沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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信ずる心に語りかける
マーティン・スコセッシが遠藤周作の「沈黙」を映画化すると言って、どれほどの歳月が流れただろうか。
スコセッシの次回作として何度も企画が上がっては消え、その都度キャスティングも変わり、一時はもう映画化されないんじゃないかとも思った。
が、スコセッシ長年の念願の企画がやっと!
宗教を扱っている作品故、非常に重苦しく、小難しいと言うか、なかなかに理解し難い点もある。
日本人としては胸が痛くなる描写も。
同じ日本人なのに、信ずるもの違いから、迫害受ける者、迫害する者。
スコセッシ映画でありながら、アカデミー賞にもほとんどノミネートされず。
しかし、本作は紛れもなく力作!
その昔見た、同じく力作であった篠田正浩版にも引けを取らない。
スコセッシの信仰心は有名な話。
だから、スコセッシが本作の原作に魅了されたのは意外な気もする。
だって、キリスト教信者から見れば、本作は“苦しみ”でしかない。
邪教としては蔑まされる若きポルトガル人宣教師、キリシタンたち。
自分たちの信仰心を、まるで犯罪者かのように身も息も潜め、隠れなければならない。
彼らが受ける生き地獄。
どんなに苦しんでも、どんな仕打ちを受けても、信ずる主は沈黙を通し答えてくれない。
主人公であるポルトガル人宣教師、ロドリゴの苦悩。揺らぐ信仰心。
ちょっとネタバレになってしまうが、彼も師と同じく棄教さぜるを得なくなってしまう…。
しかし、ラストカットで分かった。
スコセッシの深淵な思いはそのシーンに込められていた。
主は常に語りかけていたのだ。
彼らの信ずる主を体現したとも言えるアンドリュー・ガーフィールドの熱演が見事。
アダム・ドライヴァーも本来の実力を発揮し、リーアム・ニーソンも久し振りに重厚な演技を見せてくれる。
だけどやはり本作は、日本人キャストの熱演あってこそ!
浅野忠信が最も大きな役回りかと思いきや、次の二人が特に印象残った。
まず、窪塚洋介。まさしく彼の役は、本作に於ける“ユダ”だ。主を裏切り、家族を裏切り、ロドリゴまでをも裏切り…。彼の本心は把握しにくいが、誰よりも人間の弱さや人間らしさを表していた。
そして、イッセー尾形。「イングロリアス・バスターズ」でのクリストフ・ヴァルツの如く、何処かユーモアを滲ませつつ、狡猾。キャスト教弾圧の責任者で、まずは対話し一応は理解を示した上で、残酷な仕打ちを命じる。思慮深く冷徹な敵役を持ち前の演技力で妙演。
ゾッとするような拷問を受ける塚本晋也や、小松菜奈も綺麗な顔を汚して頑張っていた。
日本人キャストを信じてくれたスコセッシに感謝の意を伝えたい。
自分は無宗教だが、宗教をあからさまに非難するつもりはない。
幾つかのキチ○イな宗教は例外として、それぞれ信ずるものは自由だ。
何人足りとも、それを非難する資格はない。
非難されるべきは、頑なにそれを悪と決め付け、その者の心を殺す事だ。
それからどんな歴史があったか詳しくはない。
本作を見ると、今現在、日本でもよくキリスト教が浸透したと思う。
ここに至るまで流された血や涙。
彼らが受けた受難と信ずる心に胸打たれた。
丹波哲郎?
篠田正浩版『沈黙』と比較すると・・・
スコセッシ版『沈黙』のフェレイラはリーアム・ニーソン、
篠田版『沈黙』のフェレイラは何故か丹波哲郎(苦笑)。
両方を見ると、何故丹波哲郎かの意味がよくわかる。
どういうことか?
なぜタイトルが<沈黙>なのか、
その沈黙がフェレイラに与えた影響、
<転ぶ><転ばない>のそれぞれの葛藤、
司祭が踏むということ、
などが丹波哲郎の方が日本語だけあって理解しやすい。
リーアムにいさんもほぼ同じセリフなんだが、沈黙を読み解く芝居まで昇華できていない。
(俺はもう警官をやめたんだ・・・あるいはジェダイがフォースを棄てた感で
押し切ろうとするのも悪くは無いが、これは主題!
