「「息子」と呼ばれているもの」サウルの息子 Pocarisさんの映画レビュー(感想・評価)
「息子」と呼ばれているもの
「息子」が主人公サウルの実の子であるのか否か、また、「息子」を埋葬することにこだわって周囲を危険に巻き込んで良いのか、といったあたりを取り上げた意見を見ると、ちょっと残念な気分になります。
そんなことはこの作品のストーリーの軸ではありません。
まず、「息子」とされている遺体が、サウルの実の息子などでないことは明白です。作品の中でちゃんと描かれています。
そんなことよりも、サウルがあの遺体を「まるで息子のように感じている」こと、そしてその埋葬にこだわり続けること、これらが何故なのかを考えるべきです。
次に、作中でユダヤ人たちが反乱を計画していますが、これがうまくいかないことも自明です。ナチスの強制収容所でユダヤ人が反乱を起こして成功したなんて歴史的事実を、聞いたことありますか?
反乱など決して成功しない。彼らは否応なしに殺される運命にあります。サウルにはそれがよくわかっています。
何よりサウルは、収容所で死んだユダヤ人の遺体が、その後どのように扱われるかを知っています。彼自身がその仕事に携わってきたのですから。
さて、サウルが「息子」と呼ぶ遺体の埋葬にこだわる理由です。
すでに様々な解釈が出ていますね。
埋葬にこだわることだけが彼の精神を支えていたのだ、とか。
町山さんは、収容所で殺された子供たちの象徴と見ていました。
これらに頷きつつも、ちょっと付け加えてみたいと思います。
誰かの息子とは、ある意味で、その人の分身でもあります。うつし身といってもいいでしょうか。
「息子」と呼ぶ遺体は、サウル自身の、死んだ後の遺体を象徴するものであり、また、収容所で死んでいくユダヤ人たち皆の象徴でもあると思います。
サウルは自分たちの遺体を、「息子」に見ているのです。
収容所で死んだユダヤ人の遺体は、例外なく火で灰になるまで焼かれ、その灰も川に流されます。
決して土に埋葬されることはありません。
それを知っているサウルだからこそ、「息子」だけは、ラビの臨席を得た正式な葬儀を行い、土中に埋葬したいと考えているのでしょう。
それがたとえできたとしても、本当にわすかな慰めでしかありません。
しかし、それを画策することで、彼が精神の均衡を辛うじて保っているというのは、そのとおりだと思います。
そんな彼の僅かな願いもむなしく、「息子」の遺体の埋葬はかなわず、しかも、他の遺体の灰と同じように川に流されてしまうのです。
そして、ラストシーン。ここは、町山さんのブログの解釈に委ねます。
少しだけ、救われた気分になりました。