「儀式を通し救済される人間性」サウルの息子 REXさんの映画レビュー(感想・評価)
儀式を通し救済される人間性
予告編が終了すると、スクリーンの幅がぐぐっと狭まる。
珍しい対比の小さな画面の中からサウルの顔が浮き上がり、観客は彼の「中へ」入っていく。
収容所で同胞を処理するゾンダーコマンドの労働が、臨場感たっぷりに描かれる。
監督が言っていたように、「サウルを通して収容所をのぞき見する」という感覚。
同胞をガス室に閉じ込め、死体をひきずり、死体を燃やし、ガス室を掃除する。傀儡人形のように感情を押し込め、ひたすら労働に従事するゾンダーコマンドたち。
今作ではドイツ兵の描写に特別な残忍さはない(ユダヤ人を愚弄するシーンはある)。
ユダヤ人は死んで当たり前であり、殺すことは空気を吸うように自然。罪悪感もないし、羨望が隠れ潜む憎みやそねみという感情の発露の対象でもない。絶対的優越。
今まで観た作品群ではホロコーストの描かれ方に違和感があった。
いくらユダヤ人が国家を持たない根無し民族といったって、あんなに従容とガス室に送られるものなのか。
600万人もいて、抵抗勢力はなかったのか?そもそも600万人もの人間を(合計数とはいえ)軍が管理できるのか?600万人も従容と死を受け入れたのか?
何かの映画で(サラの鍵だったかもしれない)、「俺はユダヤ人自体に何の恨みもない。ただ抵抗すらしないユダヤ人はあまりにも勇気が無いから、尊敬するに値しない」という、私の疑問を映したような台詞があった。
だが調べてみると、レジスタンスも組織されたし、ロシアと手を組む多きな勢力もあった。なので、ひたすらユダヤ人を哀れな存在として描いていない収容所での暴動シーンは気に入った。
また、「伝統的なユダヤ語を話せない」ハンガリー系ユダヤ人、ゾンダーコマンド内でのヒエラルキー、ラビと偽りサウルを騙す男など、ユダヤ人も一枚岩ではないと思った。死にたくない者たちが、同胞を集めて扉を閉める、穴へ突き落とす。
次は俺たちだ、という段になって取り乱すゾンダーたちには、「自分だけ生き延びればいい」という思いも垣間見え気持ち悪かった。
反乱を企てるリーダーがサウルに投げかける「息子なんかいない」という台詞は、本当にいないと言い聞かせているのか、サウルの行動を諫めているのか、翻訳からはわからない。
結局「息子」はサウルの人間らしさへの尊厳の象徴だったのか、本当に息子だったのかはわからない。
せっかく生き延びた少年がむざむざ殺されてしまったことが、サウルの心に何かをともしたともいえる。
この映画で語られているのはホロコースト云々というより、極限下で人間の魂を救うのは、一体何かということである。
私はそれを神とは認めたくない。宗教戦争は一神教による選民思想に拠るところが大きいから。
サウルにとって葬儀にこだわったのは神からの救済かもしれないが、私は「儀式」を通しての「人間への尊重」が、ひいては自分自身の救済にもなるということだと思いたい。