沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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信仰とは
私には熱心に信仰する宗教がない。
絵を踏むことによって、苦痛を与えられることなく自由の身になれるのならば、おそらくどんな絵だって踏むだろう。
しかしそうはいかないのが「信仰」だ。
神のために死を受け入れる人。弱さゆえに神を裏切る人。彼らのために神に祈る人。しかし救ってくれない神。
激しい迫害の中で、それぞれの「信仰」の形が浮き彫りになる。
ある意味処刑シーンよりずっと印象的で、「信仰」を考える上で重要な2つのシーンについて。
ひとつは。司祭である主人公が明確に仏教を否定するシーン。
キリスト教はこの時代の日本では迫害される側で、被害者なわけだけど。「時代や場所が違えば、迫害する側、加害者にだってなり得る」という、「信仰」の傲慢さをみた。
これはキリスト教に限ったことではなく、「信仰」それ自体が内包するものなんだろうな。
それから。主人公が日本の信者たちのある言動について疑問に感じているシーンがあった。非難しているわけではなく、ただなんとなく疑問に感じ、「あんまり良いことじゃないんだけどなー」と感じていた。
日本の風土について「キリスト教は根を張らない」と主張する者がいたが。そこまで極端なことではなく。ただ、「信仰」の形は風土による影響を無視できないというとかな。もっと言うなら、その人自身の価値観や哲学にだって影響を受ける。
結局、「信仰」の形は人それぞれで、その人の心にしか答えはない。
もうひとつ印象的だったのは、迫害する側の描かれ方だ。
為政者は理由もなくキリスト教を迫害しているわけではないことが明確に描かれていた。
確かに彼らが選ぶ方法は酷いけど、ただの悪者ではなかった。むしろ「信仰」の傲慢さとその危険性を察知した知性ある支配者だった。
キリスト教徒である原作者および監督が、「信仰」に真摯に向き合った作品だと、私は感じた。
熱心に信仰する対象がある人にとっては、どう見えるのだろう。何を感じるのだろう。
信じるという事
原作は未読です。
「信じる」っていうのはどういう事か考えさせられた。
最初は、死んだら神様の国に行けるんですよね!って女子が出て来たり、ロドリゴ神父が、自分は人の役に立ってる!って充実感を表したりしてて、
信仰と、報われることが=出てくっついてる感じがしたけど、
後半は、ロドリゴ神父が沈黙状態に入った後も「信じる事を貫いてた」的な描写が入ってて、
「信じる」事そのものにライトが当たってる感じがして良かった。
報いがあるから信じていた少年ロドリゴが、苦難を通して、沈黙の中に神様の愛みたいなのを見出して、自分も神様を愛する(信じる)ようになった。
みたいな。
ロドリゴの成長物語的な。
その変化が胸を打つ。
恋が愛になった。みたいな。
その愛が人を強くした。みたいな。
良かったです。
良い悪いは置いといて、
宗教とはそうあるべきだし、
それが人を生かすんだと思う。
哲学や宗教の本質を教えてくれる珠玉作品
舞台こそ江戸時代なれど、日本人及び日本社会の仕組みが欧米人から見たらこう見えるのかな?ということで、とてもワクワクドキドキしながら見ることとなった。嬉しいことに、貧しさはあるものの、登場してくる日本人は皆、尊敬に値する人間として描かれ、日本の無理解に基づく違和感は全くなく、製作者の原作、並びにそれを生み出した日本人社会への大いなる敬意を感じさせられた。
目に見える直接的なテーマは、キリスト教の本質的なものに関するメッセージである。キリスト教徒ではない一日本人が、これをどう捉えれば良いのか?自分は、変えてはいけない本質的ものと、環境や状況に応じてどんどんと変えても良い物が有ることを、この映画は教えてくれていると感じた。
只の絵で有るキリスト像(偶像)を踏まずに殉教していくことだけが、ほんものの宗教(哲学や真理)の信じ方なのか?踏まないことで、信者が殺されていくことを良しとはしない信心(思考)こそ司祭(指導者)として大切なのではないのか?信者でないと言って何回も転ぶキリスト教徒(状況に応じて発言がコロコロ変わる多くの日本人)は、生きるに値しないのか?そんなことは無いだろう、フェレイラもキチジローも、そしてロドリゴも、一生、絶対神の存在(変えてはいけない哲学や真理、本質的なもの)を信じ続けたではないか。それこそ、立派なキリスト教徒(現代人の生き方)ではないか!
