或いは宗教の信仰人数を増やしたいのか、何かしらの目論見があって現れ村に禍を齎すようになったのならば、あの女性の背後にはとてつもなく巨大な組織がついていることになる。
日本人の祈祷師も、助けに行った祈祷師も、ウラを探れば3人はグルかもしれない。
誰が悪党なのか?
ホラー映画としてはとても面白かった。
出だしでは主人公のジョングは臆病者で頼りない村の警察官。
このキャラクターが前半の物語で凄惨な事件が立て続けに起こっているのも関わらず
イマイチ深刻な雰囲気が出てこない。
この凄惨な事件とは家族のひとりが他の家族を皆殺しにしてしまう謎の連続事件。
その凶兆がジョングの幼い娘に表れたことから、ジョングの危機感が醸し出されていく。
その落差が物語をより不穏にしていくのかな。
この事件、何者かによる物理的なトリックなのか?はたまた悪霊の仕業なのか?
そして謎の日本人の立ち位置は?胡散臭い祈祷師は詐欺?女は悪霊なのか?
見ている側がどこに向かっているのか全くわからないという状況が最後の最後まで続き、それが何とももどかしくもあり、謎の心地よさがありと不思議な雰囲気に。
何となく呪術対決なのかな?と思うと悪霊なのか?まさかのゾンビ?
展開が二転三転してグッとのめり込んじゃいます。
ただ流石に2時間30分は長くどうでもいいシーンが多かったかなとは思いました。
結局見終わってよくわからなかったのだけど、胸糞の終わり方で日本人の思う壺という展開で終わったんだということだけはわかりますが。
ポイントは4つ
女は何者?祈祷師は何者?日本人は何者?そして村に災いを起こす理由は?
これが皆が一番気になるところかなと思いました。
個人的には
女は村を守る者
祈祷師は本物の霊能力を持つ詐欺師
日本人は悪魔
じゃないかと。
祈祷師と日本人は祈祷によって悪魔を殺す直前まで行きます。
これは祈祷師は日本人が呪いをかけていると思っているので
殺すつもりで呪術対決をしたのではないかと。
女は何か霊能力があり何かしらの呪いや結界で村を守ろうとしていたのではないかと。
それゆえ祈祷師に出会ったときに殺さず「帰れ」と促したので、あくまでも彼女の狙いは他にあったと思われるからです。
そして日本人は虚実を混ぜ合わせ混乱に陥れる悪魔?魔物?であり純粋に
災いのある場所に惹かれ寄ってきたものではないかと思います。まあ悪魔というよりは
人間が魔物になった感じですかね。悪魔的思考は有るものの物理的な強さはなさそうでしたので。
祈祷師が村に仕掛けを張り事件を起こす。
それによって祈祷の仕事の依頼を受ける。
凄惨な事件により悪魔が悪魔がよって来る。
女が災いを起こすものを払いに来る。
そんな感じじゃないでしょうかね。
もしかしたらそんなスッキリしたものなんかなくて
ただただみている人を混乱に陥れるためだけの映画かもしれないですけど。
2.98そこまでグロくはない
そこまでグロくはなかった。トリックを思い出す作品
祈祷師バトルは面白かった。
バイオハザードとアジア祈祷バトルなのでそこまで怖くなかった
落ちはお粗末
よくわからないオカルト映画。
とにかく長くて苦痛。最初は反日プロパガンダ映画かと思ったが、よく分からないオカルト映画だった。韓国の人達には非科学的な思考回路をしている人が多い、と思わざるを得ない。演技力が光るのは國村隼と主人公の娘さん役。國村隼はよくこんな役を受けたものだと思う。
だから韓国映画はやめられない
わかりやすい答え合わせが一切無い。かと言って、よくわかんないけど凄かったね〜、という観賞の仕方もアリ。
神様って意外と助けてくれないんだよね、というのも世の常で。
アメコミのコンスタンティンだって、神と天使と、人間と堕天使のビジネスが複雑で、立場くるくる変わるし。
この映画の、後半の人間じゃ無いっぽい3人の三つ巴だって、お互い探り探りみたいだし。
大昔、写真は魂を抜かれる、って言ってたらしいけど、それって、韓国でもそうなのかな。
お父さんは、罪を告げられます。それって完全に神様目線の罰だよね。公平といえばこれ以上の公平は無い。えええ?って文句言いたくなるけど言えない。え、でもその前から罰的なものは始まってなかった?時々流れるニュースもよく聞いとかなきゃ。
ところで、國村さんがゾンビ作ってた、って言われてるけど、ゾンビになるのを阻止してた、のかもしれないし、そこもハッキリされてない。と、見る。
