映画 聲の形のレビュー・感想・評価
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誰かの心の傷を理解しようとする姿勢を説く作品。
アニメだからこそ、誰が見ても伝わる形で可視化され、内容の重さを受け止められる作品。
アニメだと、ファンタジー要素が入りメッセージ性は明確でという作品が多い中で、とてもリアルで、見た人に多角的に考えさせる作品。必ず見た方が良い作品だと思った。
いじめがテーマでもあるが、それ以上に、誰しも何かしら抱える心の傷を、関わる物が理解しようと向き合う時の難しさが伝わってきた。
公立の普通学級に、補聴器で少し声が聴こえるくらいの女の子、西宮しょうこが転校してきたところから展開していく。しょうこは筆談か、一生懸命話すぎこちない発話か、手話がコミュニケーション手段だが、小6の子供達にとって、しょうこの会話手段を読み取るのは難しく、どう思っているのか感じ取るのは更に難しい。
最初はサポートしてくれていたクラスメイトの植野も、しょうこによりクラスメイト同士の関係性が変わっていくことを恨めしく思ってしまう。
更には、小6男子の年ごろゆえ、気になる女の子の気を引くために嫌がることをしてしまう石田将也は、本心はしょうこともっと話したいだけなのに関わり方がわからず、大切な補聴器がどれだけ高価かもわからず何度も投げたり、怪我をさせたり暴言を吐いたり、いわゆるいじめの行いをしてしまう。
植野は元々仲が良かった佐原さんも石田もしょうこに取られた気がしてしまい、しょうこに冷たくあたり、しょうこと仲良くなろうとした佐原さんは植野にからかわれるようになり、転校。
担任の先生が石田を首謀者として名指しし、石田はかえっていじめられる側となり、学級のバランスは崩れたまま小学校は終了。それぞれ高校生となる。
高校にあがっても孤立している石田は、過去の後悔と罪悪感に苛まれ、手話を習っていると偶然しょうこに遭遇。しょうこの希望で佐原さんにも再会し、学校でも輪に入れぬ者同士親しくなれたりして、偶然植野にも遭遇。再び新たな人間関係が出来上がってきたところで、小学校も高校も石田と同じ、川井さんが口を開く。元々石田くんはいじめをしていたんだよ、と。しかも、川井さんはおそらく高校の同級生の真柴くんを好きで、真柴くんの前でよく振る舞うためにも、ことさらに私は悪くないと高校の同級生たちの前で大きな声で主張する。
築いた新たな交友関係でも再び浮く石田。
物語を追っていけば、石田にしょうこへの嫌悪感や強い悪意があったわけではないのがわかるが、やっていたことはいじめ。
川井さんが悪口も言わず、主張の強い植野を嗜めたり、しょうこにも優しくしてきたのは事実で、いじめっこと一緒にされたくない気持ちや石田を嫌な気持ちが消えずにいるのは仕方がない。
しょうこ本人は、耳のハンディに甘んじず、声でも伝えようとずっとしていて、それがなかなか伝わらず、進展しない人間関係に密かに孤独を深めていく。
周りはしょうこの本心を知りたいが、本人はどんな嫌なことをされても、自分の会話手段のせいだと思っているため、本気ですぐに謝るし、その癖がついている。
物語が進む中で、しょうこの耳の症状も進んでいく。片耳は聴力を失ったようで、補聴器をする必要もなくなる。
成長して人間関係が開けてきて、恋もし、一番楽しいはずのタイミングで選ぼうとした、自死。
「私といると不幸になる」この思考が染み付いてしまっているから。そのきっかけはもしかしたら小6の時のいじめの影響も大きいのかもしれない。石田と再会した瞬間、逃げ出したことからも、当時を良い思い出としていないのは確かだが、手話を学んで態度を改めた石田に驚き、石田を好きにさえなることができていたのに。
元々石田は、やっていることは最悪だが、本音でしょうこと接していたことをしょうこ自身もわかっていたからこそ、小6当時に取っ組み合いの喧嘩をしたこともあったし、再会後に好きとも思えたのかもしれない。
でも、幸せを感じるほどに、関わる人間を幸せのままにしたいがゆえ、自分の存在が害だと感じるのだろう。
わだかまりを抱えたまま成長してきた登場人物達が、小6当時はそれぞれが自身のどういう感情ゆえそういう態度だったか無自覚だったのかもしれないが、高校生になると、それぞれの当時の心境を吐露しはじめる。全員正直な気持ちを述べていて、見るものにより賛否はあれど、誰が間違っているというのはないのかもしれない。
