沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
全415件中、281~300件目を表示
救いとは
信仰心がまったくのゼロなので踏み絵を踏めない意味が分からない…とずっと思ってきてたんだけど、あれほど厭らしく苛烈に追い込んだのだとは知らなかった…
神父自身でなく他人の命をダシに棄教を迫り、それを何度も何度も再確認させる…
救いとはなんなのか?
死後のぱらいそなのか、現在の救いなのか?
そもそも救いとは生きている間にもたらされるものなのか…
信仰心を秘めたまま死ぬことが救いなのか…
なぜスコセッシがそれほどまでにコレを映画化したかったのか考えさせられる…
しかし、アンドリュー・ガーフィールドや窪塚洋介・塚本晋也をはじめとして主役級の演技は素晴らしい…特にイッセー尾形の厭らしさは特筆もの。
ただ小松菜奈はいただけなかったな…
演技云々よりも、綺麗な子を特殊メイクで汚くする事もないんじゃないかな…
沈黙 サイレンス
大ヒットするような内容の映画ではありませんが、見た後に心の中に何かを残す、考えさせる、いつまでも忘れられない映画だと思いました。ただ、一つ、一つのシーンに遠藤周作が、小説「沈黙」に込めた思いの上に、スコセッン監督の思いが重なにられているのを感じ、それがとても深いので、一度映画を見ただけでは、それを汲み取れなかったのを感じました。何度か見なければ、汲み取れない気がしました。いずれ発売されるであろうDVDを購入して、改めてじっくり見ながら、その思いを汲み取りたいと思いました。
万人向けではないが,秀作
当初、鑑賞するつもりはなかったのだが、「タクシー・ドライバー」の監督が、スパイダーマンやカイロ・レンやシンドラーなどの有名俳優を使って撮影したというので見てみたくなった。
遠藤周作がこの小説を書いたのは今から 50 年も前の話で、これまで一度映画化されている。信長が比較的寛大に接したキリスト教に対して、秀吉と家康は禁教にして非常に苛烈な処罰を行なったわけだが、これは、キリスト教の宣教師たちが日本人信者を奴隷として東南アジア方面に売り渡していたことが露見したことによるものである。だが、学校教育においては、長年に亘り、キリスト教の平等思想が徳川幕府の身分制度に反するためであると教えられてきた。 そもそも徳川幕府の身分制度と言うが、士農工商などという制度は江戸時代には実在せず、戦後日教組がでっち上げたものであることが明らかにされてしまっているのであるから、それに反する平等思想などという理由もまたでっち上げなのである。
禁教後のキリスト教徒に対する処罰が苛烈を極め、極めて残虐な方法で信者を殺戮したという事実は認めざるを得ないようだが、それは世界各地でキリスト教を弾圧した歴史においてほぼ同様であって、日本の場合が飛び抜けて残虐であったわけではない。キリスト教の教義においては、イスラム教のように弾圧して来る相手に対して聖戦を仕掛けろなどということはなく、試練だと思って非暴力で耐えろと教えられるが、それは教祖のイエスの最期そのものから来る教えであり、殉教者は聖人として崇拝される。宗教家にとっては魂の救済こそが最重要なのであって,魂か肉体のいずれかを選ばなければならなくなった場合は,魂を選ぶものなのである。
中世の宗教改革において、それまでの腐敗を糾弾されて行き場を失ったカトリック派は、イエズス会を立ち上げ、ヨーロッパを離れて新天地に布教すべく、アフリカや南米をはじめとして、遠くアジアの極東に位置する日本にまで宣教師を送って来た。イエズス会による布教活動においては,多くの場合、現地人から迫害を受けたり、無理解に晒されて多くの宣教師が悲劇的な目に遭っており、その南米を舞台にした映画に、1986 年に作られた名画「ミッション」があった。