答え合わせは無い、と言ったけど、あちこちにヒントが散りばめられていて、何度も見直しちゃうんだな。
ひとつだけ、誰か教えてください!祈祷師が、愚か者め、餌を飲み込んでしまったな、と言ってるのは、誰の何のことでしょう。これだけが本当にわからない。大事なシーンだと思うのよ。冒頭の釣りのシーンとつながる。
この映画、面白い!と思う、自分の心を信じましょう。人のレビュー見て揺らいじゃダメですよ。
3回目見てわかった。餌を飲み込んでしまった愚か者はお父さんのことだね。
あと疑問点は、娘を救おうとしている女。白い衣って、なんか、聖書に書いてあったような。
ごめん、3回見たあとまたダラダラ続けちゃうけど。
悪霊は、娘に取り憑いてる奴で、あとの3人はそれぞれ、天使と人間と悪魔を行ったり来たりできる存在で、それぞれ管轄が違うから、お互いのことは全然わかってなくて。女は見守ったり、チクったり結界を張るくらいしか出来なくて、祈祷師はちょっと悪魔寄りだけど、神をとても恐れている。國村さんは結構捻くれていて霊的苦労が多かったんじゃなかろか。彼らにもキャリアって関係するのかな。
で、えええ⁉︎釣り糸垂らして遊んでいるのは神様だったりして?
挑戦的で映画的で実に面白い
韓国の人の何割かはキリスト教である。
儒教の影響も強い。
そのあたりの知識が無いとこの点数は2点ぐらいになっちゃう。
でももったいないから色々調べると楽しいよ。
監督は簡単には解釈を手助けしてくれない。
謎解きを許してくれない。
イエス・キリストがいる。
マリアがいる。
マタンゴもいる。
結局日本人が悪鬼だったということか。今なら鬼滅の刃に出てきそうな話...
結局日本人が悪鬼だったということか。今なら鬼滅の刃に出てきそうな話。
だとするとあの女性は?止めようとしていたってこと?だとすると幽霊?いい幽霊ってこと?
そしてあの祈祷師はなぜ日本人を途中で悪霊ではなかったと思ったのか?あの女性の力で祈祷師は嘔吐していたけど、なぜあの女性は祈祷師を近づけなかったのか?そしてあの女性はなぜ主人公の家族を救おうとせずに主人公だけを救おうとしたのか?果たしてこの答えはあるのか?リピートしたらわかるのかなー。難しい映画だった。
【”エクソシスト、韓国ウルトラカスタマイズバージョン” 神は、善とは限らない・・。観る側に様々な解釈を与える奥深過ぎる作品である。】
ー 冒頭、謎の日本人(國村隼人)は、穏やかな顔で、釣り糸を垂れている。
そして、テロップが流れる。
”ルカによる福音書 24章 37-39節”
何故、狼狽えているのか、どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい・・。ー
◆感想<Caution 内容にやや触れています。>
・難解な映画である。
初見時の際には、何が何だか分からなかったが(キリスト教にあまり詳しくなかった・・)國村隼人さんの怪演を始めとした、強烈なパワーに圧倒され劇場を後にした。
そして、一枚のフライヤーだけ持ち帰った・・。
・ずっと、再鑑賞したいと思っていたが、漸く別媒体にて鑑賞。
その前に、國村隼人さんの当時のインタビュー
”死ぬかと思った・・”
や、著名な映画評論家の今作に対するレビューも拝読した上で、再鑑賞。
・平穏な韓国の山村の村、谷城(コクソン)に謎の日本人(國村隼人)が住み着いてから、村では凄惨な事件が相次いで起こる。
・警官ジョング(クァク・ドウォン)は、いきなりノンビリした生活から、凄惨な事件に巻き込まれていく。そして、彼の気の良い娘ヒジョンも、悪魔に取付かれ、変貌していく。
ー 序盤からハイスピードで、凄惨なシーンの連続に魅入られる。が、訳が分からない・・。ー
・謎の日本人が悪魔だと決めつけ、ジョングたちは彼を祈祷などで、追い詰めていく。
ー 描き方としては、鹿の生肉に齧り付いているシーンなどから、観る側も悪魔だと思う。が、彼が追いつめられた時に見せる、”掌の聖痕”。
そして、口にした言葉”触って良く見なさい。亡霊には肉も骨もないが、私にはそれがある。”ー
・ジョングが雇った祈祷師と、謎の日本人との祈祷合戦。そして、謎の白衣の若い女。ジョングが雇った祈祷師が、若い女と対峙した時に白い液を口から吐きながら、逃げるシーン。
そして、言った言葉。”間違っていた・・。”
