沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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理想的な日米合作
江戸時代初期、キリスト教の布教を目的とし日本の長崎にて司祭として使命を果たしていたフェレイラ神父が棄教したとの報せを受けた2人の弟子がその真意を確かめようと日本に渡った様子を描いた歴史大作。 観る前に原作を読んでみたが非常に重い内容だった。 そしていざ観てみると割と忠実にそれが再現されていた。 字面から想像していた映像が実際に俳優の表情や演出をもってより生々しくリアルに描かれていた。 演出といってもBGMは静かな波音以外ほぼなし。それが余計に処罰の生々しさを引き立てて、穴吊や磔のシーンなんて眼を背けてしまうほどの表現だった。 表現はもちろん凄まじかったが眼を見張るのが配役。巨匠スコセッシの映画にしてこんなにも日本人俳優が。 主要キャストはさすがにハリウッド俳優だが準主役陣やチョイ役陣も日本人俳優が至る所に出演していた。 ハリウッド常連浅野忠信、いよいよ本格ハリウッドデビューか窪塚洋介、この作品の一つ前の出演作が僕明日だというとんでもないギャップの小松菜奈笑、そしてどこに出ていたEXILE AKIRAと全員が壮絶な演技を披露。 舞台が日本なだけに彼らの存在に違和感があるわけもなく、むしろあの風景に馴染んでたアンドリューガーフィールドやアダムドライバーの方が凄いわけだが日米合作としては稀に見る理想的なバランスで成り立っている。 去年の作品、スポットライトのときも思ったが自分は信仰がないため、絶対的な存在がない。ましてや姿形が見えないような存在のために命をかける、会ったことも見たこともない存在を描いた絵すら踏むことすら断固としてしない、人間の気持ちがわからない。 それをこの作品は描いている。容赦ない描写で。 教科書1ページで済まされてしまうような出来事を2時間半強に詰めリアルに描いた傑作。 タイミング的にも内容的にも監督本人的にもアカデミーを狙った会心の出来のはずが、撮影賞にしかノミネートされなかった。 アカデミーは癖があって相変わらず読めない。テーマが重すぎたのだろうか。残念。
大事なのは神か、人間か
迫り来る死に怯えながらも信仰を曲げない者たちと、その運命を見守るだけの自分 そこに追い打ちをかける、人を食ったような為政者たちの国を守る者としての正論と情け 一方、迷える私には何もお示しくださらない神 あらわになる自分と宗教の抱えていた矛盾、無能さ それでもなお、人は神にすがらねばならないのか? いろいろなジレンマ 私はあそこまで窮してはいない ってことは、まだやれるってことですね
スコセッジ監督にやられっぱなし
高校時代にスコッセッジ監督のタクシードライバーに感動してからのファンです。やはりその物語の再現性、ドラマティックな躍動感、タクシードライバーでは社会の矛盾に生きる人間の無力さを描き、この映画でも人間の自己矛盾の弱さ、それが故に神にすがる姿を見事に描ききった感動作です。 往々にしてこうした欧米の映画では、日本も含めたアジア人を滑稽に描きがちですが、この映画では当時の幕府の事情や、日本の仏教感についても好意的に描かれ好感が持てます。 それにしても殉教を尊いものとされる西洋の種々の宗教に対してどうにも共感できません。多くの宗教対立が現在もテロとなって世の中を脅かしていることをどう理解すれば良いのでしょうか?「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」の親鸞の教えの通り、自分も阿弥陀仏が掬い取ってくれることを望みます。
フェアな描写が生む説得力
日本人でもなく、キリスト教信者でもない人が見ても耐えうる細かでフェアな描写が、文化と文化の対立と軋轢を生々しく浮き立たせる一本。また二時間半の長丁場を、全くもって疲れさせず感じさせない物語の運びと映像の美しさ、一転してドライな残酷さが、たとえ宗教に興味がなくとも生きた人間の葛藤を十分に味あわせてくれる作品と見る。 さて、誰の言い分にも理不尽さはなく、ないからこそ相容れない時、試されるのはおそらく背負ってきた文脈ではなく個人の判断だろう。ただその責任を負いきれない時、判断を授けた相手を「神」と呼んで、許しを請うのだと感じた。 原作と共に浸ればなお、普遍的探究に旅立てるとおすすめしたい。
疑問は解けないまま…