どれほど宣教師や信者が酸鼻を極める迫害を受けようと、神は沈黙を守り続け、自ら信者たちを救ったなどという話は一度もなかった。実はこれこそが、近代科学を発展させるきっかけになったのである。ニュートンもケプラーも熱心なキリスト教徒であり、神が直接語りかけてくれないので、神が自ら作られたと聖書に書かれているこの世界を調べれば、神の意志が分かるのではないか、という推論に基づいて、理詰めで世界の成り立ちを調べて行ったら、皮肉なことに、聖書の記述と違う結論が多発してしまったということなのであるが、話がそれるので続きは別の機会にしたい。
遠藤周作は、母親によって子供の頃に洗礼を受けさせられたようだが、教義について熱心な信者とは言い難く、魂よりも肉体の救済を選択するというこの小説も、カトリックの名高い高僧からは異端的な考えとして批判されている。恐らく、この作品に出て来るキチジローは、遠藤周作の分身なのだろうと思われるが、踏み絵を踏んでは宣教師に懺悔するという行動を繰り返すこの男は、イエスを金で売ったユダのようにも思えるし、熱心な信者になれない自分を自虐的に描いたのではないかという気がする。
踏み絵を踏めないというのは、偶像崇拝を禁じられているキリスト教徒としては非常に奇異に感じられるのだが、この当時日本に伝来したキリスト教は、布教のために教義の一部をローカライズすることがあったようで、例えばキリストは太陽神であるといった教えもあったようだ。これではまるで大日如来を本尊とする真言宗のようになってしまうが、そうした先行宗教になぞらえて教えるというのは、布教上のテクニックとして妥協の産物だったのだろう。そのため、仏像を熱心に拝んで来た日本人には、踏み絵を踏めない者が多発したのかも知れない。ただ、宣教師の方も「踏むな」と教えていたのは解せなかった。
理想に燃える若い宣教師が、世界の果てに渡って布教するというのは、いかにも頭でっかちな考え方だと思わざるを得ない。まず、言葉が通じないのをどうするつもりだったのだろうか?この作品では英語に置き換えられているが、登場人物の多くが英語を話していたことには目が点になった。ご都合主義の最たるものである。問題はそこではないという趣旨なのかも知れないが、言葉も通じない世界に渡って来た宣教師たちは、猿の惑星にでも来てしまったと思ったに違いない。なので、猿が迫害された時と、仲間の宣教師が迫害された時とで、あれほど態度が違うのだろうと思わざるを得なかった。
迫害する日本の役人は、鬼のような悪役として描かれるのかと思ったら、物腰が柔らかく、どちらかというとにこやかな表情を見せていることの方が多かったのには驚かされた。必ずしもキリスト教徒に悪意を持っている訳ではなく、役目上止むを得ず取り調べを行なっている立場なのだということなのだろうが、だからと言って信者に同情して見逃したりすると、自分が責めを負わされるのである。イッセー尾形が演じた井上筑後守は、にこにこしながらユダヤ人を大量に殺戮したアウシュヴィッツ強制収容所のヘス所長を彷彿とさせるような恐ろしさがあった。
英語の発音は、浅野忠信が一番上手く、流石に通詞役に相応しいと思った。イッセー尾形の発音も、アメリカ暮らしの長い人にもああいう話し方をする人はいるので、非常に自然に聞こえた。一方、キチジロー役の窪塚洋介の発音はかなり問題があると思った。音楽は聞いたことのない名前の人だったが、ハンス・ジマーを彷彿とさせるような見事な音楽を書いていた。ただ、音楽の出番があまりなかったのが、ちょっと気の毒だった。エンドタイトルに音楽が流れない映画というのはあまり記憶にない。
演出は、スコセッシらしく、暴力表現には容赦がなかった。拷問シーンの割合も高く、重い映画であった。日本人の描写は、侍は清潔ななりで描かれていた一方で、百姓の姿を汚く描き過ぎではないかと思った。いくら土にまみれた百姓でも、お祈りをするときや十字架を手に取る時まで手を汚いままになどしていたはずがないだろうと思った。原作にはなかったのに、最後に追加してあったシーンによって、主人公の後半生が偲ばれたのは、恐らく監督のアイデアなのだろうと思うが、慈悲のようなものが感じられる良いシーンであったと思った。
(映像5+脚本4+役者5+音楽4+演出5)×4= 92 点
宗教観の違い
異国の地からキリスト教を布教するためにやって来た宣教師の半生を描いた作品です。