<観る側に、様々な解釈をさせる、難解な映画である。
旧訳、新訳聖書の知識があれば多少は、理解が出来るのかもしれないが・・。
2度観て、一つだけ分かった事は
”神は、必ずしも善なる存在ではないのかもしれない・・”という事である。>
<2017年8月26日 京都シネマにて鑑賞>
<2021年8月2日 別媒体にて再鑑賞>
合わなかった
合わないポイント
・主人公がナヨナヨしすぎて、感情移入できない
・ここまで風呂敷を広げてどうまとめるんだ?と思ったらそのまま終わった
・結末がハッキリしてなくて謎
・祈祷シーンがギャグ、そして長い
・長い
・ホラーとして見ても全く怖くない
・祈祷師ゲロ吐きすぎ
最初から最後までさっぱり意味がわからない。 理解出来たのは「思い込...
最初から最後までさっぱり意味がわからない。
理解出来たのは「思い込みの怖さ」のみ。
「○○人だから妙だ」や「きっとアイツが悪い」など噂レベルでの決めつけで人まで殺す?
日本の昭和40年代の考えだから今の人には理解しがたいと思う。
結局なんでこうなったのか?誰が悪かったのか?最後までわからずじまいだった。
タイトルなし
最初コメディかと思いきやオカルト。あらぬ方向にストーリーは展開、ナ・ホジン監督作で期待していたが、ラスト?だったし、何より主人公が能無しで見ていて腹立たしい。娘役は上手い。この先の展開どうなるんだろうとはなったが、ラストは監督の他作品同様、救いがない。意味不明。
よそ者
韓国のある村で、村人が自分の家族を殺す事件が多発。警察官の主人公が、自分の娘が呪われるのを防ぐために日本人のよそ者を追い出そうと頑張る話。
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アジア版エクソシストと言ったようなところで、途中ゾンビ映画になりかけたり、ロード・オブ・ザ・リングのゴラムっぽいやつが出てきたり、このちょっと間違えばB級に転んでしまいそうな話をちゃんと意味のある話に落とし込んでいるところさすが韓国です。
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主人公初め村の人はみんな國村隼演じる「よそ者」を実際に自分が見た訳でもないのに噂だけで悪者と決め付けて追い出そうとする。やっぱ日本人目線で見るからどうしても國村隼が黒幕だとは思えなくて、主人公の思い込みだけで突っ走る態度に終始イライラ。
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でもこの映画、人それぞれ犯人であって欲しい人を犯人だと思い込んで見れば誰でも怪しく見える。人は見たいものだけを見て生きていくものだからね。よそ者はよそ者だと決め付けて、身内を疑おうとしない。そんな民族差別的な要素もあってとても良かった。
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おばけ系ホラーではないけどめっちゃ怖かった。じわじわずっと怖い。
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理解に苦しむけれど、なかなか面白かった
鬱陶しい雨が降る中、捜索が続くといえば、『殺人の追憶』。そんな感じのサスペンス刑事ものかと思いきや、オカルトタッチの宗教観や哲学?などにも行き着く高尚なホラー映画でした。時間の長さも苦痛にならず、終盤は特に「悪魔の正体とは?」と謎を知りたいばかりに画面にくぎ付けになってしまいました。二転三転するストーリーに振り回されたあげく、はっきりした結末を知ることもできないまま終わり、どう解釈したらいいのかと、呆然としました。でも、原始的な呪術ホラーの気味の悪さは完成度が高く、見応えがありました。
平和な韓国の村(谷城/コクソン)に突然起こった奇妙な殺人事件。村にいつの日から住みついたよそ者の謎の男(日本人)が怪しいと噂が広まり、「男は何者か?」を探っていくことで事件を解決しようとする村の警察。
序盤、ふんどし姿で鹿の肉を喰らうシーン、おぞましくて怖かったです。何者かわからない國村隼さんの怪演が本当に恐ろしかったです。最後の悪魔の姿は強烈でした(どこかで見たことあるぞ感があった。ケン・ラッセルの『ゴシック』に登場する気味の悪い小さい悪魔に似ていたような?)