拷問等のリアリティは満点で、歴史的考察もしっかりとしている。幕府大目付の知的文化度の高さと狡猾さを見せつけたイッセー尾形始め日本人俳優も含め、どの俳優も素晴らしい心に響く演技であった。特にガーフィールド演ずるロドリゴの転びの場面(沈黙していた神の声が初めて聞こえた場面でもある)は感動的であった。それ以外の箇所の映像も、歴史的リアリティと、自然及び街なみの美しさが同居して、とても素晴らしかった。信じていたものに懐疑を感じてきた方々、信ずるものや愛するものが有る、或いそういうものを持ちたいと考えている方々、つまり多くの日本人に、是非見ていただきたい映画と思えました。
神を信じる強さと宗教が持つ欺瞞のはざまで
江戸時代初期、禁教下の日本で布教をしていた恩師が棄教した報を受けた宣教師のロドリゴとガルペは、真実を確かめに長崎へ来日し、迫害される信徒達の姿を目撃する…。主人公ロドリゴらは、日本に向かう途中のマカオで漂流民キチジロー(窪塚洋介)に出会い、案内役として彼を日本に連れていく。主人公は来日し、隠れキリシタンの村で宣教を行う内に、キチジローが棄教した元キリシタンであり、家族を全員迫害で殺されていた事を知るが、キチジローは主人公らを裏切る。
昔原作を読んだ通り、非常に宗教色が強く、更に心理的な話なので退屈かと思いきや、そうはならないのが流石スコセッシだった。「沈黙」というタイトルの通り、劇中で音楽は一切使われず、虫や鳥の声、波の音など自然界の音作りに徹していて、それが非常に映画に奥行きを持たせているのが印象的だった。
別にカトリックでなくても鑑賞できる作品だが、個人的にはマタイによる福音書などを読んでおくと、作品中の喩えや構図がよく分かると思う。
映画版ではイノウエサマが明確に元切支丹であることが書かれていなかったような気がするのだが(見逃していただけかも)、イノウエが「種」や「土」の喩えを使ってロドリゴと問答してるシーンを観て、聖書を読んだことがある人はイエスの「種蒔く人」や「毒麦」の話をしていると気づくので、イノウエが聖書をよく知る人物である=元切支丹である、というのが分かるようになっている。
「沈黙」を観た後、久しぶりに新約聖書のマタイによる福音書とルカによる福音書を読んだのだが、主人公の宣教師ロドリゴは、自分をファリサイ派等から迫害を受けるイエスとその弟子に投影しているように思える。それでは、ユダの象徴であるキチジローは彼にとって何なのか。
ユダは銀貨三十枚でイエスを売った後自殺するが、キチジローは銀貨三百枚でロドリゴを売った後も信仰を捨てられずロドリゴに付きまとう。農民たちのキリスト教観は、聖書が読めず、長い間宣教師と関わりを持ってなかったせいで大分歪んでおり、その歪んだ信仰のまま、拷問され殺されていくが、キチジローだけは何回踏み絵を踏んでも信仰心を捨てず、主人公に赦しを求めて来る…。
聖書の「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」という言葉。これが主人公のキチジローに対する態度なのでは…と思うが、逆に言えば主人公は赦しを乞われている、求められ続けられるからこそ、神の使徒でいられるのではないか。
棄教後も彼を傍に置いていたことこそが、ロドリゴにとって「隣人への赦し」の実践のように見え、心の奥で信仰を持ち続けていた証拠とも思えた。
遠藤周作自身がカトリックでありながらカトリックに対して疑念を抱いたことがあったせいか、「沈黙」でのイノウエの主人公に対する問いかけは、かなり合理的で宗教というものに対する矛盾を的確に指摘してくる。あれがなかったら単なる切支丹かわいそう物語になっていた気がする。
日本以外の人と日頃接している人は、日本人社会の同調圧力の嫌らしさを充分知ってる(口には出さなくても)と思うが、外国人監督が撮っただけあって、そういう日本人社会の嫌な所がかなり正確かつ的確に描写されており、絶妙。
神を信じる事は強さなのか弱さなのか。宗教は究極的に人を救えるのか。人は主のように裏切る者を赦し愛せるのか……多分信仰を持つ人、持ったことがある人には非常に響く命題だと思うし、持たない人にも、信仰とは何かを考えるきっかけをくれる映画だと思う。
TOHOシネマズ府中にて観賞
純粋な理想の炎が異郷の地で燃え尽きる。皮肉かつ胸を打つ物語を堂々と作ったスコセージは流石。