宣教師達は自分達の信じている神と日本の切支丹の信じている神に対する認識の差に直面します。
そして日本の切支丹達の信仰が強すぎるが故に更なる苦しみに耐えなければならない宣教師の葛藤は随所に良く表現されていました。
神を信じ抜くことで多くの人が犠牲になるなか、踏み絵でも何でもして生きることにしがみつくキチジローがとても人間らしくある意味まともに感じました。
そして神のもつ沈黙の意味、これはキリスト教を深く知らない私にとっては到底理解できないことでした。
最初から最後まで拷問のシーンばかりがクローズアップされてしまい、昔の日本のキリスト教迫害が悲惨だったという印象しか残りませんでした・・・(きっと伝えたかったことはもっと別にあったんでしょうけど)
監督も昔の日本の映画を意識して作られたのか、どこか単調で間延びした尺の長い作品で自分には合いませんでした。
無神論を語るには
隠れキリシタンのいうハライソについて二人の神父の対応が違ってくる。隠れキリシタンのいうことを認めた神父は”転び”、”泥沼”に沈む。彼らはキリスト教徒だったのか。
無神論を語るにはまずキリスト教徒になる必要がある、というようなことをシジェックは自身の映画の中で語っていた。
アーミルカーンはPKの中で神様と神様の言葉を伝える人の間に"混信"があると言っていた。混信が有りえると思うこと自体が重要か。
日本人にとって宗教を語るのは難しい。
圧倒的画面
画面が素晴らしく美しかったです。華美、というものより、命の圧力を感じるような絵はさすが巨匠!と唸らせられます。
わざとらしくなく、みすぼらしくなく、この時代の日本をとても高度なレベルの説得力をもって描いていると思います。
原作を10〜20代の時に何度か読んでいたのですが、その時に感じた「やばい、答えのない大きな問題に遭遇してしまった。人間って…!」というやっつけられた感が久々に襲って来ました。
よくぞ映画化してくれたという感じ。
私はとてもすごい映画だと思います。もっと評価されてよいのでは?
数々の矛盾を突く作品
原作を読んでから鑑賞。客層もやはり年配客が多めだった。
スコセッシ監督が描く「沈黙」はどのような物かと、思ったら予想以上に良い物だった。
17世紀前半の日本はガチガチの鎖国で、オランダ以外とは一切貿易を行っていなかった、島原の乱以降でキリスト教は禁止だった事など最低限の日本史は知っておいた方がいいと思う。
矛盾というのは、キリスト教自身の抱える矛盾と日本という国側が抱える矛盾。
当然当時は信教の自由など認められているはずがなく、仏教のみが許される世の中。しかし、人は一度信仰してしまったら例えお上の命に背いてでも信じてしまう、人の心は政治では変えられない。(これは奉行も再三言っているし、ラストシーンも表してる)「形だけ、形だけ」という台詞が既に矛盾を表している。
一方キリスト教も信教の自由の精神があれば、人が何を信仰しても自由であるはずという今日ではあたりまえの事を犯してるとも言える。
そしてキリスト教が抱える頑なさが、21世紀になってもさらに問題を深めている。(同性婚の禁止や中絶の禁止、進化論の否定)
僕はスコセッシ監督は江戸時代の日本を題材とする事で、キリスト教が抱える数々の矛盾を指摘したかったのではないかと考える。
勿論、日本側が行っている宗教弾圧や拷問のなどはとても許される物ではないが、本質ばかりそこではないと思う。
登場人物のキチジローこと窪塚さんは一見根性なしのクズとも取れるが、一方でこの映画で一番感情移入出来るのは彼ではないかと思う。
彼のセリフの数々が実に絶妙に的を射ているし、パードレも我々観客をも悩ませる。
過去の人がこのような弾圧を行っていたという事は、現在の我々でも十分に起こりうるし、単に「昔の人は酷いね~」で済ませてはいけないと思う。
多面的にそして色々な人と観た後感想を述べたくなる作品。
原作にもかなり忠実に描かれてるし、変な日本描写も少なかった。役者の演技も素晴らしかった、日本人も外国人も。
オススメです。
5分で転ぶ