疑心暗鬼を生ずというように、人は恐怖や不安におびえている時は、思い込みや強迫観念に囚われたりするもの。結局、食用の豚が食べた毒キノコがそもそもの発端だったと思われるが、主人公警官を筆頭として、村人たちは惑わされるばかり。集団ヒステリーのような状態だったのかも。
聖書からの抜粋であろうイエスの言葉が最初に掲げられたので、宗教的な意味があるのだろうと憶測はできます。でも詳しいことはよくわからなかったです。ラスト近く、悪魔姿の謎の男(國村隼)が語る言葉とオーバーラップしているので、それは神の声なのか?悪魔のささやきなのか? 悪魔の姿は神父の心象風景なのか。そもそも、日本人男は死んでいるはずなのに。
<映画の冒頭に出てくる言葉>
人々は恐れおののき、霊を見ていると思った
そこでイエスは言った
なぜ、心に疑いを持つのか?
私の手や足を見よ。まさに私だ。
触れてみよ。このとおり肉も骨もある。
(ルカによる福音書24章 37-39節)
余談
主人公のジョングが、たまに、ダチョウ倶楽部の上島さんに見えてしかたなかった。
殺人事件が発生しても、すぐに駆けつけず、朝食食べてからでした。(笑)
殺人事件など起こったことのない平和な村。
時々、出てくる朝焼けの山々が美しい。
信じるものは救われる?
ラストがよくわからなかった。
が、とてつもなく辛く、むごい。
誰を信じればいいのか?善と悪がわからない。
敵味方、善悪の区別をしようとしていたのがバカげていたのか。
祈祷師は、
悪魔を苦しめる力があった。
かなりの霊力があるのだろう。
それでも勝てないことを知っていた。
悪魔を利用して民から金を取る。
牧師は、
呪いなどは信じない。
現実的なことを話す。
若い女性は、
急に現れ信じろと。
ラストで家の門を通り、戻ったところで結界が骸骨に変わっていく。
家に戻らなければ助かっていたのだろうか?
信じるべきは、あの女性だったのか。
鳥が3回鳴いた後、
聖書ではペテロがイエスを「知らない」と言いイエスのもとを去り、その後、イエスは十字架についた。
鳥が3回鳴いた後、
女性(イエスを象徴?)から離れなければ、事態は変わり、家族が亡くなることはなかったのか。
そして、悪魔は諭すように、心に問いかけてくる。
これがまた謎。
見方、信じ方によっては結果が変わっていた
ってこと?
悪魔にもイエスにもなりえたの?
