「当事者目線で描かれる生きる尊厳」サウルの息子 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
当事者目線で描かれる生きる尊厳
冒頭から引き込まれる、主人公サウルを中心とした長回し。「これは凄い映画だ…!」と思うと同時に、「こんな序盤が最大の見せ場だったらどうしよう?」と不安にもなった。
が、心配はご無用。この後もサウルと共に動くカメラの長回しが、圧倒的臨場感で観客をビルケナウ収容所の一員にする。
気持ちはもう新人ゾンダーコマンドである。
多くのゾンダーコマンドが最初そうであったように、我々に与えられる情報は少ない。急に連れてこられて、訳もわからぬまま陰惨な状況下で酷使される。
サウルの背中から覗く光景は、あまりにも強烈で残酷であるがゆえに、はっきりとした映像として記憶に残らない。
サウルもきっとそうなんだろう。はっきり見えてしまったら、心が壊れてきっと働けない。
サウルだけじゃない。他のゾンダーコマンドだって同じだ。
「今、自分は何をしている?」その問いに明瞭に答えてしまったら、すべては絶望の彼方に追いやられ、二度と這い上がってこられない底無しの沼に堕ちる。堕ちてしまう。
少し焦点のあっていない映像から、我々は読み解かなくてはならない。今の状況を。今の立場を。最適な振る舞いを。
間違えてはならない。目立ってはならない。心を暗くして、目を開かずに。
いったん映画の世界から離れ、第三者視点に立つと、己の無知を痛感する。何となく、虐殺された死体は埋めるものだと思っていた。ヨーロッパだし。
実際はサウルたちゾンダーコマンドの手で死体は焼却され、灰となったかつての同胞たちは川に撒かれた。そうなんだ、燃やすんだ。
日本的には、撒くのはアレだが、火葬が一般的なので死体を燃やすことを特別変なこととは思わない。だがユダヤ教は違う。審判の時が来れば復活し、善なるものは永遠の魂を手に入れる。
善なるものには肉体が必要だ。カデシュが必要なのだ。主を讃える祈りが、ラビが必要なのだ。
少年がガス室から生還したのを目撃したサウルは、少年に復活を見たのかもしれない。この善なるものの為に、どうしてもカデシュを行うという決意は、心を殺し、見ないように、聞かないように、死へのトンネルをゆっくりと進んでいたサウルにとって唯一の光だ。
サウルの後ろで、ずっと彼と視界を共有していた私に、サウルは何も語ってはくれない。想像するしかないけど、きっとそういうことなんだろう。
同胞を「部品」と呼び、その死をお膳立てし、復活を妨げ、いつかは自分自身もそうなる。
そんな世界から抜け出す為に、たった一人で、正面から激突するのではない、魂の勝利を目指して突き進むサウルの姿。
彼に感情移入するのは難しいかもしれない。でも否定は出来ない。一度しかない人生に高潔さを望むのは、きっと誰でも同じだから。