高校生の時に原作を読んでいた(自分は50台)が内容は全く忘れていた。全体を通して冗長な感があった。主人公が転んだ後は死ぬシーンまでいらないくらい。全然関係ないけど、自分なら5分で転ぶ
身も蓋もないのですが‥‥
当時のイエズス会宣教師たちの一生を描いた作品として捉えると、その過酷なドラマに胸を打たれますが、現代に通づるような普遍的なテーマ(製作者側にそのようなものを描く意図があったのかどうか分かりませんが、大作だけに、ついついそういったものを期待してみてしまいました)が見出せませんでした。
人権という概念が確立した現代であれば、あの場面での宣教師の棄教は、勇気ある決断として讃えられることはあっても教会から断罪されることはないのではないかと(⁉︎)思うし、現代社会における個人の内面的な葛藤に繋がるようなテーマとしては想像力が追いつかない。また、安定期に向かう初期徳川幕藩体制のなかでは、朝廷や幕府以外の絶対的な存在(デウス様)は社会不安のもととして取り除かなくてはならないわけで、長崎奉行所の対処方法は警察、官吏として極めてシンプルで合理的、そして有能だったのかも知れません(人間性の一面として目的達成が見えてくるとエスカレートし易い、という負の側面はあったにしても)。
誤解を恐れずにいえば、合理的な話し合いで分かり合えそうにない固定観念に縛られた集団(幕府側から見れば、ということです。決して信仰を否定したり、揶揄する意図はございません)への対処方法‥‥転ばせるための有効な方法‥‥として拷問という手段をとっただけで、奉行所の人達や当時の日本人が人間性として残虐ということではないと思います。事実、棄教した人は無罪放免となり社会復帰できるわけで(たぶん)、むしろ棄教した人を責めるのは仲間だった切支丹の人達で、責め苦を負わされた上での殉教、つまり、拷問死以外の選択肢が許されないような雰囲気に追い込んでる(もしかしたら、苦しみが大きいほど、天国が近いという思い込みすらあったのでは?)のは切支丹の方達自身とも言えるのではないかと思いました。
本筋とは全く違う方面にばかり目がいってしまいましたが、信仰という意味でも、哲学的な意味でも、神の存在について思索する機会がない私のような世俗的なものには、テーマを見出すのが難しい映画でした。
観応えのある作品でした。 人の強さ、弱さ、温かさ、冷酷さ、苦悩・・...
観応えのある作品でした。
人の強さ、弱さ、温かさ、冷酷さ、苦悩・・・色々なものが詰まっていました。
窪塚洋介演じるキチジローの演技が全編を通して光っていましたが、主人公の妻がラストこっそりとあるモノを添えた姿が印象的でした。
「最後まで支えてくれた人がいたのだ」と思うとホッとすると同時に涙が出ました。
タイトルの表すものについて、もっと深く掘り下げて欲しかった気がして、原作を読みたくなりました。
よかった
スコセッシ監督は、ウルフオブウォールストリートだけが受け付けなくて‥。
どうしよどうしよ、とおもってたのですが、最高によかったです。
1月にしてきっと、今年一番になりそうな予感です。(ローグワンもよかったけど)
撮り方なにもかも、凄すぎます。
久々に原作も読んでみます。
沼地に住む者にも伝わる
原作は完全に未読のまま見に言ったけど、重く長丁場な上演時間ながらわりとダラダラせず見れたという印象。
日本ではあまり馴染みがない 宗教 というか 信仰 についての話だったけど、完全な無宗教の自分でも伝わってくるものがある話だった
主人公は当時の日本国内での弾圧や自分を取り囲む人間の中でひたすら 信仰 つまり 己 を揺るがされつづけるけど、長い沈黙の先に確かに自分を見つけた と個人的には解釈した。 というかそんなもの 絶対 他人に奪えるものでは無い というのが一番大事なところだと思う。 モキチは奪われなかったからこそ死んだし、キチジローは奪われなかったからこそ生きた。 信仰はもちろんそうだけど、人の生き方なんて誰にも変えられないという事をラストのショットが力強く語っている。
日本人キャストは塚本晋也が特に凄い、映画全体に影響を及ぼすような演技だった。
スコセッシが日本時代劇を取るというならまず見にいくのが沼地の映画ファンの義務というもの!