言葉の問題というよりも主に芝居の問題またはそれをOKにしたスコセッシの問題。)
ここのフラット感が、踏み絵を簡単にしてしまう日本人や
反対に踏み絵をしない日本人の深い葛藤の縁取りもぼやけさせてしまう・・・。
とはいえ、塚本さんと、窪塚くんのがんばりで十分に寄り添って観れるし、
スコセッシにYou talkin' to me?と言われたら、ハイこれ以上は欲しがりません・・と、
ひざまずいて、人よりも大事な国、自然よりも大事な共同体、
人間の命よりも大事な宗教なんて存在しないというテーマを
作品全体で表現されてますので十分に楽しめました~ということにしておこう。
冒頭とラストは華厳寺を思い出す。
ぜひ原作とあわせて。
傑作です
それは予想を超えたものすごい作品でした。
時代の逆を進むような堂々の160分、私が観に行けた頃は既に1日1回のみ上映になっていたので、時間を作るのがとても難しかったです。
でも監督は自分の撮りたいようにするのが一番だと思っているので、こういった尺の長い作品はこだわりを感じて好きです。
そしてタイトルにあるように音楽がありません。
虫の声、風の音、潮の音で構成されているのですが、退屈どころか「だからこそ」胸に迫るものがありました。
OPからそれらの演出が効いていて、スタッフロールまでそれで締める。実に素晴らしかったです。
スコセッシなので遠慮のない演出で、弾圧している様は観ていて苦しさを感じるほど。
また当時の考察をきちんとしているのでしょう、日本人が観ていても違和感を感じずにスッと入ってきました。
またキャストも気になる人が多く「スコセッシの作品に塚本晋也が出演している」ってだけで、観ないという選択はありませんでした。
その塚本晋也演ずるモキチが真っ直ぐで素晴らしい。特に聖歌を歌っているシーンはかなり胸にくるものがあり、作品の中で一番印象に残りました。
そしてイッセー尾形の怪演。この作品を支配するかのような、ものすごい芝居を観せてくれます。
物語は基本ひたすらに重いのですが、それでいてどんどん引き込まれていくんです。
そして話が進むにつれ深く深く潜って行き、宗教そのものを超え、命の根元に迫るような内容でした。
スコセッシはこういった「誰かの生涯」を描くのが本当上手いですね。
70を過ぎても未だ衰えぬ素晴らしい作品、まさに傑作です。
日本人の特質的な性分を映像化した作品
カソリック棄教者の遠藤周作ならでは宗教観を見事に映像化した作品です。
カソリックの実直な侵略性と日本人の強情な保守性との争いにおいて、遠藤周作は正義を日本側においた。
豊臣秀吉も徳川家康も禁教令をだしたのは布教活動を積極的におこなうカソリックに対してであり、出島貿易を許されたオランダは布教を行わないプロテスタントであったと出島のオランダ商館長は手記を残している。つまり、禁教令は国民国家としての多民族化の拒否および文化侵略の拒否である。これは現在の移民問題にも通じる日本国が抱え続けているテーマである。また、他民族拒否の根底には神道および日本独自で発展した日本仏教という宗教信仰からくる異教排斥心が拭い去れない。
作中でも日本側の代表として長崎奉行が隠れキリシタンや主人公に改宗を幾度も促す。奉行は「本心でなくてもよい、形だけでよい」と訴える。日本人らしく本音と建前の使い分けろと指示するのだ。結果、本音と建前を使い分けられない者は死ぬことになり、本音と建前を使い分けた主人公の命は助けられる。そして、建前を覚えた主人公に奉行は一言「日本にようこそ」と告げる。また、本作で描いた本音と建前を使い分けろという奉行の真意は「建前であっても改宗し、本音の部分で"布教をおこなわない"カソリックを信仰するならば糾弾する必要はない。それはもはやカソリック教徒ではなく、まったく別の隠れキリシタンという存在なのだから。」というものであった。このあたりは恐ろしいほどに日本人の気質を描いており、日本は日本で有り続けるために狂信的なまでに保守の本質をもつ国であるというメッセージがあるように感じた。
上記のように私が熱い思いをたぎらせられるのもイッセー尾形さんをはじめ役者さんたちがとても素晴らしく、監督やスタッフの尽力のおかげで感動的なまでに完成度の高い映画になったからです。この映画に携わった皆さんに感謝を伝えたいです。
沈黙
もやもやします
スコセッシ監督のファンです。音楽映画も好きです。
これは物語だから史実通りではないです。