俳優も良い。特に弱そうで強い塚本晋也、狡猾そうで相当論理的な語りのイッセー尾形、スコセージ映画らしい「主人公を引きずり込む男」窪塚洋介は傑出している。
唯一のミスキャストは今にも暴れ出しそうな貫禄のリアム・ニーソン。アクションスターとしての色が付き過ぎたか。
人間は諦めないし救いはある
残酷な映画、というのが率直な感想です。
キリシタンがまるでごみのように拷問されていく様は
人間が無価値なものと錯覚してしまいます。
あの時代、人は秩序の為にしか存在しなかったのかと
百姓の生きる意味は幕府にとって
年貢を吸い上げる虫程度の意味しか持たなかったのかと
知識として知ってはいたものの
映像を前に絶望感と無力感に苛まれました。
その中でパードレを迎えるとき礼拝を行うときの
モキチやお爺が頬の緩んだ明るい笑顔が
印象的でした。
キリスト教を知らずにいたらこの人たちは一生
笑うことを知らずに寿命を全うしたのかもしれません。
またイッセイ尾形演じるイノウエが
パードレに棄教を迫るあの巧妙な話術は
詐欺師のようでありやくざのようであり魔王のようでもあり
圧巻でした。
あの映画の中で正しかったと思えるのは
ロドリコ神父です。
形だけ、表面上神を棄てても
神を口に出来なくても
神を裏切るような行為に及んでも、
洗礼できなくても告解できなくても
礼拝が出来なくても
キリスト教の教えである
腹を立ててはならない
姦淫してはならない
復讐してはならない
離婚してはならない
敵を愛しなさい
などの諸々のキリスト教義を守って
生活されたのではないでしょうか。
その姿を妻が息子が周囲の人が見ることは
それだけで布教になったのではないでしょうか。
だからこそ最後にあんな救いがあったのだと思います。
どれだけ迫害されても自分の大切なものを捨ててさえ
何としても生きようとすることが正しい生き方なのだと
思わずにはいられない映画でした。
映画を見終わってから頭の整理が出来ずにいたら
隣の席のピンクのニット帽を被った
年配の女性に素敵な笑顔で
映画どうだった?
と聞いてくれて簡単な感想を言えて
頭がクリアになりました。
女性は
これから色々考えてね、と言って映画館を出ました。
何だか神様はいるかもしれないと思いました。
どのようにも解釈できる奥の深い映画でした。
久々に生きる意味を考える機会が持てました。
人の心を考えさせられる映画
題名は「沈黙」
誰の沈黙だろう。
追い詰められる日本人キリスタンの沈黙、
祈る伝教師の沈黙、
そして神の沈黙。
伝教師はどんなに祈っても、何も変えられない。だが、後半で彼は、神の声が聞こえるように...
「試練」に堪え、信仰を抱きつづいていた。
そもそも、信仰は何だろう。
信じることかなー 何かを信じて、そしてそれほど強い意志を持って信じる自分が好きになる。生き甲斐を感じる。
それが始まり。
一種の命より大事なアイデンティティのようなものだろう。
だから神の肖像のある鉄板を踏むことは、何度しても許されると思うことなく、踏む時点でその行為が人生の汚点になり、人は自分が好きでいられることもできなくなる。むしろ罪の塊となる。
面白いのはこの映画にはキチジロウという日本人は、何度も棄教徒になるが、何度も神父の許しが欲しかった。彼は神を信じるというより、神父の祈りに託したのでは。まさに「本当のキリスト教徒ではない」の典型だろう。
日本は沼だ。神父のこの一言は無力感を出してよかった。
あと浅野忠信演じた通訳はとても良かった。英語が喋れる日本人が多すぎるが、この通訳は映画の中に重要な役割を果たしている。 彼は、ただの意思伝達の存在ではなく、日本という沼の中の一人として、自身の意思も彼の言葉からわかる。
沈黙は神もまた苦しんでいたからか
日本におけるキリスト教信者への迫害は、1587年豊臣秀吉による、伴天連遂放令に始まる。秀吉は、唯一の絶対君主となるために一斉に刀狩りを行い、20万人の兵を率いて九州に侵攻、島津藩を降伏させて,天下統一を図った。1592年には,16万人の兵を朝鮮に出兵させ、明との友好的国交を絶ち、植民地化への道を探った。彼は早くから、スペインと、ポルトガルが日本を征服しようとしている意図を察知していた。それに対抗するために、彼は琉球王国、朝鮮、明の国を植民地化し、さらにポルトガル領インド、スペイン領フィリピンを征服する予定で居た。