観終わったあとに、どっと疲れを感じた。
途中で観るのをやめることもできず、最後までどうなっていくのか惹きつけられていた。
國村さんの崖の下での表情が、ホントに同情心を誘い、混乱に拍車をかけた。
ダンサブルな祈祷師「来る!」
とりあえず人んちに押しかけて怒鳴り散らして飼い犬撲殺されたら呪っちゃうな♫
この主人公のオッサン警官に感情移入ができない。自分が日本人だからか日本から来たよそ者を悪魔扱いするのは気分が良いものではないですね。日本の映画だったら、特定の国は避けてただのよそ者描写だっただろうな。
日本語がわかるから國村さんの穏やかな口調に怒鳴り散らす主人公に対して、理性的じゃなくて嫌だなって思いました。救いは唯一理性的そうな甥っ子の通訳。
祈祷師がちょっとチャラめの兄さん。日本だったら配役は江口洋介かな。祈祷シーンはカラフルでダンサブル。この辺の派手な祈祷シーンはこの間見た「来る」の祈祷シーンに被るものがある。「来る」のが後の作品だからこっちが被ってるというべきか。
韓国映画はあまり見てきてないので、先日見た「新感染」の次だったので、韓国人ゾンビすきよねー!というイメージ。あと演出が全部派手ですね!
國村さんの演技や娘さんの演技最高。
日本人がやっぱり怪しいよね→からの、ほんとはいいやつかもよ?→と思わせて、やっぱり悪もんでしたー!おーい!戻るんかい!って思ったわ。実は良い人オチで良かったよ、國村さん。
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自宅にて鑑賞。ミステリーの作り乍ら、中盤以降オカルトっぽくなり、オープニング・テロップ(新約聖書、ルカによる福音書24章 37-39節)の引用通り、進行と共に宗教色が濃くなる。K.ドウォンの“チョン・ジョング”とK.ドユンの“オ・ソンボク”もユニークだった言動が徐々にシリアスになり、後半では全く違った役どころとなった。監督の特徴である雨のシーンも多く、犬もしっかり登場した。本作に限っては、食事をするシーンが多い様にも思えた。妙なのを観てしまった想いが強く、万人にはお薦めし難いが、癖になる。85/100点。
・タイトルは物語の舞台である長閑な自然が広がる田舎町“谷城(Gok-Seong)”の当て字であり、韓国全羅南道谷城郡は監督の故郷でもある。どこか懐かしい風景とは裏腹に不気味で凄惨な事件と云う対比に正体不明の人物が跋扈する物語は観る者を惹きつけ、細かな綻びが気にならなくなる。
・'16年における第37回青龍映画祭にて、外国人として助演男優賞を初受賞した國村隼を始め、C.ウヒの“ムミョン”と謎を秘めたキャラクターを複数配置し、相対させた点が本作の大きな挑戦であり、不思議な魅力をもたらしたと云えよう。疑心暗鬼に陥り、二転三転するクライマックスから辿り着く真相は登場人物達同様、観客も惑わされ、善悪の概念が揺らぎかねない──独特な後味と輝きを放つ反面、好みが分かれる所であろう。
・H.ジョンミン演じる祈祷師“イルグァン”が儀式を執り行うシーケンスは約15分間に亘り、ノーカットで収録された。國村隼が行う祈祷シーンは監督曰く、ネパールのシャーマニズムを参考にしたらしい。“ヒョジン”のK.ファニは、もがき苦しむシーンに活かす為、約半年間モダンダンスを習ったと云う。
・クライマックスで登場するカメラは、'78年製ミノルタハイマチックS(Minolta Hi-Matic S)である。冒頭の引用──イエス・キリストの科白を繰り返し、写真を撮る國村隼の掌には聖痕も見られる。もし仮にK.ドウォンの“チョン・ジョング”が云い付け通り、三番目の鶏の鳴き声を待っていたらとも思うが、これらは個々のアイデンティティーが露呈する場面なので、結果は変わらなかったのではと思われる。
・鑑賞後に矛盾してる、辻褄が合わない、破綻している等と云った事を感じたのなら、それは先入観や固定概念がきっと邪魔をしている。亦、面倒臭さから思考停止に陥ったり、自分なりの解釈や熟考を止めると、消化不良、観客に丸投げ等の残念な感想を持ってしまう。思い込みや僻見等を捨て、フラットな状態で観れば、違った解釈が産まれてくるのではないだろうか。何より監督自身が生粋のクリスチャンである事を鑑みれば、自ずと答えが浮かび上がってくる。
・鑑賞日:2017年9月11日(月)
全43件中、1~20件目を表示