「信仰や疑い、弱さや人間のありようについて深く考えさせられる傑作」沈黙 サイレンス 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
信仰や疑い、弱さや人間のありようについて深く考えさせられる傑作
原作は遠藤周作の小説。キリスト教が禁じられた江戸時代の初期を描く殉教映画です。洋画にカテゴリーされる作品ですが、日本人俳優が重要な役を演じる邦画ファンも必見の作品。構想から完成までなんと28年も。いくつもの困難を乗り越えて映画化を実現したというマーティン・スコセッシ監督の執念がまるで、「神の試練」のように感じてしまいました。信仰や疑い、弱さや人間のありようについて深く考えさせられる傑作です。
舞台は17世紀、江戸初期の長崎。
冒頭から、幕府によって捕らえられた宣教師たちが雲仙の源泉に連れて行かれて、そこで熱湯を浴びせられるという拷問、処刑シーンが描かれます。いくらそういう映画なんだと予告編で覚悟してきても、やはりあまりにむごすぎて息を飲んでしまいました。ふと気がつくと、そのシーンには、映画に付きものの音楽がついていないのです。そんな沈黙が、余計に戦慄さを感じさせたのかもしれません。
さて、物語はこのあとポルトガルのイエズス会本部に移ります。宣教師であるセバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)とフランシス・ガルペ神父(アダム・ドライヴァー)は、信じがたい噂を耳にします。それは自分たちの師であり、日本でのキリスト教の布教を使命としていたクリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が、日本で棄教したという噂でした。尊敬していた師が棄教したことがどうしても信じられず、それを確かめるべくふたりは危険を冒してでも、日本へ渡ることを決意するのです。
ふたりは中国・マカオで日本人の漁師にしてキリシタンであるキチジロー(窪塚洋介)の手引きにより、日本のトモギ村に密入国します。そこで目にしたのは、キリシタンに対する想像を絶する仕打ちや拷問でした。そして村には司祭はおらず、「じいさま」と呼ばれる村長のイチゾウ(笈田ヨシ)だけが洗礼のみを行えるという過酷な環境だったのです。それでも村人たちは、信仰を捨てずに祈り続けていました。ふたりは村人達と交流を交わし、布教活動を行っていきます。
キチジローはかつて弾圧を受け、踏み絵により棄教したのでしたが、その時自分以外の家族は踏み絵を行えず、眼前で処刑されたのだというのです。罪の意識を背負い苦しむキチジローは自分の村である五島列島にも宣教師を招き、布教を広めます。そこでフェレイラの手掛かりも掴み、任務は順調かと思えたのでした。
しかし、キリシタンがトモギ村に潜んでいることを嗅ぎ付けた長崎奉行・井上筑後守が村に訪れ、ふたりの宣教師の身柄を要求したのでした。村人達は必死に匿いましたが、代償としてイチゾウ、キチジロー、そして敬虔な信者であったモキチ(塚本晋也)を含む4人の村人が人質となりました。奉行は踏み絵だけではキリシタンをあぶり出すことは困難と考え、「イエス・キリストの像に唾を吐け」と強要したのです。4人の内キチジローを除く3人は棄教しきれず、処刑されることとなったのです。
自分達を守るために苦しむ信者達を見てロドリゴは苦悩します。「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか―?」と。タイトルの「沈黙」とは、この神の無言のことを指しています。これほど多くの殉教者の血が流れているのに、それをただ見つめているだけの神の存在に、ロドリゴは次第に疑問を抱くようになるのでした。そして、長崎奉行の井上筑後守(イッセー尾形)が語りかける「棄教すれば、信者を助けられる」という言葉に、固い信仰心が揺らいでいくのでした。
信徒には、執拗に弾圧の手を緩めないのに、狡猾な井上はロドリゴには衣食を与えて厚遇します。それは、ロドリゴに棄教を迫るための巧妙な手段でした。井上の直感では、ロドリゴは必ず“転ぶ”(棄教の隠語)ものと察しをつけていたのです。であるなら殺さず生かしておいて、しぶとく残る信徒の切り崩しに利用しようというのが、井上の魂胆でした。
現実主義の通訳(浅野忠信)にも諭され、ロドリゴは、信仰を貫くのか、信徒の命を守るために、信仰を捨てるのかという、聖職者として究極の選択を迫られます。井上が繰り出した奥の手は、棄教したフェレイラ神父にロドリゴを引き合わせることでした。これは、原作でもよく知られた結末です。でも本作では、スコセッシ監督が長い思索の末に見つけたラストシーンを用意していていました。一見蛇足のようなシーンですが、ロドリゴが心から棄教したのかどうか、原作よりも納得できることでしょう。
ところで、洋画としてキリスト教国の側から描かれる本作なのに、井上が憎たらしい悪役として描かれないところには驚かさせられました。
スコセッシ監督は隠れキリシタンへの弾圧について、こう語っていました。“「隠れキリシタンへの拷問は暴力でしたが、西洋からやってきた宣教師も同じように暴力を持ち込んだのではないでしょうか。『これが普遍的な唯一の真実である』とキリスト教を持ち込んだわけです。それに対処するには、彼らの傲慢をひとつずつ崩していくしかないと、日本の為政者は考えたのです。”と述べています。つまり井上の主張にも、日本人として当然の言い分取り入れられていて好感が持てました。