長くて重いけどしっかり見ておきたい一本だった。
スコセッシ監督の自主映画
これはスコセッシ監督の心象を覗き込む映画だ。
終わるまでけっして退屈はしないし、観終わった後の気分も悪くない。
だだ、ロドリコがラストで得た「感覚」はそれが困難を乗り越えて得たモノなのかそれともスコセッシ監督の願いなのかが自分には解らなかった。
しかし、個人的だからこそ逆に広がりを感じるのかもしれない。そう思った。
蝿が舞う
「死んだら天国に行ける。」小松菜奈が発するこの台詞は、人間社会の価値観を根底から覆す考え方。否応なく、現代において自爆するムスリムを想起させる。この矛盾を突きつけられた現代人、特にキリスト教徒はどのように考えるのだろうか。イッセー尾形の貼り付けたような柔和な表情から発せられる施政者の論理は、ただの糞役人のたわ言で扱うことができず、多様な個々と社会をどうやって納めるべきか苦慮する現代において一定の説得力を持つ。窪塚洋介は、千と千尋のカオナシを想起させられた。弱くしか生きられない者。志強く死を受けいれない。その対極に存在する塚本晋也や小松菜奈、しかし、その裏に自爆テロと同じ発想があるのであれば、何を正としよいのやら、、観てるものを混乱させる。
非常に高いテーマ性を問うた作品のように思う。舞台が日本設定だから日本人としては、アラ探しをしてしまうのは仕方ないが、そういった視点を拭わせるだけの骨太な作品である。
印象的な蝉時雨
暗闇の中、蝉時雨が突然止み、沈黙から始まる。
迫害により殉教し、沈黙する多くの信徒。答えを持たない若き司祭。繰り返される苦しみの前に、愛する神さえも黙して語らない。
信徒の命を引き換えに棄教を迫る"イノウエ"。彼らは決して悪ではなく、日本に暮らすごく普通の善良な人間だ。彼らは彼らなりの信仰を持ち、そこに根を張って暮らしている。それが同じ人間とはいえ、異教徒によって脅かされる恐怖も分かる。
多くの日本人にとって、未だに信仰としてのキリスト教は身近ではない。行事としてのキリスト教は信仰とは無関係だ。自然と共に生きて自然の中に神を見出す日本人、科学を足がかりに発展を遂げながら愛を掲げるオランダ人。
どちらが正義というのではない、永久に相容れないもの、信仰と日本という国の形が浮き彫りになり、ラストで再び流れる蝉時雨と、繰り返し襲いくる波の音が、この映画を見た者から言葉を奪い、沈黙に抱かれていくのを感じた。
重厚な映画だった。そして酷く疲れた。正直もう二度と見たくない。精神を削られる気がする。酒を飲んでダメージを薄めることにします。でも見て後悔はない。見ない後悔の方が大きいだろう。
30年たっても答えは見いだせない。
30年以上も前に原作は読んでいた。
その時の自分なりの答えが見いだせず、長い宿題を解くような気持で劇場に足を運んだ。
しかしながら、小説が映画に変わろうが、30年以上も時が経とうが、自分の答えは簡単ではない。
沈黙は苦しい。
答えを求めても何も帰ってこない、答えは常に自分の中にある。
これは、本当に苦しい。
多くの人に観てもらい、それぞれが感じて、そして考えてもらいたい。
映画の見方はいろいろあって良いが、映画を観てスッキリしたいという人には向かないことは確かだろう。
('ω')神の声は・・・
なぜ神現れないのだろう?なぜ沈黙するのか?
こんなにも人々は祈り続けてるというのに。
島原の乱の天草四郎も、火刑に処される前のジャンヌダルクも、ガス室に送られたユダヤ人も、延暦寺の僧侶も、セウォル号に乗ってた韓学生たちも、みんなそれぞれの神に祈ったことでしょうが、助からず。なぜ?
簡単、神はいないからです。
キチジローというキリストをイメージさせる人物が出てきますが、何度も主人公を裏切ります。神とのメッセンジャーであるキリストが神はいないと言っているように私には思えました。
主人公が踏み絵に応じる際に神の声が聞こえてきますが、私はこれは自分自身の声であると思います。神は内なる自分ではないか?
宗教がらみで世界が果てしない闘争の世界に入ってもう何年経ったのでしょうか?信仰が人が傷ついて死ぬ事の痛さを忘れるがために麻薬のごとく存在しているような気がしてなりませんし、死への便利な理由と成り下がっています。
何千年前に神の声を聞いたという人物が数人いたみたいで、彼らの死後もその神の声とやらを研究した人がごまんといて、それは人の信仰や国のあり方に大きく影響していますが、最初の数人がデマだったらどうすんですかね?神がいないのに。
キチジロウがそのことを伝えにきているように見えます。
『神様いないよ、あれ俺の嘘、すまん』
って。
荘厳な話だが…
人の弱さを描いた作品なのだろうか?
それとも、強かさを描いたのだろうか?
いずれにしろ、江戸期のキリシタン弾圧が凄惨を極めたことは事実で、その一方で、多くの抜け道があったことも事実なのだろう。
現代の合理的な考えなら、その抜け道を進んだだろうに…。
日本が舞台だけど、撮影は台湾で行われたのね…。そして、普通に英語を話す日本人がいることや、妙に誇張された日本語を話す人々に違和感があったかなぁ…。
全415件中、281~300件目を表示