貧農の生活苦と、布教活動への情熱はとても良く描かれていました。隠れキリシタンへの弾圧も凄まじい表現です。
隣の女性は後半、すすり泣きしていました。
私は冷静というか、感情があまり揺れ動きませんでした。
なぜなんでしょうね。
九州に生まれ育ち、天草四郎の事、隠れキリシタンの里の生活など、折々聞いてきました。
誤解を恐れずに書くならば
井上筑後守の話が説得力あるなぁと思いました。
日本が、中国の上海やマカオ、インドシナなどと
同じ路を辿らなくて良かったなと。
弱い立場の人達を虐げ、死をもって制するのはもちろん反対ですが。
遠藤周作の原作を読んでないので
なぜもやもやするのか?これから考えてみます。
原作にはないラスト
遠藤周作の原作が未読だったので午前中に読んで、その午後に観に行った。原作小説について言うと、まず初めから結論がわかり切っているのに読者を作中に引っ張り込んで離さない作者の筆には感嘆した。神の沈黙の中で信仰を巡って葛藤するロドリゴの心中を上手く捉えていた。
かなり原作には忠実。音楽が全くなく重苦しい雰囲気が作品全体を支配していて、残虐なシーンも隠さず出てくるので、正直観ていて胸糞悪い。テーマ自体もしっかり重くて、娯楽映画としての要素は全くない。妥協のない見事な芸術作品だ。
ただ自分が観ていて残念に思ったのは十字架と共に火葬されるラストシーンだ。原作ではロドリゴが最期まで信仰を捨てなかったかどうかは語られない。この終わり方ではスコセッシが読んだ沈黙のただの紹介になってしまう気がする。
異国による精神の侵略から国を守るためには、ここまで苛烈な弾圧をしないといけないのだろうか。
国体を維持するために特攻隊という非情な手段をとった戦時中を思った。守りたい気持ちはわかる。でもやり方は間違っていると思う。異国の脅威に民草を利用する為政者の傲慢さ。日本の統治が民草に満足感を与えるものだったら、基督教を信仰することもなかったのだろうから。
国という公、宗教という公。だが果たしてイエスは、公のために教えを広めたかったのだろうか。彼が救いたかったのは、あくまで目の前で苦しんでいる隣人ではなかったのだろうか。基督教は確かに強い。その強さが人を苦しめる。本来のイエスの教えでは、踏み絵を踏んではいけないなどとは言っていないだろう。形式的な信仰から、魂に基づいた真実の信仰への転化。「転ぶ」ことで、新たな形を見つけたのかもしれない。形式に捉われず、ただひたすら神を信じたキチジローこそが、イエスが思った真の信仰者だったのでは無いだろうか。
ほとんが自然音のみのBGM、コントラストの高い絵作り、真俯瞰からの映像など、印象に残る演出が多かった。
ヘビーな感じ
わからない・・・
重い
マスコミも取り上げていませんが、かつて原作が話題になった頃、篠田監督が映画にしました。何十年という月日が経ち原作も映画も克明には思い出せませんが、クリスチャンがどう撮るか比較したくて見に行きました。スコセッシ監督のほうがやはり的を射てると思いました。アメリカ国籍でも、聖職者かマフィアかになっていたかもというイタリア人と分かって納得しました。
映画としては確かに最後の20分は蛇足の感がします。が、最大の疑問は、原作のまさに神の沈黙の頂点?を思わせる、静かな怖ろしい場面、孔つりの場面のうめき声だけの静寂な世界が騒々しい場面となっていたことです。神の沈黙があの場面に集約されているのが原作だったと思います。サイレンスという副題も気になります。沈黙は「沈黙」です。何も英語を付け加えることはないと思います。
巨匠マーティン・スコセッシ監督の「沈黙」を観た。結論から言うと、映...
巨匠マーティン・スコセッシ監督の「沈黙」を観た。結論から言うと、映画は観ずに遠藤周作さんの小説を速読でも良いから読んだ方が良い内容だった。
何が期待を裏切ったか?それは「徳川幕府時代に長崎を通じて入ってきたキリスト教に何故長崎の人々があれだけ心酔したのか、そこが全く無い」から。いきなりキリシタン( 切支丹 )に踏み絵をさせる場面が出て来て分かります?僕は分からないと思う。
日本という異国・異文化圏にたちまち浸透して徳川幕府もその拡大を怖れたキリスト教。これをスコセッシ監督の目から見て描いて欲しかったが全く欠落している。多分そこの史実( エピソード )が伝えられないと日本史を学習しなかった人も海外の方々も理解出来ないと思う。とても残念だった。
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