これがこの作品のポイントだと思う。
加害者側被害者側とはっきり分かれている作品は沢山あるが、後から振り返る形でそれぞれに視点があたっていることで、考えさせられる。
では、しょうことどのように関われば良かったのか。
物語に登場すらしない、クラスで遠巻きに見ていた者達なら、しょうこと親しくもならないが、問題にはならなかっただろう。
川井さんは小6当時も高校生になっても誰に対しても優しい態度だが、しょうこを深く知ることはできていないし、石田の指摘の通り自分が責められたり傷ついたりしない予防策なだけなのかもしれない。
しょうこの本心を知ろうとした、石田や植野は、会話手段をしょうこに合わせることなく、自分が楽な健常者の口頭での会話で接したため、しょうことの会話を読み取れないことにやきもき、イライラを感じ、やりすぎてしまう。しょうこの意見を聞きたかっただけなのに。
しょうこを知ろうと手話にも興味を示した佐原さんは、成長後もしょうこを気にかけていたが、立場が危うくなると自分を守るため逃げるしかなくなった。
それぞれの関わり方こそ個性であり、成長してもまだ思春期の彼らはそれぞれに思うところがあり、どれが正解というものでもない。だからこそ難しい。
妹の結弦は、自身の生活ほったらかしでしょうこと常に一緒にいて、しょうこの気持ちをよく理解しているが、それでも、目の前にしょうこがいてもメールを使ったりもしている。
例え全員が健常者でも、誰かが日本語話者でなくても、価値観はバラバラで、同様にそれぞれの気持ちの交錯は起こるのだろう。でも、共通の会話手段を持つ重要性をひしひしと感じる。
しょうこ自身は、声で伝えられればと切に願い、思うようには発音が難しくても恥を捨てて話そうとしている。
周りもしょうこを知りたければ、手段を持たなければ。
手話が、聲の形となるのかもしれない。
石田もしょうこもニックネームはしょうちゃんで、元々通じ合いそうで通じ合わないギリギリの関係性がずっと続くところがもどかしい。
「ともだち」「これでもがんばってる」「すき」都度全力でしょうこは伝えているが、なかなか伝わらず、しょうこに死にたいとまで感じさせた石田が、今度は自殺を考えるまで追い込まれて、お互いに人を大切に想う気持ちを知っていく。
しょうこの母親から見たら、何度もしつこく接触をはかってくるいじめっ子そのものであり、他人には理解し難い関係性。
しょうこの母親はしょうこを守るため強く生きてきたのだろう、言葉の強さと裏腹に、明らかに心身とも疲れている。妹もしょうこに付きっきりだが、おそらく性同一性障害を抱えている。そんな家族をありのまま受け入れ温かく接する祖母いとの死。
しょうこが死にたいと思わないように、動物の遺体の写真を見つけては撮り壁に貼っていた妹の結弦の努力も虚しく、しょうこは死を選ぼうとする。
気持ちは本当によくわかる。いても誰かに嫌な思いをさせたりし、いなくなることすら、周りを悲しませるとしたら、もうどうしたら良いのか。
「誰だってそうでしょ」という川井さんの言葉が響く。
生きていて人に迷惑をかけない人などいないのだから、できる限り自分の事は自分でした上で、少し厚かましく、助けが必要なら声をあげ頼り、感謝して生きる。そのかわり、困っている人がいたら全力で助ける。
人間関係で好き嫌いが出てきてしまうのは仕方ないが、誰しも自分より内面ですぐれた部分を持っているもの。そこに目を向けて取り入れれば、そんなに腹は立たない。
個人的には、担任の先生の対応は最悪だと思うし、お世話する感覚でしょうこを見る川井の他人行儀な丁寧さも、植野の身勝手な思考回路も苦手である。
石田が程度をわきまえて素直に接していたら、とても良い結果になったのではないか。
そのために5ヶ月も放置せず早いうちに担任が動けていたら。佐原を守れていたら。そう感じさせられる。
それを体現するかのように、石田と高校生になってから友達になった永束くんの存在がある。過去を知っているわけではないが、大切な友達を信じて、見捨てない。
「ともだち」ってなんなんだろう。
心を開けるだけでなく、例え違う意見でも、対等に声をあげ合えること。助け合おうとできること。
