「「人間らしさ」とは」ブレードランナー 2049 nagiさんの映画レビュー(感想・評価)
「人間らしさ」とは
SF映画、傑作が続いた。ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』に続くこの『2049』は、やはり文句なしの傑作だ。
本作は、前作のテーマでもある、「レプリカントがレプリカントたり得る要素とは何か」という深淵なる主題をより深く掘り下げている。ジョイがKに言った、「人間も所詮ATGCからなるデータだ」という言葉は、より人間とレプリカントの境界を曖昧にする。作られた人間には魂がないというが、果たして本当にそうだろうか。
人間は、単なる自然の一部でしかない、という消極的なアイデアがある。つまり、人間は我々が考えるほど崇高なものではない、というニヒリズム的思考である。我々が生きる目的など存在しないのだ。この観点を当然にしているのが科学である。
しかし、科学は、本当に我々が自己蔑視するに値する十分な根拠となり得るのか?それは、我々が持つ意志や人間とは何者なのかという疑いを隠し、理由をつけてただそこから逃げているのに過ぎないのではないだろうか。
ニーチェは、人間が人間たり得る要素は「力への意志」であるという。力への意志こそが、人間を動かす根源的な動機であり、できるだけ良いところに昇り詰めようとするのだという。そこに人間らしさが存在しているのだ。(しかし実際には、科学やキリスト教などは、より良い理想の欠如によって我々は「無を欲」したために所謂「禁欲主義的理想」となって永らく崇拝されてきたのであるが。)
『2049』では、ラヴとジョシのシーンが示唆的だ。ジョシは、レプリカントが繁殖したという事実を「無」かったことにしようと尽力する。ラヴはそんなジョシに、真実を理解しようとしない愚か者の人間であると罵り、殺害する。
Kを保護した反乱軍にしても、自ら「力への意志」を追求するレプリカントは人間よりもはるかに人間らしいだろう。他方の人間は、彼らから目を逸らし、自身の存在を正当化するように、レプリカントを排斥する。自らの存在を揺るがす恐怖を隠蔽し、逃避するため、「無力」へと力を使う「禁欲主義的理想主義者」の姿である。
そうして、人間とレプリカントの境界が揺らぎ、混濁したのだ。人間はATGCの配列によるデータでしかない。それはレプリカントも同様だ。両者のボーダーが崩れ去った時、あの荒廃した極ユートピアの世界に、真の理想は誕生するのだろうか。自らを神格化し、レプリカントの製造を進めるウォレス博士こそが、その理想が「視えている」のかもしれない。
両者の境界をぼかした上で、彼らの子供は果たしてどちらだと判別されるのか、そんなことは真のユートピアにおいてはもはや問題ではないのだ。
30年前ではあり得なかったが、30年後の現在だからこそよりリアリティと危機感を煽る、壮大な社会的テーマを扱った『2049』は、確かに「映画続編の最高傑作」と言われても納得できるほどだった。やはりドゥニ・ヴィルヌーヴらしく、脚本だけでなく、映像はどのシーンを切り取っても美しく、音楽も素晴らしい。彼の作品は一通り観たが、間違いなく現代映画界において最も力のある監督の1人であることは間違いない。
彼の作品にリアルタイムで出会えることが、本当に幸せである。