そもそも秀吉を怒らせたのは、バテレン宣教師たちが、当時の習慣になかった牛馬肉を食べ、キリスト教を唯一の教えとして他の教義を否定し、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買し、巨利を得ていることが発覚したからだった。秀吉の命令を受けて、1597年2月 長崎西坂でスペイン、ポルトガル、メキシコの司祭と20人の日本人信者、合計26人が焚刑に処されたことは、クリスチャンでなくとも人々を恐怖に陥れた。
秀吉の死後、徳川幕府は、さらにキリスト教信者への弾圧を強め、1614年1月にはキリスト教禁止令を発した。このときから実に1873年明治政府がキリシタン禁止令を撤廃するまでの長い間、政府はキリスト教を禁じたのだった。
1610年にポルトガル人、クルストファ フェレラ司祭は他の司祭たちと共に、マカオから日本に入国し、20年余りの間イエズス会地区長という最高の重職について、布教を続け。他の隠れ残っていた37人の司祭たちや信徒を統率していた。迫害が始まる前の日本には、九州から仙台まで、たくさんの教会が建ち、いくつもの神学校が作られ、40万人もの信者が居た。しかしその後、弾圧と迫害の嵐が吹き荒れ、1637年には島原の乱が起こり、3万7千人の一揆に参加した信者たちが惨殺された。
クリストファ フェレラ教父が20年余りの困難な布教ののち、幕府に拘束され、拷問を受けた結果、棄教したという信じがたいニュースがローマ教会に伝えられた。
と、いうところから、遠藤周作の1966年に発表された小説 「沈黙」が始まる。
映画はこの原作を忠実に制作されている。
ストーリーは
フェレラ教父を心から尊敬し慕っていた弟子のセバスチャン ロドリゴ司祭は、彼が棄教したというニュースが信じられず、事実を確かめようと、フランシス ガルべ司祭とともに、日本に密航する許可を教会から得る。彼らは舟で1638年、ポルトガル リスボンからポルトガル領インドのゴアを経て、マカオに着く。そこで二人の司祭は、出会った日本人キチジローを案内人として、九州五島半島のモトギ村に潜入する。彼らは隠れ信者たちのために洗礼、布教をするが、弾圧は激しく困難を極める。村では司祭や信者を見つけて、役人に密告すると、莫大な謝礼金が出るといった密告社会が出来上がっていて、告発された信者たちには、踏み絵をはじめとして見せしめのための、激しい拷問が待ち構えていた。
ロドリゴ司祭は、キチジローの密告により逮捕され、長崎奉行;井上越後守から尋問を受ける。この男はロドリゴ教父を改心させた男で、それまでの宣教師や信者たちへの迫害はかえって信者の信心を強化する役割しか果たしていないことを知っていた。そして、より効果的に司祭を改心させる手立てを考えていた。
拘束されたロドリゴ司祭は、自分が拷問されるのではなく、自分をかくまって、食べ物を差し出し世話をしてくれて信者たちが自分の代わりに、目の前で拷問を受けることに苦しみ抜く。問答無用に踏み絵を踏んだ信者たちが、許されることなく首をはねられ、海に突き落とされて死んでいく。唯一の仲間だったガルべ司祭も、信者を追って水死した。激しい拷問にあとで殉教していく信者のための彼の祈りは、神に聞き届けられない。
ロドリゴは井上越後守の計らいで、日本に渡航する目的だったフェレラ教父に会う。かつての師に棄教するように勧められるが、しかしロドリゴは、フェレラに軽蔑と、憐憫の情しか持ち得なかった。まして、自分を裏切ったキチジローというユダを赦すことができない。神は何故祈りを聞き入れてくれないのか。神は沈黙を守り、信者の祈りに応えてようとしない。
ロドリゴ司祭は長崎中を裸馬に乗せられ引き回しの刑をうけたあと、暗闇の牢のなかで人々のうめき声を聞く。3人の信者がロドリゴ司祭が棄教しないために穴吊りの刑で死につつある。自分が棄教しさえすれば信者たちの命は助かる。ついに、ロドリゴはフェレラに押されて、踏み絵を踏む。
その後、ロドリゴは岡田三右エ門という日本名とともに、幕府から住居と給与を与えられ妻帯する。先に沢野忠案庵という名を与えられていたフェレラとともに、幕府に請われるまま、翻訳やキリスト教関係の執筆などをした。ロドリゴは30年余り生き、江戸で病死する。死ぬときに彼は殉教した信者からもらった十字架を持っていて、棄教したのは偽りで、偽装転向していただけだったことがわかる。