そうある難しさがリアルに描かれている。
石田が過去の過ちの重さを身をもって深く理解し、10年越しに当時の関係者に謝罪するまでに至る難しさ、一度してしまったことを真剣に反省すればするほど、自身を許す難しさ、周りから許される難しさも描かれている。
作中、重々しい内容に刺激をつけるためなのか、わざと女の子の下着が見えそうだったり、ひさびさに会ってすぐに胸のサイズの話をしたり、女性の監督でありながら不快な描写も多い。こういうやり方でしか、男性は真剣な内容の作品を見られないと思われているのだとしたら、それも一種の差別だなと感じた。
作中の一筋の希望は、石田の母。
自業自得な石田以上に、悲しく辛い思いをしたのはしょうこの周りを除けば石田の母だろう。常に優しく気丈に振る舞うが、大切な息子が、他のおうちの大切な娘を傷つけてしまった悲しみはいかばかりかと思う。石田がしょうこの自死を防ぎ、石田自身が死の淵を彷徨ったことでやっと、しょうこの母から会話して貰える存在になった。そして、立場ゆえ孤立しがちなしょうこの母の髪を切ったり、息抜きの場、話し相手となることができそうだし、おそらくひとり親で、娘の結婚相手も外国人だったりと、多様性への理解がある。今後もしも石田としょうこの関係性が進んだとしても、きっと大丈夫だろう。そう思わせてくれる存在。
心の声が聞こえる
×点さん、ごめんなさい
「しょうこ」と打つと一発で変換できないので「ガラス」と打ちながら、硝子の心の奥底を感じ取ろうと努力してみました。だけど、やっぱり将也の心の方が痛いほど伝わってくる。高3で心を解き放ったのは本当に良かった。
いじめっ子が逆に孤立していじめられる側になるのはよくあること。周囲の子どもたちだって、良くないことだとわかりながらも同調してしまう社会の構図。子どもは大人の鏡とはよく言ったもので、成長する彼らの変化が面白いほどに胸に突き刺さってくる作品でした。
誰が悪い、誰が嫌い・・・そんな気持ちを払拭させてくれる高校時代。闇を抱えて一人悩むよりも人と話し合ったほうがいいに決まってる。素直にならなければ老人になるまでずっとしこりとなって残るはずだ。ろうあ者を中心に添えた設定も、心がうまく伝えられないもどかしさをも端的に表すことのモチーフだろう。
自分の気持ちが伝わった瞬間。至高の喜び。“ともだち”になったと思えるときなど、幼き頃を思い出しても世界が変わったひとときだった気がします。というか、この映画がそうだったんだよと教えてくれたのかもしれません。
登場人物のそれぞれの性格が見事に描かれ、嫌な奴だと思っていても次第に優しさがにじみ出てくるストーリー。みんな人付き合いが苦手なんだよ!声が届いた瞬間は絶妙だったし、心が伝わったことに涙した。あぁ、高校時代に戻りたい・・・
人と・自分と向き合うという事
原作未読です。中高生向けのアニメかと思って軽い気持ちで観ていたのですが、泣けました。こんなに感動するとは思っていませんでした。
人の心ってこんなにも柔らかくて繊細で、危うくて残酷でもあるのだなと改めて思いました。
小学生の硝子が将也に馬乗りになって掴みかかり喚く場面が印象的でした。何をされても静かに笑ったり、自分は悪くないのにごめんねと謝るばかりだった硝子が、ある意味初めて自分の感情を人にぶつけた瞬間だと思いました。
将也に酷い事をされても‘友達だよ’と伝えていたのは硝子が将也の中にある優しさを感じ取っていたからだと思います。だから周囲から孤立し、いじめられても何もしないでいる将也を見ているのが辛かったし悔しかったし、自分の姿と重なるようでもあり、腹が立ったのかなと思いました。
‘周りの人を不幸にしている’、‘自分が嫌い’。命まで絶とうとした硝子の気持ちを簡単にわかるとは言えませんが、重みは伝わってきます。硝子の心はまだ癒えていませんが、将也と共にこれから時間をかけてゆっくりと前に進んでいくのだと思います。
ラスト、文化祭で将也が大粒の涙を流す場面も感動しました。
やんちゃ坊主だった将也が、一瞬で周囲から孤立するあの感じ、怖かったです。子供だからすぐに仲直りするという事も無く、それはその後の中学高校生活でもずっと続きます。
‘自分への罰なのだ’と将也はそれを受け入れますが、周囲の目に常に怯えています。
