エイリアン コヴェナントのレビュー・感想・評価
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プロメテウス未でしたが
スカートの中まで汗かいてしまい、最後立ち上がるときドキドキでした。すごい怖くて目も当てられないわけでもないのですが、要所要所で力を入れて観てたみたいです。
プロメテウスを観ないで行ったのですが、エイリアンというより、アンドロイドの哀しみ、人間の愚かさみたいなものを感じました。アンドロイドが発達すれば、人間は負けますわねw
しかし、リドリースコットの映画はエイリアンといい、サルの惑星といい、やや人間に気持ちが寄れないとこがあって、自分何なのかと思ってしまいますわ。
エイリアンが誕生するまでの
悪くはないんだけど
悪くはないんだけど、ちょっとこれじゃない感が…
1つ1つのシークエンスは緊迫するし映像も綺麗だし良いのだが、見てる間は常に頭の中に「?」マークが点灯している。
登場人物が多すぎてバタバタ死んでいくので、そのうち馴れてだれてしまうし、主人公が最後にならないと活躍しないので、なおさら少し醒めた目で見てしまう。
何より「プロメテウス」以来の、人類やエイリアンの起源なんて興味ない。
そこに拘った分だけ、このシリーズが純粋なSFホラーから遠のいていく気がする。
また、粉末状で感染できるという、フェイスハガーよりうんと完全に近い有利な形態を出してしまうなど、風呂敷を広げすぎの感がある。この形態からフェイスハガーだと、まるで機能的には退化じゃないか。
アンドロイドがここまで出しゃばるのも、なんだかな感が(笑)
まあ、前作の登場人物が次作では最初から死んでいる、のはもはや定例パターンになった感じではあるけど、そうすると次作も…なんだろうね。
ラストのアレについては、観客の10人中10人がそう思っていたはずで、意外性も驚きもゼロ。
むしろここに至るまで確認しようともしない主人公のマヌケさに開いた口が塞がらないので、この演出はどう見ても失敗だと思う。
次作は原点に戻って欲しいな~
残忍さだけでなくよく練られた映画
生誕
「プロメテウス」から続く、エイリアン生誕の物語。
「エイリアン」自体がブランドであり、一世を風靡した作品でもあるので、その成り立ちを見たところで「へえ、そうだったのか」と感心するような事にはならないのだが…マニアにはたまらないのかも。
というか、今更感が強い。
「プロメテウス」もどんな話だったか、忘却の彼方だし、今作で初めてエイリアン然とした個体になったような演出まであった。
あらゆる動物に寄生し、そのDNAを取り込んで変異する。
のだそうだ…だから、なんだよ!
今更そんなネタはどおでも良くないかと、コアなファンではない俺などはそう思う。
ただ、このAIが保有する無限の時間ってのにはゾッとする。
現代において、AIの開発は著しくいよいよ人の領域にまで実用化されそうな精度だ。
良識という概念のないAIがAIを開発しだしたら、とてつもなく文明は加速するのだろう。
何世代か後の未来を予見してるようにも捉えられ、背筋が寒くなる。
物語的には緩やかすぎる滑り出しに、眠気に襲われる。
探査艇を爆破させた女性の言い分が、いかにも現代のソレっぽく「ぷっw」と吹き出しそうになる。
が…こいつがパニックになり過ぎてて、退路を絶たれるという緊張感が増すシークエンスのはずなのに、萎えて傍観してしまった。
…そう思えば、本作の人物造形はどいつもこいつもシックリとこず、なんだか薄っぺらいなとも思えてしまう。
エイリアンがもたらす脅威についても、ビクッとさせられる演出が多く、表層だけに留まってしまっていたようにも思う。
空気中に漂う微粒子がエイリアンの原型だったとして、他のクルーが無傷なのも腑に落ちない。
ビジュアルの完成度は高いので、エイリアンブランドの到達点としては、観る価値ありってとこだろうか。
期待以上でした!!!