ロドリゴの主張には、「自分たちこそ真理」という信念に傲慢さを感じました。権威的なアプローチで教えを説いたところで、日本で受け入れられるやり方にはならなかったでしょう。彼の信仰には、「厳しく罰する、父なる神」としてのキリスト教の一面が強すぎて、本来の愛と救済の教えから遠ざかっていたのです。
そんなロドリゴに井上は、日本になぜキリスト教がなぜ根付かなかったのか理路整然と語りかけていくのです。そもそもなんで犠牲者を出してまで、自分の信仰を他国に布教する必要があるのかと素朴な疑問をぶつけるのでした。そして日本は仏教国であり仏の慈悲を諄々に説いたのです。
トドメは、フェレイラが語るサビエルによる日本布教の欺瞞。自然崇拝の強い日本人に対して、方便を使ってしまったのです。サビエルは、父なる神とは“大日”なんだと。キリスト教の信仰対象を、古来からわが国にあった太陽信仰に置き換えたのでした。だから日本のキリシタンが崇めていたのは、なんと大日如来だったのです。さぞかしロドリゴもこの言葉に愕然としたことでしょう。
ただ井上の言葉に、頑なにそれを拒絶しようとするロドリゴの気持ちもよく分かります。“自分こそが正しい”と、信じて譲らない頑固な老人と使命感に生きる生硬な青年。でも、彼らが使命を果たすこと、理想を求めることで、たくさんの信徒の命が失われる現実は変わりません。これは民族と宗教が相克し合い、無差別テロを引き起こしている現代にも繋がる、争いがなくならない世界への警句のようでもあると感じました。
わが身ひとりの苦難苦痛であれば、ロドリゴも棄教への迷いを微塵にも抱かず殉教したことでしょう。しかし、自分のせいで多く信徒に苦難がおよび、いままさに目の前で殺されようとしている信徒から、救いの声が発せられたとき、棄教しないという信念は果たして正しいことなのかどうか?
数多くの殉教者を輩出したキリスト教の歴史。それにキリスト教に限らず、信仰の本分からすれば、どんな苦難困難にあったとても棄教はあってはならないことです。しかし、棄教しなければ助けられない眼前の信徒の命という究極の矛楯。選択を迫られて苦悩するロドリゴに対して、同じ信仰を持つものとして涙しました。
こんな状況でも、神は沈黙したのか。そしてロドリゴはどのように変わったのか。熱烈なカトリックの家庭で育ったスコセッシ監督の演出に、ぜひご注目を!
そんな中で、行動に全く筋が通っていない弱き者、キチジロー(窪塚洋介)が救いとなます。ロドリゴをあがめているのに裏切り、神を信じていると言いながら踏み絵を踏むのに、神を畏れ、赦しを求めて何度もロドリコに告解を求めようとする彼の心情が、宗教に縁がない人には分かりづらいづらいのではないでしょうか。
しかし悪人正機説に立てば、彼ほど信仰を求めていた存在なのかのかもしれません。キチジローは『この世の中に、弱き者に生きる場はあるのか』とロドリゴに問います。この作品は、弱きを否定せずに、受け入れることの大切さを描いています。それは、人が人として生きる事の意味を考えることでもあると思うのです。
原作者の遠藤周作も、浄土真宗的なものにイエスを歪曲しているという批評について、エッセー『私にとって神とは』のなかで、日本的宗教意識として肯定しています。キチジローという存在は、煩悩具足の凡夫の象徴であり、浄土真宗の核心を描いた作品でもあるといっても過言ではないでしょう。
さらに本作でうれしいことには、「外国人監督が撮った日本」によくある違和感が、この映画には全くないこと。映画化にあたっては、17世紀の日本をどこまで忠実に再現できるかが大きなポイントでした。ふさわしい場所を求めて、ニュージーランドやカナダなど様々な場所を見て回り、ついに台湾で完璧なロケ地を見つけたといいます。舞台である長崎と、地形や天候が似ていたのが、大きな決め手になったそうです。
台湾での撮影にあたっては、台湾出身のアン・リー監督らの協力を得て、リー監督の『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』のために建造された水槽を活用。司祭たちが海岸の近くを移動するいくつかのシーンを撮影したそうです。
撮影では、京都の時代劇のスタッフも参加したそうです。そこに外国人の見方の加わったところが新鮮で、感銘の深い作品となりました。
スコセッシ監督のルーツは、カトリックの本拠イタリアからの移民の子にあります。昔日本に来たヨーロッパ人宣教師たちの無残な挫折のこの物語には、彼には日本人以上に身近で心に響くものがあるのでしょうね。
演技面では、キリシタンの立場を分かったようなフリをして、冗談など交えて残酷に裁いていく、イッセー尾形の飄々とした演技が素晴らしかったです。また通訳役の浅野忠信が教養と自負心でロドリゴを屈服させようとする演技にも説得力がありました。キチジローになりきった窪塚は、本作で世界に発見されることでしょう。
そしてなによりキリシタンの農民役として拷問や処刑にかかって、ギリギリまで強烈な大波を被りつづけたり、火であぶられたり、逆さに吊され続けた多くの出演陣の健闘をたたえたいと思います。