心を閉ざす事でしか自分も守れなくなった将也。それは辛すぎます。命を絶とうとする前に硝子に会いに行きますが、彼女との再会がきっかけで、彼の心の中で何かが動き始めます。自ら人と関わり、少しずつ向き合えるようになっていきます。でも、上手くいかなくなるとまたすぐに心を閉ざします。まだ完全には心を開けていない将也ですが、ベランダから落ちていく硝子の手を掴んだ時、彼は自分が今まで心を閉ざす事で色々な事から逃げていた事に気付きました。
文化祭の人混みの中で涙を流す将也。自分の殻から完全に外に出て一歩を踏み出した瞬間の喜び・不安・勇気、、、色々な感情が伝わってきて感動しました。
親の視点から見た
人との関わり
孤立した将也
もう一度観たいと思わされる作品
表題通りである。前半の胸糞部分に苛まれ、後半入り込むことができなかったように思う。特に「いじめられた相手が変わったから好意を持つ」ように描かれているところが微妙。
男子小学生特有の、好奇心≒いじめ・からかいに繋がる部分がいまいち。本格的にいじめているようにしか見受けられなかった。それを受け周りの女子も加勢し、いざとなったら誰も助けない。現代の小学生はこうなのか、と思わされた。
手話がわからない筆者にとっては、手話だけで語る場面が掴めなかった。そこも残念。
自らの問題を差し置いて姉を思う結弦と、不器用ながらも西宮を想い、白黒明確に分けたがる植野に共感を持った。ただ、結弦が最後無事に学校に行ったのか、彼女個人の問題についてはどうなったのかが不明瞭なのが気になった。
そしてカメラワークや映像に、京都アニメーションの凄さを感じた。主人公の視線や考え方をつぶさに表現するカメラワーク。人生でアニメーションを観る経験に乏しかったから、改めてアニメーションの可能性を知ることができた。
胸糞部分もあったが、最後の終わり方が綺麗だった上になかなか掴めない部分も多かった。故にもう一度観て、解釈や思考を変えられたら。そう思えた。
子供に早い段階で見せたい映画
号泣しました
京アニの映画は初めて観ます。
聴覚障害とイジメを題材にしており・・結構重いテーマ。
作画はさすが京アニ。とても綺麗で魅了されます。
■石田母が耳から血を流すシーン。
映画では説明がないままだったので、あの耳はどういうこと??
母親同士でなにかあった??西宮母にやられたのか??・・という
想像しか出来なかったのですが公式ファンブックによると
作者の大今良時さんは↓の様に語っています。
『ピアスを引きちぎったあとから出血しています。
硝子の母には「硝子の痛みがわかる?落とし前をつけなさい」
・・という思いがあったでしょうし、
石田の母もその気持は理解できたのでしょう。』
・・という説明があったので、石田母が自らピアスを引きちぎり
息子がやったことに対する落とし前を付けたという事になります。
■いじめっ子が、いじめられっ子になるパターンって珍しい。
現実世界において、いじめっ子は、ず~っと・・いじめっ子なんですよね。
いじめの代償にSNSで住所拡散されるとか損害賠償求められるはあっても
いじめられっ子になる・・ってのは、数少ないパターンだと思います。
特に序盤の石田くんが西宮さんにしたイジメというのは、かなり酷いもの。
そんな子がイジメられて、初めてイジメの怖さを知り消極的な子になる。
因果応報とは、まさにこのこと。
■唯一の癒やしは永束くんとマリアちゃん。
重いストーリーの㊥にも、癒やされる登場人物といえば
石田くんの唯一の本当の友達、永束くんと姪っ子マリアちゃん♥
この2人が居て良かった。
■西宮硝子ちゃんは何を考えているのか分かりにくい。
彼女が自殺しようとするシーンがありますが、急になぜ?!・・って最初思いました。
彼女の内面の描写は基本的に描かれていないので真意は分からないけど
彼女の今までの人生を辿れば死にたくなるのは、なんとなく理解できますよね。
自分の聴覚障害のせいでで親は離婚し、学校ではイジメられ、
佐原さんも転校させてしまい、妹は自分に付きっきりで不登校・・
追い打ちは自分のせいで石田くんが友達と喧嘩別れしてしまった。
彼女にも苦悩・葛藤があった。けど幼少からの壮絶な過程で
自分の感情を表現できないんだと思います。
ニコニコ笑顔は自分を守る為の愛想笑い。
本当は悲しいのに明るく振る舞うのもイジメからそうなってしまったのかも。
■いつ好きになった??