アンドロイドが人間に逆襲する
結構面白かった
楽しめました
見なくて良い。でも、次作品があるならみるかしかない。
つまらん。何でこれで続編作った。この程度の ストーリーなら30分程度で終わるアンドロイドのウォルターとデイビィッドが揃った時点で結末が読める展開。しかもその通りになるので最後は見ててあほらしくなった。軽い映画だった。次作品があるような終わり方をしているのでその作品に繋げて製作しても良いような程度の作品。エイリアンらしさはエイリアンが映画に出演しているから あたりまえ。ここでいわゆるエイリアンが登場しないでどう進めるレベルのエイリアンの出演でした。悲しい。
エイリアンもプロメテウスも見ないまま観てしまいましたが
見ててイライラする
これが狙いだったらすごいなってくらいイライラする。細かいところはあまり考えずに作ったのかなって思ってしまうほど中途半端な未来。いや普通に考えて、アンドロイドとコンピューターが音声で通信する理由ないっしょ。しかも100年後に。現代でもしてないわ。なぜ全く知らない星に登山だかハイキングに行くような装備で入っていくんかな。宇宙服着るとか、せめてマスクとかヘルメットつけろやボケ。しかも3週間かけて星まで行ってわざわざ悪天候の中着陸すんのかーい。何日間か様子見んかーい。挙句に1人残ったのが何故かエンジニアでとことん低能。というか隊員それぞれの役割も微妙だし。お前ら仕事に私情を挟みすぎだろ。宇宙船の乗組員の中に夫婦3組ってどんだけ狭い世界で生きてんだよ。なんで医者がいないのに医務室あんのかな。着陸出来る船が一隻しかなくて、あとは貨物船で、母船は大気圏突入できないとか、おいおい、じゃ2000人どうやって下ろすつもりだったんだよ。
そもそもなんのためのアンドロイドなんだよ。戦うときも武器も持たせず。着陸の操作もせず。治療もしない。何しに来たの?そりゃ暇だから悪さもしちゃうかー。もはやコメディー映画かって領域。着陸船の装備もプロメテウスの時より劣化してるような。てかプロメテウスのときと大して映画の内容変わってなくない?そもそも人類の誕生についての調査しに来たって話だったのにまるっきり関係なくなってルー。とか考えてまたイライラ。
まぁエイリアン自体擦られすぎてネタ切れなんだろうなぁ。いや昔の方が絶対面白かったな。
漫画「漂流教室」≠「進撃の巨人」で、がっかり
すっごく楽しみにしてました。前回のプロメテウスの時も、見る前は「ワクワク!」でした。そしてプロメテウスを見たあと「がっかり…」したのですが、「まぁ、次に期待しよう!」と、あの時は思えました。しかし、今回味わった「がっかり感」は、前回より一層ヘビーです。そしてその「がっかり感」は、当初わくわくして「進撃の巨人」を読みすすめていたところ、次第に「あれ?」となり、やがて「なんだよ、そっちに行っちゃうの?…」みたいな感じになった時に味わった「がっかり感」と同質のものです(ただし、『進撃の巨人』の原作は別のベクトル・構造を持っており、素晴らしい作品だと思っていることを付言します)。
「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」というコピーに、それまで感じたことのない恐怖を覚えたのは小学生の頃でした。その「怖さ」とは、やれ幽霊(人間の霊)だとか「ジェイソンだ」とかいう類いのものではない、未知の『世界』・未知の『存在』に対する恐怖でした。
生命(いのち)を含めた「世界」を創ったのは、人知を越えた「何か」だと思います(そう思いたいですし、そのハズです)。またその「何か」とは、「人間の善悪」とはおそらく無縁のものでしょう。確かに「スペース・ジョッキー」は「クリエーター」ではなく「エンジニア」と称されており、ニュアンスの違いを感じさせはしますが、創造主としては「既視感」「現実感」がありすぎます。また「アンドロイドがピノキオよろしく背伸びする」という設定も、いかにも人間が考えそうな「お話」です。
前作のタイトルは「プロメテウス」、今回は「コヴェナント」ということで、ヨーロッパ世界で共有されている「神話的世界観」のもと、物語のフレームワークは組み立てられているようです。そして、引用される詩歌や音楽を通じて「人間中心主義(=ヒューマニズム)」の限界が謳われているようにも感じます。しかし、リドリー・スコットが「そこに深遠なテーマが隠されているのだ!」と言うつもりなら「スコット御大、本気でそう思ってます?」と問いたいです。