というストーリー。
フェレラとロドリゴの棄教とは、異なる。フェレラは絶望から棄教した。3日間汚物をつめた穴の中で逆さに吊るされ、耳に開けられた小さな穴から少しずつ血を流し続け、自分と同じように5人の信者が吊るされているうめき声を聞きながら、彼は神に絶望する。「神が何ひとつなさらなかったからだ。わしは必死で祈ったが神は何もしなかったからだ。」「司祭はキリストにならって生きよと言う。もしキリストがここに居られたらたしかに、キリストは彼らのために転んだだろう、」とフェレラは言う。
ロドリゴが踏み絵に足を乗せたのは、「銅板のあの人は言った。踏むがいい。お前の足の痛さはこの私が一番よく知っている。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負たのだ。」という声を聞いたからだ。そして彼は、悟る。「神は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。神は弱い者のためにあるのだから。」 ロドリゴは決して絶望していない。神は弱い者のために一緒に苦しんで、沈黙していたとわかったからだ。
自分の信心と志を曲げずに殉教していった信者たちよりも、痛みや恐怖から自分の信念を捨てた弱い者のために神は居る。という思想は作者、遠藤周作の一環したキリスト者としてのテーマだった。
当時、重税にあえぎ、貧困に苦しみ抜いていた人々にとって、生きていても良い事はない。死後に苦労が報われて、救われると信じたいという他力本願の思考は、限りなく仏教の親鸞の教えに近い。すなわち、「善人なおもて往生を遂げる。いわんや悪人をや。」という思想だ。
来世を信じて神に祝福されて死んでいきたいと願いながら殉教していく信者を前にして、「それは、神の教えとは違う」、と、ロドリゴは言うことができなかった。来世に行くために踏み絵を踏まずに拷問を受ける心の強い信者も、踏み絵を踏む弱い信者も、同時に神から赦されるべきだと、ロドリゴは考える。そして、ロドリゴは、自分を密告したキチジローのために、懺悔を聞き、赦しを与えた。
わたしはクリスチャンでも、親鸞の浄土真宗信者でもない。聖書は13歳のときに一度読んだきりだ。
人は宗教を持とうが持つまいが、人として、「良き人でありたい」と願いながら生きるものだ。「人は他人のために生きて初めて生きたことになる。」 というトルストイの言葉が好きだ。良き人になろうと努力をして、良き人として生き、良き人として死んでいきたい。踏み絵を踏むか、踏まないかは個人の問題だ。弱い人、強い人というものがあるわけではなく、人には誰でも弱い時も強い時もある。だから、遠藤周作が、この作品を発表したとき、カトリック団体から厳しい批判が出て来たことが不思議でならなかった。
人々がみな鉄の意志を持ち、正義と、神への愛のために生きることができるのであれば、文学や詩などありえない。芸術など成立しないではないか。
井上筑後守を演じたイッセー尾形の演技が冴えている。残酷な指導者ほど物腰が柔らかく、ねこなで声で優しい。そんなコントラストのある役を、ひょうひょうと演じていた。キチジローの窪塚洋介は、とても良い役者だ。
でも日本人役者の中で一番良かったのは、通辞役の浅野忠信。彼の日本人なまりのない英語が耳に快い。すばらしい。通辞役は、はじめ渡辺謙がやるはずだったそうだが、撮影スケジュールの関係で浅野忠信になったそうだが、これが正解。
この通辞は、自分もはじめは神学校で洗礼を受けたクリスチャンだったが、宣教師たちの白人至上主義の差別的態度や傲慢さに嫌気がさし、棄教した人物。貧乏侍の子供が食べていくのに有利なように、ポルトガル語を習熟したという秀才で屈折した男、という難しい役を浅野は淡々と演じていて、とても魅力的だ。
監督はフェレラ役を、はじめはダニエルデイ ルイスと考えていたという。本当に彼がやっていたら、もっとフェレイラの裏切る姿に複雑な陰影が現れていて良かっただろう。彼の心の葛藤なども、うまく表現されていたに違いない。
主役のロドリゴ役の アンドリュー ガーフィールドは今や一番輝いている若手の役者だろう。ことさらカメラが、彼の顔のアップを捕えているシーンが多かったが、さすが舞台俳優、、、苦悩する人の表情、心を痛めている表情が存分に表現されていて共感を呼ぶ。