いくら改心したからと言っても私なら自分をイジメてた人なんて
好きにならないんですけどね。
やっぱり硝子ちゃんは何を考えてるのは分からないなぁ(;´∀`)
初めて自分と真剣に友達になろうとしてくれる異性が石田くんだったから
好きになったのかなぁ。
■顔✖が取れた時、感動しました。
石田くんの心情がよく出てますよね。
中学3年間いじめられ、人間関係をシャットアウト。
ずっと✖付いてたのが取れたとき・・私も号泣(´;ω;`)
■イジメ問題は永遠のテーマ
いつの時代もイジメって無くならない永遠のテーマですね。
誰もが学生時代にイジメの状況を見てきたはずです。
そのとき、自分はどんな立場にいましたか?
この映画で救われたのはイジメてた側の人間も高校生になり心が成長し
自分のしたことに反省している点。
直接謝る描写はないものの、行動が示していますよね。
イジメは心が未熟な人間がするものなのだと思いました。
最後に。京都アニメーション放火事件でお亡くなりになられた皆様の
ご冥福を心よりお祈りしますとともに、ご遺族の皆様にお悔やみ申し上げます。
想像をしていく
これを一つの恋愛ものとしてジャンルがおかれてることに違和感がある。
時代関係なく、いつ、どんな身近なところでも言えることなんじゃないかと思う。
差別ってどこから始まる? 言ったから悪くなる?言わないでいたから私は悪くない?
何が正しくて誰が悪いとか、このコロナ下でも日常でもあったなぁと少し感じた。
視点がそれるかもだけど、他人の家にビラを張って、まるでパトロールをした気分でいる当の本人はいいことをしたつもりでいる。
もちろん、この聲の形の主人公がした補聴器を壊す行為はいけないことだが、それを周りで見ていた同級生はじゃぁ悪くないと言えるのか、
これといって大きく対策にでなかった担任の先生は?
親たちは?
川井さんが視聴者からかなり嫌われているけど、同じクラスにいたら、家族にいたら、自分が川井さんだったら、、、
もしも、"ワタシ"がこの世界の中の登場人物だったら、どの立ち位置で物語をすすめられるだろう、
そんなことを考えてしまった作品でした。
聞こえない。それだけではない。
この素晴らしい作品に「意味不明」というレビューが散見されているのはとても残念です。でも聴力障害について全く知らないひとが見たら、大事な部分が理解出来ないと思います。
これは冒頭5分でいい。聴力障害について説明があったら、全く評価は変わっていたと思います。
単に音が聞こえない。それだけではないのです。
大変失礼な言い方になりますが、視力を失った不便さは目を塞げば理解出来ます。でも聴力障害は耳を塞いでもわからないのです。どうして硝子は話せないのか、補聴器は何のためなのか、途中で片方だけになったのは何故か・・一番この作品の鍵となる「どうして空気を読めないのか」・・それがわからないと、観ていても理解なんかできるわけがないと思います。説明を端折って単なるいじめに見せてしまったのはスタッフの失敗だと思います。
将也が硝子の耳元で大声で叫ぶ場面にはゾッとしました。彼女にとってそれがいかに強い衝撃で「苦痛」なのか。
普通級に入れたことがそもそもの事件の発端であるのは、誰が見てもわかります。無気力で身勝手な先生も不快ですが、なぜ硝子は「ごめんなさい」と言い続けなければならなかったのか。それは「普通の子」として育てたいという母親のエゴが生んだ悲劇という一面も忘れてはいけません。硝子を追い詰めて行ったのは他の誰でもない、母親の愛なのです。
でも、母親も含めて、決して誰も悪くない。全ては「誤解」。なのにどうして傷つけあわなくてはならないのか・・それがこの作品のメッセージです。
素晴らしい作品です。スタッフには感謝の気持を伝えたいです。
追伸:TV放映では30分ほどカットされていたようです。この素晴らしい作品のどこを切り捨てられたのか、気になるところですが、TV版で「見たような」気分にならないでほしいと思います。
見終わった後の不快感の理由
(Netflixで視聴、原作漫画未読)
