「欲望のノワール」あやつり糸の世界 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
欲望のノワール
ファスビンダー監督。1973年製作のテレビドラマ。
ストーリー自体は難しくない。「現実が投影された仮想世界が幾層にも重なっている」…SF映画では、おなじみの展開。『マトリックス』『ダークシティ』『インセプション』etc.の先駆け的作品(ちなみに『13F』と原作が一緒)。
派手なSF描写はない。鏡張りの実験室でグルグルまわるカメラ。ただそれだけで、仮想世界を想像させ、もしかしたら今居るこの場所も仮想なのかも…と思わせる凄さ。素晴らし。
ドイツの人が、ラング『メトロポリス』と並んでドイツで撮られた最高のSFと、鼻息荒くなるのも分かる気がする。
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私がこの作品に惹かれたのは、そのSF的素晴らしさよりも、全編に流れる濃密なノワール。
ファスビンターは徹頭徹尾ノワールの人だ。たとえジャンル違いの映画であっても。
リリー・マルレーンが流れる酒場。くゆるタバコの煙。中折れ帽の男たち。ノワール映画で観た一場面があちこちで再現されている。
ノワールといえばファムファタルだが。
喪服の美女。寝返る秘書。皆、悪女か聖女か分からない顔をしている。謎めいている。
そして、何よりバーバラ・ヴァレンティン素晴らし。
「あやつられるのが心地いいのよ」と囁く女。
ああ、この世界の中に入っていってしまいたい。いつまでも浸っていたい。
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主役のクラウス・レービッチェは、ノワールというより冒険映画に出てきそうなタイプ。
ハンサムでマッチョで身体能力が高くて、女にモテる。何かの映画で観たステレオタイプなヒーロー像にも重なる。
スーツの着こなしはジェームズ・ボンドで、運転は『ブリット』っぽい(駐車場のシーン、かっこいい)。
男の「かっこいい」を凝縮して投影したような主人公。
今さらながら気付く。
(本作に限らず)映画とは、「観客の欲望を凝縮し投影したもの」なのだと。
「映画」=「欲望の投影」=「仮想世界」。
だから、仮想世界が主題の本作は、様々な映画のモチーフ(ノワール、活劇、メロドラマ、ドンシーゲルSFなど)が集められ再現されている。
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ラスト、主人公は現実世界へと助けだされたる。一見ハッピーエンドのようにも思える。時空を越えた愛の結実として、充分に気持ちの良い終り方だ。
だが、主人公はこの先こんな問いに悩まされるのではなかろうか?
此処も仮想世界なのではないか?上には上があるのではないか?と。
彼の世間へ対する不信感は実は何一つ解決されていない。愛が解決出来る問題ではない。だから、きっとまた悩みはじめる。
もう一つ並行して描かれるラストシーン、銃弾を浴び蜂の巣にされて「真実を叫んで華々しく散る」ほうが、ノワールとしては美しい。完結している。だが、これは仮想だからこそ許され美しいのだ。
悩み不信感を抱えながらも、生きていく。日常は続いていく。それが現実なのだ。
仮想が閉じれば、日常が始まる。
映画が終われば、観客の日常がまた始まるように。
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追記1
強いマッチョ、そんな夢の投影が主人公であるが、監督はヒョイと意地悪をする。
長身のゴットフリート・ヨーンと並ぶと、非常に小さく、頼りなく見える。今までカッコいいマッチョな男と思っていたのに、本当は違うことに一瞬だけ気付かされる。
現実と仮想の乖離。夢の歪み。
その歪みを告げるヨーン、素晴らし。
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追記2
話の本筋とは関係ないところでファスビンダーの男色趣味が炸裂(コックさんとか何だったのだろう?)。ファスビンダーの愛人たちも登場(クルト・ラーブの役はちょっと可哀想だ)。
小柄なマッチョ、薔薇っぽい感じ、そこかしこに散りばめられた日本趣味。私の勝手な連想だけど、三島由紀夫をちょっと思い出してしまったなあ。ちなみに三島はこのドラマが出来る三年前に切腹している。
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追記3
70年代のドイツということで、バーダー・マインホフも思い出す。(ファスビンダーが最初居た劇団にもバーダーのシンパが居たらしい。)バーダー・マインホフ、爆弾が世界を変えられると信じた人々。
ファスビンダーは、バーダー・マインホフには、ならなかった人だ。
思想や政治や何かで世界を変えられると信じた世代を、冷めた眼で見ていた人なのだろう。そんなことは信じられない人だったのだろう。だからこそ、このドラマを撮った。
そして三島にもならなかった。華々しく散らなかった。
美しくない現実の中で、醜くのたうちまわった。そんな自分を見つめ続けた。彼の『ベルリン・アレクサンダー広場』フランツのように。
だからこそ、こんなにも美しいSFを作ったのだと思う。