「人間中心主義(=ヒューマニズム)の限界を訴える!」と言いながら、「未知の存在」を「既知のもの」に置き換え、「世界」を「人間にとって認識・把握可能なもの」に置き換えてしまっている時点で、その態度は既に「不遜」であり、「人間中心主義(=ヒューマニズム)」そのものだと思うのです。話が少し逸れますが、同じくリドリー・スコットが監督した作品に「悪の法則」があります。劇の終盤では「臆病者は現実から目をそむけるが故に残酷だ」というパラドキシカルなテーマが示されますが、今作品では、同質のパラドックス(「反人間中心主義」を唱える「人間中心主義者」)をスコット監督の姿勢に感じてしまいました。
一方で、世界が説明可能であることを徹底的に拒否しつつ、理不尽で恐ろしい世界に人間を直接対峙させるなかで「人間存在」を描ききった漫画家がいます。楳図かずおです。楳図が漫画『漂流教室』で描いた「世界」は剥き出しの恐怖で埋め尽くされていて、その限界状況のもと大人たちは自壊していきますが、子供たちは仲間と共にその世界に立ち向かっていきます。その姿は健気で逞しく、そして美しいです。
人間が体現し得る価値は、世界(=絶対者)としおらしく向き合うところにしか見出だせないし、一神教のなかで紡がれた「我と汝」の物語の本質は、本来そこにこそあるハズです。(ちなみに私は、ギーガーと楳図にシミラリティーを感じており、あのエイリアンをデザインしたギーガーなら、世界を認識可能な対象とするアプローチを断固拒否したのではないか…と勝手に推察しています)。
というわけで、「人間中心の物語」となってしまったエイリアン・シリーズですが、デイヴィッドのショウ博士に対する愛は「あまりに人間的」で、本当にグロテスクです。その意味からすれば、テーマはすり替えられたうえ、作品の方向性はより「キッツい!」方向で深められている…とも言えるかもしれません。でも「なるほど、文学的だねぇ~」とは、私は思えません(二役を演じたファスベンダーの演技は素晴らしかったですが…)。
散々監督の悪口を書きましたが、人間のテクノロジーが人間を世界の中心に立たせてしまうような時代が、このあと本当に訪れるとしたら、それはとんでもなくグロテスクな「新しい世界」です。スコットが「そんなことにはならないで欲しい…」と願っている「臆病者」がいるのを見越して、今作品を作ったとするのなら「御大、参りました」となるわけですが…。
というわけで、次回作(アウェイクン?)も観るでしょうし、ブレード・ランナーも観ることになるんだと思います。
エイリアン・オンデマンド
リドリー・スコット監督が2作目以降のエイリアンに否定的なのは知っていたが、2作目が最高傑作だと思っている身としては、なかなか理解しがたいことだった。なぜなら2作目は純粋なモンスター・パニック映画としては傑作だったからである。
だが、今作を見てそのコメントに合点がいった。どうやら監督が意図するエイリアンはモンスター映画ではなく、生物の果てない欲求、ともすると“キリスト教の七つの大罪”を描くことにあるようなのだ。思えば、1作目だってエイリアンを生物兵器に使おうとする人間の強欲や傲慢が悲劇をもたらす物語であったし、そう考えるとエイリアンが色欲や暴食のイコンであったと解釈できる。それ故に、エイリアンの生態を暴き、モンスター映画に位置付けた全ての続編に否定的なのは納得ができるようになったのだ。
もともとはこの欲求というテーマを一貫させたかったのだろうが、エイリアンがモンスター映画として捉えらているからこそ、前作「プロメテウス」はイマイチな評価しかされなかった。その意味では今回はきっちりとエイリアンを登場させ、アクションシーンも用意した。2作目や3作目と思わせるアクション演出にこそ「あれ、続編否定してなかったっけ??」と苦笑してしまったが、恐らくはこれはファンサービス。監督が描きたいものを描くために、あえてエイリアン需要に応えたと考えた方が良いのだろう。“黒ひげ危機一髪ゲーム”的に飛び出すフェイスハガーなど、お決まりの展開を入れつつも、ちょっと新しい演出も交えながら、エグいシーンはとことん残酷に描き、モンスター映画としての新展開も楽しめる。
しかし、今作はあくまでも「プロメテウス」の続編という位置付けで観た方が良い。生物とは何か?アンドロイドと人の違いは何か?というところに作品の重きがある。監督の意図するところを理解できるか、はたまたモンスター映画として需要に十分応えているかで今作の評価は大きく異なるところだろうが、僕はそれでもやっぱり2が好き!
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