ストーリーは、主人公の石田くんが小学校時代のいじめの加害と被害を経験し以降他者との関わりを絶ってきたが、過去と徐々に向き合い、自分自信の弱さに気づき他者を認め生きていこうとする。
いいストーリーだと思う。
アニメーションも美しく、十分世界観に没入することができる。キャラクターも魅力的で感情移入できる部分もたくさんあった。
だが、これは何がテーマか?何を言いたのか?となると途端によくわからない。理由はテーマと内容に一貫性がないからである。
この映画の一番の問題はこれがコミュニケーションがテーマであるということだ。ストーリーは魅力的なのに、それを動かすテーマの掘り下げが浅く、むしろ偏見を助長するのではではないかと思う。
コミュニケーションの齟齬によるいじめ、いがみ合い、誤解という問題をストーリー上では解決したように見えるが、根本的な問題は一切解決してないし、しようとしていない。
登場人物は「良い人」ばかりではない。実際に偏見を持った人間は多く存在するのでそれは良いのだが、劇中の植野さんが発する「あんたがいなければ、こんな事にはならなかった」というセリフを誰も否定できていないのはかなり問題である。
植野さんの言うように西宮さんはろう学校に行けば良かったのか?この答えは劇中にはないが、もちろんそれは間違っている。
じゃあ何が悪かったのか。
西宮さんが空気を読まないからか?植野さんが発しているサインを西宮さんが無視したことか?いじめられる子供に原因があるのか?
違う、最も大きな原因は大人が子どもを軽視したことだ。このいじめは担任と担任の存在を許す他の大人たちの責任である。確かに担任の無関心や無理解な態度は描かれるが、大人の責任を十分言及していないために問題がいじめられた子やいじめてしまった子の責任のようになっている。
西宮さんという存在は他の生徒にとって今までのコミュニケーションでは上手くいかないという混乱とストレスを招く。それに対応するために必要なのは知識と理解である。手話の授業の場面で、植野さんが「なんで筆談じゃダメなんですか」と先生に質問したときの答えが「その方が西宮さんが楽だから」というセリフには呆れ返った。これがこの映画を作った人間の理解なのか。
高校生になった子供たちが再会した時もこの知識による成長は描かれなかった。最も描かれるべきは再会ではなく、石田くんが手話を勉強して知識を得て西宮さんを理解しようとしたことだったのではないか。なぜ鯉に餌をあげたり、遊園地に行くことで打ち解けるような表面的なことで問題を解決しようとするのだろう。
登場人物の「良い人」ではない人を否定することは容易いが、なぜ彼らが誤解や偏見を捨てられなかったか考えて欲しい。
良い映画は他にもたくさんある。
だが、もしこの作品を大人が子供に見て欲しいと思うなら、この映画に登場する大人同様に子どもを軽視していると私は思う。
(コメントを受けて補足)
私は聴覚障害について知識不足なので「空気を読まないのではなく、読めない」という事がどういうことなのか正確には分かりませんが、聴覚という健常者が当たり前に使用している機能は、他者との距離感や気持ちを読み取る事などの聴覚以外の能力にも貢献しているのかもしれません。だから西宮さんのコミュニケーション方法がクラスの中で違和感を周りに抱かせるのだろうか思いました。
コメントを書いて頂いた方が指摘しているように、映画には説明不足な部分があるのは理解できます。その説明を省いてまで既存のシーンを入れた製作者の意図はなんだったのでしょうか。その意図の予想はレビューに書いた通りです。
私たちがこの映画を見ることによる聴覚障害や手話の理解は、西宮さんの周囲の人たち、つまり石田くんや植野さんが西宮さんを理解する過程と同じはずです。そこが省略されてただ青春ぽいことをする若者たちが描かれて、みんながなんとなく打ち解けて、おしまい!なんてのは論理的にも倫理的にも私は納得出来ません。
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