人々を豊かにするはずの「信仰」が苦しみを生んでいく。苦しみから逃れるために信仰し、信仰したことで苦しみ、小松菜奈さんはパライソに行けたのだろうか?最大の疑問、何故そこまで自分たちの信仰に真理があると考えるのか?については解けないままでした。
クリスチャン同士で分かり合ってるような映画
原作を読んでから映画鑑賞。 ちなみに自分は母親がクリスチャンだった(洗礼も受けたが後に棄教)ため、少年時代に教会には10年近く通ったが、現在は無神論者。 そういう立場での鑑賞。 このテーマ、原作者の遠藤周作がクリスチャンで監督のスコセッシも当然クリスチャンということで、何やらクリスチャン同士で分かり合ってるようなムードがある。 例えば、原作ではロドリゴはラストで「棄教はしたが自分の信仰は揺らいでいない」と独白するが、映画ではそれを視覚的に見せる、と言った具合。他にも原作ではなかったセリフなども多々あるが、ほぼ原作を補強するような内容になっている。 なので無神論者、特にキリスト教に一度は触れて、そこに欺瞞を感じた者の疑問に応えるようなものは見せてはくれず(応える義理もないのだろうが)、むしろ「欺瞞の核」を見た思い。 ロドリゴもキチジローも遠藤もスコセッシも、真摯で善良な人間であることは疑えないし、ロドリゴの辿り着いた境地を否定する気もない。 作中人物では井上に最も共感(というより同調)したが、井上も多分同じだったと思う。
うーん。
宗教に対する思い入れが、わからないので全く共感できなかった。その為に命を差し出すとか、家族を犠牲にするとかわからない。 まず、大切なのは、人の命で、その人が生きる為に必要なものが、信じる者であるのに、その優劣が違う気がして、終始、うーんって感じで、しかも長い・・最後はもう、見てるのが辛かった。あと、牧師さん?の一人がカイロ・レンだったから、なんか余計に入り込めなかった。笑
一回観た位じゃなんも言えん!
救いの先に信仰があるのか 信仰の先に救いがあるのか とにかく何やら言葉で形容しがたい何かが心を占領しました。 原作を昨年読みましたが、 テンポの良い脚色にスコセッシ節を感じました。 面白かった!
宗教と信仰
キリスト教という宗教の欺瞞を洗脳的に見せながら、信仰自体は自らの心の中に見いだすものだということを上手く描いてると思う。 キリスト教は日本人の宗教観とは相容れないけど、それすら自分たちの好みに変容させる民衆を幕府は恐れ間違ってるとしたんではないかなあ。 ロドリゴやフェレイラの棄教はそこに気がついたからだと信じたい。沈黙する神に真理を見いだすのはまさに仏教で言うところの悟りではないかと。 それは決してキリスト教を否定してるわけではないと思う。 何を信じるのかという見た目の表現が違うだけで、信仰とは個人の心の中にあるものであり、それは宗教とは違うものではないかと強く思った。
深い、ただ深い
信仰とは?宗教とは何モノか? ひたすら自分に問いかけてしまう 今は原作の遠藤周作の「沈黙」を読んでいる キリシタン弾圧、宣教師はなぜそれでも日本へ布教しに来たのか?先日天正遣欧少年使節団についてのテレビ番組を見たがイエズス会の宣教師も悪事を働いていたようだが... さすがはスコセッシ監督の作品 堪能した 音楽のない、ただ自然の音を使う 深いのです
信仰
宗教について信仰心も大した知識も無いので、宣教師側から見た日本は思想の弾圧だし日本側から見た宣教師は危険で傲慢な思想の侵略だしで何が正しいのかはよく判らないや。 でもこれだけ長くて重い内容なのに気持ちが切れずに引き込まれ続けるのは1本の映画として凄いなと。
重いが、また見たくなる。
ロドリゴに次々と起きる試練、信仰とは? 神とは? 答えは人それぞれだと思います。 終始、重く処刑、拷問のシーンは辛かったです。 ちょっと長い気もしました。 塚本さんの演技というか体現というかは凄すぎました。 今までと違うアンドリュー・ガーフィールドが見れました。 日本の役者も意外な方がたくさん出演されていました。
なにもしないからこそ、神なのかもしれない
