素顔の私を見つめて…
2005年製作/97分/アメリカ
原題または英題:Saving Face
スタッフ・キャスト
- 監督
- アリス・ウー
- 製作
- ジェームズ・ラシター
- 脚本
- アリス・ウー
- 音楽
- アントン・サンコー
-
母(ホイラン)ジョアン・チェン
-
ウィルミシェル・クルージック
-
ビビアンリン・チェン
2005年製作/97分/アメリカ
原題または英題:Saving Face
母(ホイラン)ジョアン・チェン
ウィルミシェル・クルージック
ビビアンリン・チェン
LGBTがうさんくさいのは、ほとんどの人間にとってのパートナーが、女が好きか、男が好きか以前に、(相手が)いるか、いないかの問題だからだ。
ゲイが差別反対とシュプレヒコールしながらパレードしていても、独り身の人間にとってみれば、おまえの権利なんぞ知るもんか。──なわけ、である。
必然的にそのことに気づかない同性愛者はばかだと個人的には思っている。
とりわけ日本では少子高齢と個人主義、格差社会と価値観の分散によって、望むと望まざるにかかわらず、独り身でいる人間が多い。そして色恋から遠ざかり長く独居している彼/彼女は他者との邂逅に恐怖心を持っている。
ようするにLGBTの活動とは、そんな環境に気づかず「わたしの恋路を阻む者はゆるさん」と言っているに等しい。畢竟──おまえの恋路なんぞ、知るもんか──ということになる。わたし/あなたが男が好きでも、女が好きでも、あるいはほかのいかなる性が好きでも、勝手にすればいい話──である。
したがって映画にLGBTの謳いがあるならば、警戒する。こっちはLGBT様に反対も、賛成も、その他いかなる感慨もない。誰が誰を好きだとして、なんの関係があるだろう。
LGBTコンテンツの概要は、同性を好きなことで差別に遭い、その顛末を描いて差別はやめよう──と啓発するものだが、同性愛者がその疎外感を訴えることができるならば、パートナーを欲していながら、孤独を受け容れなければならないストレートの寂しさも訴えることができる──のではなかろうか。
なぜLGBTだけが成就しない恋愛を嘆くことができるのですか。何十億人というストレートが一人寂しく過ごしているこの惑星で。──そうは思いませんか?
Saving Face(2004)はアメリカ映画。主人公は中国(系アメリカ)人の女性で、医師としてニューヨークに暮らす同性愛者である。
アメリカ映画だがAlice Wu自身も中国系で出演者もほぼ中国(系アメリカ)人で占められている。が、人種および同性愛のマイノリティを謳いにしていない。映画内のどこにもLGBTの弁明があらわれない。だれひとりLGBTのLGBT的スローガンを叫ばない。
プロモーション時こそ「同性愛を扱った映画」で売ったかもしれないが、映画の中では、主人公とそのパートナーが女同士であることを、いささかも焦点せず、たんに恋愛映画として呈示される。
そのダイバーシティ。Saving Faceは、映画を通じて、あなたが誰で何国人で誰を好きでも、わたしは気にしませんよ──と言っている。
われわれが感銘をうけるのは貧困や障害やマイノリティや被差別や不利益をこうむりながら、そのことをいささかも弁解しない人間の態度ではなかろうか。
なにもない荒野で楽しく生きている裸族を、信用しない人間がいるだろうか?
欠いていながら不足なしと胸をはる人間を嘲弄できる人間が存在するだろうか?
ただし(もちろん)わたしはじぶんがLGBTではないので見解に遺漏があることは知っている。
新型コロナウィルスが世界を席巻する直前の2020年1月。
ゴールデングローブ賞の授賞式で(The Ellen DeGeneres Showの)エレンデジェネレスの特別賞受賞にたいしてケイトマッキノンがスピーチをした。
『(~中略)(LGBTが冷遇された時代)その恐ろしさを緩和してくれたのはテレビに映るエレンでした。彼女は真実を話すために、自身の人生とキャリアを犠牲にし苦しみます。でも、そのおかげで、世の中の風潮は変わってきています。エレンのような人が炎の中に飛び込んでくれたからです。私自身、エレンをテレビで見ていなかったら、『LGBTQの人はテレビには出られないから私にはテレビは無理』と思っていたでしょう。それだけでなく、自分がエイリアンであり、この世に存在すべきではないと思っていたかもしれません。だからエレン、私に幸せな人生を生きる機会をくれてありがとう。(後略)』
サタデーナイトライブや映画のマッキノンしか見たことがないわたしは彼女が抱えていた屈託がわからなかった。それゆえ、デジェネレスがいたから今のじぶんがある──と涙声で祝福したマッキノンに衝撃をうけた。のだった。
言いたいのは「彼らが本気で編むときは、」みたいな似非のLGBTに欺されるな──ということ。「わたしはかわいそうな性同一性障害者でございます」と窮状を訴えてくるLGBT映画なんぞ巨大ちんぽこをかついで練り歩くかなまら祭と何のちがいもない。そういう糞みたいなLGBTコンテンツと本物のLGBTコンテンツを見分けられる分別(リテラシー)を持ちましょう──と言いたいわけ。
映画は、筋も面白く、演出も据わっている。日本映画のばあい「理想だけの青いやつ」が無い袖を振るのが殆どだが、向こうのカルトは技量に支えられている。「人種の坩堝」な環境も経験値もまるで違う。本作はAlice Wu監督のデビュー作だがすでに完成されていた。
(わたしは外国映画を褒めるのに日本映画を貶す癖をもつ牽強付会なレビュアーです。)
Saving Faceで名をあげたもののAlice Wu監督はそのあとまったく映画を撮らず。
あるときぐうぜんネットフリックスでAlice Wu監督を見つけた。
「ハーフオブイット、面白のはこれから、監督アリスウー」
アリスウー?聞き覚えがあるぞ。なんの監督だったっけ・・・。
それが15年越しの2作目The Half of It(2020)だった。
「ハーフオブイット面白いのはこれから」より、
アリスウー監督作ということで鑑賞。
"傑作"には違いないのだが、それは15年前のお話。
彼女は15年も前に既にこんな映画を作っていたんだ。
逆説的に言えば、彼女の映画があったから世界が進歩した。
そして「ハーフオブイット」のような作品が多くの人の目に止まるようになった。
彼女が描いた美しいラストシーンに、最後のセリフ。
そして、人によって全く異なる愛の形は、彼女自身の理想の世界。
曲のセンスも素晴らしくいい。
以下は「ハーフオブイット」におけるアリスウー監督本人の言葉を要約したもの。
「中年に直面した、ティーンエンジャ―にまつわる映画を作った
ばかりの自分がいる。映画が完成した今、以前よりよく見えるようになったことが2つ。
一つは、私が以前は唯一絶対の愛の形があると考えていたこと。年を重ね、今なら見える。かつては想像できなかったほどたくさんの愛の形が。
もうひとつは、答えを想像するから結末は難しいということ。15年前の作品では、自分が作った登場人物に対して忠実だとは感じたものの、あの映画のハッピーエンドを実人生において期待できるかどうかは分からない。だが、同性愛者の女性として、それは自分にも起こりうることだと信じたかったし、信じることが必要だった。
(ちなみに、15年後、エンディングがハッピーすぎると思う人は一人もいない!世界は変わった。ありがたいことに。)」
――NETFLIXJPインスタグラムより
自身の人生を反映したようなストーリーと細かく具体的な演出は
観る者の心をつかみ、そのメッセージは誰かに届く。