手紙は憶えている : 映画評論・批評
2016年10月25日更新
2016年10月28日よりTOHOシネマズシャンテほかにてロードショー
90歳が挑む復讐の旅、その時間と記憶の“ねじれ”を現在進行形で描く衝撃作
第二次世界大戦中におけるナチスのホロコーストの蛮行を扱った映画は今なお数多く作られ続けているが、戦後71年経った2016年、あっと驚く物凄い映画がやってきた。主人公はアウシュビッツの大量虐殺を生き延びて渡米し、今は高齢者ケア施設で暮らすユダヤ人ゼヴ・グットマン。認知症を患い、眠るたびに妻に先立たれたことさえ忘れてしまう90歳の老人が、自分の家族を皆殺しにしたナチス逃亡犯への復讐を果たすための旅に出る。
戦時中の悲劇を“振り返る”他のホロコーストものとは違い、本作には回想シーンが一切ない。主人公の混乱した脳内を映像化するような幻覚シーンもない。「スウィート ヒアアフター」「アララトの聖母」など現在と過去が入り組んだモザイク映画で知られるアトム・エゴヤン監督としては、異例の100%現在進行形映画である。ところがペンシルヴェニア州の施設を出発点に、オハイオ州からカナダへの国境を越え、そして再びアメリカに舞い戻ってくるゼヴの旅は波瀾万丈。その異様にねじ曲がった旅のルートそのものが、彼の置かれた状況と解決すべき問題の複雑さ、深刻さを表しているかのよう。列車やバスの車窓の向こうに広がる雄大な風景はどこもかしこも平然と美しく、陰惨な復讐劇との強烈なコントラストを成している。
いささか不謹慎な書き方になるが、本作はあらゆる場面が呆気にとられるほど面白い。確実に相手を仕留められるとの理由でオーストリア製の小銃グロックを推奨する銃砲店の店主、ナチスやアウシュビッツという言葉すら知らない純真な少年少女など、旅のさなかにゼヴが出会う人々との会話からこぼれ落ちるユーモアやギャップが絶妙なのだ。ここにも復讐に取り憑かれた男と、彼を取り巻く現実との“ねじれ”がある。
そして最大の“ねじれ”は、ゼヴを執拗に苦しめる激しい物忘れ、すなわち記憶障害に起因する。困ったときにゼヴが頼りにするのは、アウシュビッツで自分と同じ悪夢に見舞われたユダヤ人の同胞マックスの手紙だ。旅の移動手段や宿泊先、ルディ・コランダーという名前を持つ容疑者4人の居場所、さらにゼヴの復讐の動機までがきめ細やかに記されたその手紙は、いわば復讐ツアーの行程表である。やがて緑豊かな湖畔の最終訪問地で驚愕の結末を目の当たりにした観客は、入念に練り上げられた復讐のセットリストに渦巻くユダヤ人の怨念の凄まじさに絶句することになる。当然ながら、その行程表に帰りのルートは記されていないのだ。
(高橋諭治)