1960年代前半、江戸時代初期、日本ではキリスト教への弾圧が強まっていた。 布教活動に渡ったポルトガル人宣教師フェレイラ師(リーアム・ニーソン)が棄教したとの噂がローマに届く。 弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)のふたりは、真相を確かめるべく日本に渡ることにした・・・ というところから始まるハナシで、日本に渡ったふたりがみたものは、筆舌に尽くせぬほどの弾圧ぶりだった。 とにかく、映像と音に圧倒される。 暗闇の中で聞こえる風などの自然音、そこに静かに現れる白抜きのタイトル。 そして、本年度米国アカデミー賞撮影賞にノミネートされている撮影。 自然の息遣いを感じる(ただし、エンドクレジットをみると、いくつかのシーンは台湾で撮影されているようだ)。 さらに、長崎奉行らが行う弾圧・拷問のさまも容赦がない。 観ていて、本当に心苦しくなる。 そんな中でも、棄てない信仰、信仰心とは、一体なんなのだろうか。 正直よくわからない。 でも、身近なものに置き換えてみるとわかるかもしれない。 愛する妻や子どもの写真を前にして、「踏みつけろ。嫌いだ、可愛くもない、と言ってみろ」と迫られたらどうだろう。 やっぱり、出来ないよなぁ。 自分の心に嘘をつくことは、なかなかできない。 でも、「やらないと殺すぞ」といわれたら、うーむ、やっちゃうな。 映画のキチジロー(窪塚洋介)のように。 「これはだたの絵だ。踏んだところで、自分自身が神を(妻や子どもを)愛していることに変わりわない」と思いながら。 でも、その後、後悔はするだろう。 キチジローのように。 じゃ、妻や子どもを、そして神を愛するというのは、どういうことなのだろうか。 何かをしてくれるから愛するのだろうか、信じるのだろうか。 たぶん、違うのだろう。 何もしてくれなくても、愛するだろう。 いや、もしかしたら、何もしてくれないからこそ、愛するのかもしれない。 何もしてくれないということは、裏切ったり、軽蔑したりもしない。 映画を観ながら、そんなことを考えた。 <追記> 映画後半で、ロドリゴと対峙する井上筑後守(イッセー尾形)が交わす問答は興味深い。 筑後守は日本を沼地に喩えていたが、砂地に置き換えると、宗教に代わって、米国式グローバリズム経済とヒューマニズムが中東に迫っているような気がしてならなかった。 それにしても、撮影以外は無視した米国アカデミーも、なんだか偏狭な気がするなぁ。
日本人の本質を理解し表現することはスコセッシ監督といえども難しかったですね。
最後の所を除けば、原作に忠実に映像化されてました。 絵も綺麗だったし、自然の描写もセットも町並みもよかった。 役者の演技もみんなよかったし。 でも井上さまの演出上の表現はイマイチでした。 別にイッセー尾形さんの演技が悪かっただけではありません。 あくまで演出の話です。 私には原作の井上さまのキャラとは全く別物に見えて、まあ、それでも原作とは違った良さを出してくれればよかったのだけれど、どうも違和感が残って仕方ありませんでした。。 スコセッシ監督は日本人のもつ宗教観を映像で表現できてなかったと思う。 私にとっては全く心を動かされませんでした。 原作読んだあとにはあれほどショックを受け、考えさせられたのに、映画では、その欠片すらなかったです。 遠藤周作先生は、日本人だからそこは十分すぎるほどわかっていて、それを文字で表現し、原作のスゴさにつながっていたのだなあと改めて気付きました。 まあ、しょうがないですね。 監督は日本人ではないですからね。 私たちが西洋人ではないので、彼らの本質がよくわかっていないのと同じように。 そういう意味では、民族の本質的な部分を理解し表現するのは難しいのだなあと思いました。
信仰なき日本における信仰の在り方
自分には信教がないので、劇中の葛藤を色んなものに置き換えて見ていた。資本主義、キャリア、家族… キリストが絶対である主人公にとって、その絶対性を否定されることはこの上ない苦痛であったろうことは想像に難くない。 アンドリュー・ガーフィールドが絶望していく演技はそれだけで見応えがあった。 そしてイッセイ尾形、相変わらず最高である。 日本を題材にしたハリウッド映画、ケン・ワタナベよりもイッセー尾形の方が存在感が大きいのではないか? あの嫌らしい言い回し、彼にしかできない。
表に出さなくとも自分の心の中に信じるもの、信じれるものがあればいい...
表に出さなくとも自分の心の中に信じるもの、信じれるものがあればいいのかなぁと思いました。昔のように宗教という縛りはなくとも、今の時代にあった自分の信念を見失わないように!というメッセージが込められてるのかなと私は感じました。 もうちょっと歴史を知った上で年齢を重ねたときにまた観てみたいです。
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