この監督は、作品を、実に巧みな映像の力で、効果的に人に訴えることを得意とする監督だ。最高のテクニシャン。天才的なストーリーテラーだ。彼の手にかかれば、どんなつまらないお話も、わくわくどきどき連続、時には恐怖のどん底に突き落とし、時には最高の幸せ感で一杯にしてくれる。フイルム「シャッターアイランド」では、出だしから不安感をあおり、究極の恐怖感まで上り詰めさせてくれた。「ウルフ オブ ウオールストリート」では、裸の女の肛門に置いたコカインをレオナルド デカプリオが吸い込むシーンで始まり、終わりまでアメリカ的なアメリカのためのアメリカンテイストのシーン満載で、ゲップを連発させてくれた。
「ヒューゴの不思議な発明」では、映画というものの素晴らしさを、バケツ一杯の涙が出るほど巧に見せてくれた。彼は映像の魔術師。本物の映画屋だ。
その彼が1991年から「沈黙」の構想を持っていて、映画化することが念願だったという。日本の17世紀初頭を映像化するのに資金がかかりすぎるため、すべて撮影を台湾で行なった。それが、とてもとても残念。海と山の場面は良い。しかし、フェレイラが住居としていた西勝寺や、長崎奉行、井上筑後守の屋敷などが、安造りでがっかりした。
日本の四季の移り変わり、木漏れ日、真白の障子、欄間を通して光る陽、襖に描かれた山水画、生け花の楚々とした美しさ、淡い空気の変化、真新しい畳の香り、畳の縁飾り、磨き抜かれた廊下の輝き、瓦屋根に沁みる雨、緑の鮮やかさ、淡い色の花々、行灯の淡い影、朝夕の寺の鐘、本堂に至る石段、苔に覆われた庭、、、日本の屋敷、日本の生活様式の美しさ、、、、、。映画を作る前に、2日でも3日でもマーチン スコセッシ監督に、日本家屋での生活を体験してから撮影に取り掛かって欲しかった。そうすれば撮影を予算節約のために台湾のセットで行うなんてことはなかっただろう。残念だ。
原作は中学の頃読んだかな〜 私は宗教に無関心なので 信仰する者達も...
原作は中学の頃読んだかな〜
私は宗教に無関心なので
信仰する者達も
それを阻止する者達も
そこまでしなければいけない事なのかと
理解出来ない...
塚本晋也の
張り付けシーン凄まじかったな...
アンドリューガーフィールドに
「天国に行けば
この苦しみから逃れられると…
神と一緒に
幸せに暮らせるんですよね?」と
詰め寄るシーン
なんか勘違いが否めないが
あえて抵抗して
踏み絵を踏まなかったのも
安易な逃げなのかとも取れる
ただ楽になりたいと...
いったい信仰って何なんだ?
ここまで根絶やしに潰さなければ
いけないものなのか?
結局自問自答で
神に許しを得たかの解釈で
棄教するが
それなら
犠牲を増やす前に棄教しろって
腹立たしくも思えた
イッセー尾形の
やってる事は酷いが
言ってる事の説得力には考えさせられた。
まさに
サッサと転べ...だ
心の中で
信じていればいいじゃないか‼︎
静かな映画だった、音がなくなる場面は隣のスタジオの映画の音が聞こえ...
静かな映画だった、音がなくなる場面は隣のスタジオの映画の音が聞こえてくるほどだった。画面は美しかった。私は信仰を持たないけど、信仰を持つことはどういうものだろうと考えることはあって、答えを出さずに描いているところが良かった。それぞれの人に言い分があって、単純な悪い人は出てこないところも良かった。沼地、と言ってたけど、靄のかかる森や、海風や、それと対象的な、乾いた土のにおいとかも画面から伝わってくるようだった。蝿の羽音も印象的だった。原作も読もうと思った。長崎の踏み絵がある協会にも行ってみたい。
宗教観が希薄な私には難しい内容でした。
宗教観が希薄な私のような日本人には、登場人物達に共感するのが難しいと感じました。
主人公は劇中で何度も棄教を迫られ、それを拒み周りの人に危害が及ぶ度に、神に祈ることの意味に疑問を持つ姿があります。
神はこのような悲惨な有様を見ながら、なぜ沈黙しているのかと。
そのような目に遭ってもなぜ棄教しないのかということを鑑賞中に何度も考えてしまいました。
私には主人公の苦しみは完全には理解出来ませんでしたが、この映画を観たことで宗教について考えさせられました。
鎖国時代の宣教師を追体験した気分
日本に来るまでの映像が美しい。
来てからも、自然は美しい。
運命と処刑の残虐さが引き立つ。
お約束?の日本的処刑のシーンは虚を疲れた。
CGが少なく、圧倒的な画面。
