「ヴィルヌーヴ作品として観ればシンプルな話」ブレードランナー 2049 pippo9さんの映画レビュー(感想・評価)
ヴィルヌーヴ作品として観ればシンプルな話
難解だとか退屈だと言われている今作ですが、『ブレードランナー』の続編としてではなく、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品として見れば、意外とこれまでのヴィルヌーヴ作品と同じ様なテーマについて語っており、理解しやすくなるんじゃないかと思います。
ヴィルヌーヴ監督作品は『メッセージ』、『ボーダーライン』、『プリズナーズ』など、ジャンルがバラバラで作風に一貫性が無いように思われていますが、どの作品も「親子」について語っている映画です。
彼の映画のテーマを説明するならば、「親子(特に母子)という絶対的な繋がりが原因で、歪んだ運命に捕らわれてしまった人々の話」ということで一貫しています。
例えば『ボーダーライン(原題の『sicario』は殺し屋の意味)』は表面的にはメキシコ麻薬戦争の話ですが、映画のラストで殺し屋に父親を射殺された子供が映り、この子が次の殺し屋になることが暗示されることで、殺し屋という歪んだ運命を歩むことになってしまう人物を浮かび上がらせます。
さらにヴィルヌーヴ監督作品には強烈な「母性」が登場します。『メッセージ』、『灼熱の魂』はもちろん、『プリズナーズ』では事件の中心人物として、『複製された男』では主人公を支配する人物として登場します。
上記のような「親子(特に母子)という絶対的な繋がりが原因で、歪んだ運命に捕らわれてしまった人々の話」として今作を観れば少しは観やすくなるかなと思います。
今作における「子」はKであり、彼は自分を「特別な存在」かもしれないと思い込んでしまったため、結局「おとり」だったということを知ってしまうことで自分の空っぽな存在意義に苦しみます。
今作における「親」はラヴではないでしょうか。彼女はウォレス社を仕切っている特別なレプリカントであり、全てのレプリカントの母親的存在と言えます。ジョシと対面する場面では、Kのことを「子ども」と例えています。ですのでラヴがデッカードを捕らえた時もKを殺しませんでした。ラヴという名前は「母性愛」を意味しているのかもしれません。
Kが最終的にラヴと闘うのは、ラヴはKにとってレプリカントという自分の呪われた運命の象徴であり母親的存在でもあるからです。
ラヴによってKの愛するジョイのデータは破壊されましたが、ジョイはKのことを特別だと認めてくれた唯一の存在でした。愛するジョイが認めてくれたように自分は特別な存在であるということを証明するために、Kはラヴと闘い、そして彼女に勝つことで自らの手で「特別な存在」へなることが出来たのです。
「自分は特別な存在なんかじゃない」と感じたことがある人なら充分共感できる、実はとても普遍的な物語だと思います。個人的にはとても大切な作品になってしまいました。
また、前作を「親」、今作を「子」として考えると、「『ブレードランナ』の続編という絶対に批判される運命に逆らって自分らしさを出したヴィルヌーヴ」というメタ視点で見ても通じているのが面白いところでもあります。
大変お待たせして、申し訳ありません。
あと、前回の返信コメント、大変誤字が多くて、申し訳なかったと思っています。
レビュー拝見いたしました。
私はこの監督の作品は初めてみました。
正直ですが、私はこれほど詳細に筋を追えていたわけではないので、pippo9さんの論調に賛否を唱えることはできません。
ただ、母性、というの私がよく見たり、プレイしたりするアニメ、ゲームなどでも繰り返し反復されているモチーフです。
(単純に、母性的な美少女を登場させることは、男性ファンに享楽を与えるにも最も効率の良い手段であることは論を待たないからです)
もしかして、もうお読みかもしれませんが、宇野常寛という評論家が、ここ35年くらいのアニメ史からみた精神史をまとめた、『母性のディストピア』という本が出ています。
ここでの『母性のディストピア』の意味は、すごく簡単に言うと、『戦後、米国に守られている日本人が成熟を果たすには、それを仮構するための女性的な存在が必要』ということです。
なんだか、いきなり書くと素っ頓狂に見えますが、長年、この議題は政治家はもちろん、三島由紀夫や江藤淳などの作家をとらえ続けていたようです。(当然、上に書いた3人の監督もそうです)
大変長い本ですが、三人の監督の作品の流れを見事につなぎ止めて、一つの評論にしているので、興味がありましたらお手に取ってみてください。
このレビューを読んでいて、なにか繋がるところがあるかもしれないと思いました。