「それでも夢をみる」ディーパンの闘い 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
それでも夢をみる
最後の「夢」のシーンで泣きそうになった。
こんな状況なのにまだ夢をみてるのか、将来への希望を捨ててないのか、バカじゃないの?ほんとバカじゃないの?ディーパンの愚直さに泣きそうになった。
この映画は、ペキンパーの『わらの犬』を下敷きにしているという。『わらの犬』のあらすじ(物騒なアメリカを逃れイギリスに移り住んだ若夫婦。だがそこも牧歌的な風景と裏腹にゲスな暴力がはびこる場所だった…)と本作は似ている。が、ラストは全く違う。
『わらの犬』のラストは、主人公のダスティン・ホフマンが虚無的な眼をして去っていく。夢も希望もへったくれもないシニカルなラストだ。
ディーパンの置かれた状況は、『わらの犬』よりも更に酷い。
本作は、それでも夢をみる、男の物語だ。
希望など持てる状況でないのに、それでも家族との未来を夢みた男の物語だ。
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私は正直『わらの犬』のラストの方が、今の現実に近いのではないかと思う。シニカルになって当然のような気もする。だが、映画が現実を追ってどうする?
本作は、内戦、難民、フランスの下流といった現在を、リアルに作り込まれた映像で、ドキュメンタリーかのように描いている。日本人にとって身近な題材でないにもかかわらず、切実に感じてしまう。ディーパンという男が実在したのではないかというほどの熱がある。
それはキツい現実を知らしめるためというよりも、そんな状況にあっても、人を愛してしまった、希望を捨てきれなかった人間を、出来る限りの迫真をもって描きたかったからではないかと思う。
それはキレイゴトなのかもしれない。嘘くさいことなのかもしれない。虚無が本当なのかもしれない。でも、ディーパンみたいな男がいたって良いじゃないか、そんな祈りが、リアルとノワールが交差するこの映画になったのではないかと思う。
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<追記1>……三つの賛美歌
私たちは何も考えずに難民とひとまとめにするが、各々習慣が違う。こだわりが違う。この映画では、その違いをさりげなく描いていたと思う。
偽装家族として一つ屋根の下に暮らす他人。
片方は食事の前には祈り、片方は信仰に重きをおかない。
片方は食事はスプーンで。片方は手で掬って食べる。
兵士のディーパンにしてみれば、同胞を救うための内戦だったが、女にしてみれば、その内戦で祖国を捨てるしかなかった訳でディーパンもまた加害者である。
異国で、異質なバックグラウンドの者が分かりあえるのか。それを象徴するかのように、この映画には、三つの異質な賛美歌、祈りが流れる。
冒頭の、賛美歌「主は愛するものに眠りを与えたもう」。
二つ目、ディーパンが酔っ払って歌う唄。信条を歌ったこれは、元兵士にとっての聖歌だ。
そして、三つ目、ディーパンの疑似妻ヤリニが信仰する寺院で流れる読経。
三つの異質な祈り、文化は溶け合うのか。乗り越えられるのか。本当の家族になれるのか。それを映画は丹念に追っていたと思う。
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<追記2>……四つの夢
ディーパンは、異なるバックグラウンドの女を愛しはじめる。
そして元兵士という自分のバックグラウンドを捨てようとする。
途中、ディーパンは内戦の上官にしたたかに蹴られる夢をみる。過去と決別する自分を罰するような夢をみる。闘いにすべてを捧げてきた元兵士の深い葛藤がある。
それでも、ディーパンが選ぼうとしたのは、新しい家族であり新しい生活だったのだと思う。
(この映画にはディーパンのみた四つの夢が入っている。ディーパンが寝ているor意識が途切れた後に夢を差し込んでいて、そういう所が律儀だなあと思う。)
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<追記3>……二つの疑似家族
ディーパンと対照的な男が出てくる。
団地に住み着く麻薬ディーラー、ブラヒム。その名前から推測するに彼もまた移民の子なのではないか。
ブラヒムとヤリニのやり取りは、言葉が通じないにもかかわらず、いや言葉が通じない気安さからか、どこか静かな共鳴がある。ヤリニと彼もまた疑似家族のようにも見えてくる。
ディーパンは疑似家族を本物にしようとしたが、ブラヒムはそんなに他人に期待していない。
ブラヒムはチンピラのボスではあるが、自分は所詮捨て駒であり、この世界から抜け出せず死んでいくんだろうなと、うっすら自覚している。世間に何も期待してない。誰も助けてくれないことを知っている。彼の諦観もまた、この映画の中で切なく響く。