つまり、カメラ、凄いです。
背教神父となり、政府の言うがままに従い、結婚して、火葬されても、彼らは変わらなかったというメッセージを受け取った。原作とは少し違う印象。原作の絶望感から救われた。10代の頃の読み方が悪かったのかな。
きついけど希望がある事を教えてくれる映画。
長いけど、長さを感じさせない。
お前のせいで、奴らは苦しむのだ。
映画「沈黙 サイレンス」(マーティン・スコセッシ監督)から。
原作は、遠藤周作さんの小説「沈黙」。
若い頃、一度読んだが、覚えているのは「踏み絵」の場面など、
「信仰」するという、静かだけど力強い人間の心の動きであり、
それを映像で、どう表現するのか、とても興味があった。
しかし、58歳で鑑賞した映画作品は、原作にほぼ忠実だけれど、
私の引っかかった個所は、歴史としての「宗教弾圧」ではなく、
また「他人事」としての物語ではなかった。
心を大きく揺さぶられたのは、イッセー尾形さん演ずる
「井上筑後守」が「宣教師」に言い放った台詞
「お前のせいで、奴らは苦しむのだ」だった。
(「お前が転ばぬ限り、犠牲が出る」というフレーズも・・)
「自分の存在」が「周りの人達を苦しめている」という事実を、
目の前で見るにつけ、心が揺さぶられ、心が心を裏切りそうになる。
それは、私たちの仕事や、日常生活でも同じことが起きていると、
観賞後に、ふっと気付いたとき「自分事」に変わった。
「信じる道を貫く、目の前の命を救う、どちらを選べば良いのか」
たぶん、どちらが正しいと言うことではなく、
そのことに悩み苦しみながらも、常に自分の存在を意識することが
大切なのではないか、と考えてみたりもしている。
作品のラストに、こんなナレーションが入る。
「私は沈黙したのではない。おまえとともに苦しんでいたんだ。
沈黙の中で、私はあなたの声を聞いていた」
もう1度、原作を丁寧に読んでみようかな。
沼地で守る。
常にグレーゾーンを這い回ってると気高い行為が居た堪れなく感じる。
窪塚演じるキチジローの狡猾さ(弱いと見せて彼が一番強か)が生きる
術なのだとしたら、さあ皆も意を決して踏み越えてしまえ~!と何度
思ったことか。まるで本人を模した役柄の彼も素晴らしかったのだが
浅野やイッセー(まぁ堪能すぎて小憎らしくて)そして荒波に磔される
塚本の演技が心に刺さる。おかしな日本人が出てこないのはさすがだ。
冒頭で棄教したとされるフェレイラだが、あの弾圧を目にしてすぐに
信者たちの命を守るためなのだと直感する。強い信念があるからこそ
自身に課せられた業を見定められただろうと。彼を慕い日本へ渡った
ロドリゴもガルぺも同様に民を救おうと尽力する。信仰を保ったまま
生活も守りたい信者を当時の幕府は激しく拒絶し次々と抹殺していく。
何ともはや3時間弱辛い場面ばかりの本作なのだが、後半フェレイラ
が棄教の事実を告げたあたりからロドリゴの苦悩と葛藤が更に色濃く
描かれてゆき物語は佳境を迎える。彼らの終生まで描き切ったことで
何を云わんとしていたのかが(グレーながらも)如実に見えてくるのは
素晴らしい。強さを語る者ほど弱くて弱みを見せる者ほど強かなのだ。
(沼地とはピッタリな形容。泥土が生き恥を掬いながら根を太くする)
すごくよかった
イッセー尾形が高圧的でなく、話せば分かる人でけっこう譲歩してくれているところが余計に主人公を追い詰める感じがすごくいい。キリスト教に不理解でなく、理解したうえで提示していて、むしろ主人公のほうが頑なで、よくない感じがする。
窪塚洋介のしょぼい感じがすごくよかった。そんな彼と腐れ縁で死ぬまで付き合いがあることに感銘を受けた。人付き合いをしていると失望することがあるのだが、それでも付き合い続けることの尊さが胸に沁みた。
見る前は不安だったけど変な日本描写がまったくなかった。
信仰にはまるで興味がないのであるが、もし自分が信心深かったらもっといろいろと面白かったのかなと思った。
1回目はすごく眠くて眠気を我慢して見ていたら頭痛がしてその後寝込んだ。2回目は体調を万全に整えて見たのだが、それでもちょっとウトウトした。それでもすごくクオリティの高い作品であることは分かったし、かつ面白かった。
使命
もしくは啓示。
まるで、そんなものでもあったのかと思うように鬼気迫るものがあった。
マーティンスコセッシが、この沈黙を撮ったのは必然なのではないだろうか?
