「地獄の底に人間性は現われるのか」サウルの息子 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
地獄の底に人間性は現われるのか
第二次大戦末期のナチスのユダヤ人収容所施設。
舞台となるのは収容所とは名ばかりの虐殺施設(たぶん、アウシュビッツ収容所なのだろう)。
サウルはユダヤ人でありながら、ナチスのために働くユダヤ人。
彼らはゾンダーコマンドと呼ばれ、虐殺行為の一端を担っている。
しかしながら、生き延びることはなく、数か月で抹殺されてしまう運命にある。
ある日、サウルは他の収容施設から送達され、ガス室送りになったユダヤ人のなかに、息子の姿を見つける。
息子と思しき少年は、ガス室の中でも生き延びたが、まもなく、ナチスの手で殺されてしまう。
それまで、生き人形のように日々の労働をこなしていたサウルに、人間として生きる動機の一縷の綱が沸き起こる。
それは、息子の死体を焼却処理にせず、ユダヤ人として埋葬してやりたいということだった・・・というハナシ。
と、このように書くと、なんだかヒューマニズム溢れる映画のように思えるが、そんなことはない。
映画から発散されるのは、ユダヤ人収容所で繰り広げられていた非人道的行為に対する遣る瀬無さ。
ひいては、人間でいることすら拒否したくなる(せざるを得ない)情況である。
映画は、その非人道的行為を正面からは写さない。
常に、サウルの背後から垣間見るよう、サウルの後ろ姿にピントがあった画像で写していく。
よって、観客が観るそれらの行為は常にぼやけている。
ぼやけているが、行為は常にリアルである。
この演出には驚かされる。
それらのぼやけた行為を直視しようとし、しかし結果として目を背ける、いや観ないことを装う。
そんな効果があるのだろう。
なので、観客側は眼前で繰り広げられる非人道的行為に徐々に麻痺していき、サウルと同化する。
この映画の特筆すべきところは、この点である。
しかし、この演出にこだわるがゆえに、映画としての幅が狭くなってしまった。
サウルが感じる、息子と思しき少年の死体を埋葬することにこだわる気持ちが、真実かどうかあやふやなのである。
映画後半で、サウルには息子などいないと、周囲の人々から指摘されるている。
つまり、サウルはこの地獄のなかで正気を保っていたのか、いなかったのか。
これがよく判らない。
たぶん、巻末の結果から観れば、彼が正気を保つための自己欺瞞だと思われる。
とすると、息子のエピソードは、サウル自身の思い込み、よくいえば人間性を保つためのウソなのだろう。
そしてもうひとつ、サウルの息子の埋葬の執念と並列して描かれるのは、他のゾンダーコマンダーたちの叛乱の様子。
叛乱の企ての段階。
サウルは、この企てのなかで重要な位置づけにあるように描かれている。
先の、息子の埋葬がウソの世界ならは、この叛乱はホントウの世界である。
しかし、その企てについてもサウルの眼を通して描かれるため、何がどうなっているか、いまひとつ要領を得ない。
よく観ればわかるのかもしれないが、何故、サウルが叛乱の首謀者たちに重宝がられているのかはわからない。
ホントウの世界は、ただただ瓦解していくだけ。
で、映画としての幅が狭くなってしまったというのは、ウソもホントウも一緒くた、そんなことにこだわっていられない状況だ、ほら、そうだろう、というように映画が終始してしまったこと。
いま一歩引いて、物事を観る勇気がほしかった。
観ていて思ったのは、『炎628』。
非人道的行為は同じぐらいなのだが、あちらは少しだけ引いて観ていたように感じられました。