正直、評論の外にあるようにも思う。
原作を読んではいないので、この作品が作者・遠藤周作の意図をどれほど反映してるのかは分からず…この映画の評論をするなら、まずそこから語らねばと思う程だ。
作者がキリスト教に心酔していたのか、それとも忌み嫌っていたのかでも作品意図は変わってくる。
「心の中は"主"にしか分からない」
この一文が、深く突き刺さる。
彼の亡骸と共に葬られた十字架…原作もその通りなのか確かめてみたいところだ。
作品のテーマは実に繊細で、そのおかげで戦争まで起こってしまう程の問題だ。
ただ、この原作をマーティンスコセッシが映像化するにあたり、監督は一つの明確な選択をしたかのように思う。
「人は惨めな生き物なのである。」
衣装も個性も、社会も。今も未来も。
人は、悩み、争い、貶め合い、殺しあう。
その連鎖から抜け出す唯一の方法として"宗教"が推奨されたりする。
だが人間はそれすらも争いの種にする、困った性質を持っている。
つまりはこの連鎖から抜け出す最善の方法は未だ発見されておらず、人類は全くもって救われないのである。
人は元来、産まれてから死ぬまで救済を常に必要とする愚かで惨めな生き物である。
そういう選択を映像化するにあたりしたように思う。
作品は、重厚な作りになってた。
文字である原作を出来る限り再現するというような熱意を感じた。
それにしても…日本の役者の存在感!
いや、存在の仕方とでもいうべきか…見事だ。勿論、そういう外観をメークなり衣装なりから与えられてはいるのだが、実に普通だった。まるで、その世界に生きていたかのようであった。
加瀬さんの気負いのなさ!
あれ普通の人だよ、全く他意なく生きてる人のそれだよ。
小松菜奈に妙な色気を出してる宣教師をぶっ飛ばそうかと思ったよ。
その中でも…片桐はいりさんの怪演たるや。
いや、怪演は失礼だな…きっと片桐さんはアレが通常運転なのだ。
俺は、笑ったのである。
あの作品の中で、唯一と言ってもいい。
明確に笑った。
アレを意図して採用したというのであれば、マーティンスコセッシの懐の深さに感動すら覚える。
確かナレーションが被ってたと思う。音のフォーカスもそこにはなかったし、台本に明記されてるような文脈でもなかった。本国では英語のテロップなんかは絶対つかないんじゃないかと思う。
つまりは、他にもあっただろう?と。
なぜアレを選んで残したのかと!
厳格な歴史の伝道者とも評価できる作品で!
…恐るべし、マーティンスコセッシ!!
また、あの現場でアレをぶち込んだ度胸の良さというか…信念というか…敬服する。
ブレない。
片桐さんの魂を見たような気がした。
そして、イッセー尾形さんのあの声。
どうにも真意が掴めない。
汲み取れない。
こいつはどっち側なんだ?
あの普段とは違う高い声…いや、そういう差も日本人なら感じるんだけど、そうじゃなくても腹から出してないと、そう印象付ける声。初めは違和感バリバリだったけど、物語への関わり方を追っていくうちに…いや、正直、観終わってコレを書いている最中に、あの声だったからこそ、あの明確でありながらアヤフヤな立ち位置でいられたのではないかと考えたりする。
なんと狡猾な…その役者としてのスタンスに戦慄する。この人の役作りは声にまで及ぶのかと…。
最早ここまでになると、役作りというよりは、観客へのアプローチとか、演出への挑戦とか…そんな域にまで踏み込んでるのかとさえ思う。何より、それを役者という足場から発信している事に戦慄する。
浅野さんは凄く英語が達者になってたなあ。
そして、この作品にはBGMの印象がない。
スタッフロールのバックには波の音が流れてた。
その波の…幾度となく繰り返す波の音に、この作品のテーマを感じたりもした。
観終わった後、下りのエスカレーターで「後世に残したい10本の映画の一本に入るな…」となんとなく考えてた。
そして、新宿ピカデリーのロビーでなんのキャンペーンかは知らないが「つっこみ如来」と名付けられてた像を見て、日本人の信仰はどこに向かったのかと笑いが込み上げてきた。
監督も突っ込まずにはおれんやろ…と。
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