映画 聲の形のレビュー・感想・評価
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人が人である限り、健常者、障がい者問わず他者を理解するのは難しい
オープニングがとてもカッコよく
一気に引き込まれました
そして
エンディングのaikoさんの歌まで
あっという間に時間が過ぎました
本作品
西宮さん以外の健常者がたくさん出てきますが
皆それぞれが衝突し合います
健常者同士でもコミュニケーションが難しいのに
ましてや障がい者となると
接し方が難しいのは必然…
実生活でも
障がい者だから優しくしてあげるべきなのか
障がい者だけど健常者と同等に接してあげるべきなのか
考えさせられる場面たくさんあります
やはり
その人の障がいの有無は関係なく
人が人である限り個性は十人十色であり
その人に合わせた対応の仕方が求められるのではないか…
この映画はその感覚を見事に映画化してくれてる作品と感じました
心を抉る。とにかく「生々しい」
公開からしばらく、強烈に賛否両論があったと記憶しています。
特に「(いじめ)加害者を美化してる」といったマイナス批評が多く目に付きましたが、トラウマを喚起されてしまった当事者でないならば、表層的でもったいない見方だと思います。
物語の軸は、完全に硝子と将也の関係性に置かれています。
一見主題にも思える「いじめ問題」や「聴覚障害」は全く主題ではなく、大きめの舞台装置に過ぎません。
この作品が描く主題は、「人間の不完全さ」「コミュニケーションの難しさ」だと思います。
登場人物が全て見事に欠点を晒していて、通常のドラマ作品には必要ないまでに「脚色され尽くした生々しさ」があります。
虚勢から手痛い失敗をする繊細な小心者。
真っ直ぐ過ぎる故、不器用に周囲を傷つける者。
強烈な自己愛と、自覚すらない歪んだ邪悪。
未熟で無責任な教職者…
遠慮なく言ってしまえば、「○○性人格障害」のテンプレートのような登場人物の群像劇に仕上がっている。
そういった不快感が漂う世界観と相関関係の中で、硝子と将也の関係性が絶妙に付いては離れてはで転がる。
不完全な人たちの不完全なコミュニケーションは少しずつ噛み合い、最後には小さな希望を感じさせながら、深い余韻が残る。
「重苦しい恋愛映画」のようでもあって、やはりそうではない。
「こんな関係もある」という、そんな一例を描いた作品だと思います。
心理をゲームや記号などの独特の映像で表現したり、硝子視点での聾唖者の音のこもる表現など、京都アニメーションが放つ圧倒的なクオリティも最大のポイントです。
最高のアニメーション映画
非常に静かな映画
誰かの心の傷を理解しようとする姿勢を説く作品。
アニメだからこそ、誰が見ても伝わる形で可視化され、内容の重さを受け止められる作品。
アニメだと、ファンタジー要素が入りメッセージ性は明確でという作品が多い中で、とてもリアルで、見た人に多角的に考えさせる作品。必ず見た方が良い作品だと思った。
いじめがテーマでもあるが、それ以上に、誰しも何かしら抱える心の傷を、関わる物が理解しようと向き合う時の難しさが伝わってきた。
公立の普通学級に、補聴器で少し声が聴こえるくらいの女の子、西宮しょうこが転校してきたところから展開していく。しょうこは筆談か、一生懸命話すぎこちない発話か、手話がコミュニケーション手段だが、小6の子供達にとって、しょうこの会話手段を読み取るのは難しく、どう思っているのか感じ取るのは更に難しい。
最初はサポートしてくれていたクラスメイトの植野も、しょうこによりクラスメイト同士の関係性が変わっていくことを恨めしく思ってしまう。
更には、小6男子の年ごろゆえ、気になる女の子の気を引くために嫌がることをしてしまう石田将也は、本心はしょうこともっと話したいだけなのに関わり方がわからず、大切な補聴器がどれだけ高価かもわからず何度も投げたり、怪我をさせたり暴言を吐いたり、いわゆるいじめの行いをしてしまう。
植野は元々仲が良かった佐原さんも石田もしょうこに取られた気がしてしまい、しょうこに冷たくあたり、しょうこと仲良くなろうとした佐原さんは植野にからかわれるようになり、転校。
担任の先生が石田を首謀者として名指しし、石田はかえっていじめられる側となり、学級のバランスは崩れたまま小学校は終了。それぞれ高校生となる。
高校にあがっても孤立している石田は、過去の後悔と罪悪感に苛まれ、手話を習っていると偶然しょうこに遭遇。しょうこの希望で佐原さんにも再会し、学校でも輪に入れぬ者同士親しくなれたりして、偶然植野にも遭遇。再び新たな人間関係が出来上がってきたところで、小学校も高校も石田と同じ、川井さんが口を開く。元々石田くんはいじめをしていたんだよ、と。しかも、川井さんはおそらく高校の同級生の真柴くんを好きで、真柴くんの前でよく振る舞うためにも、ことさらに私は悪くないと高校の同級生たちの前で大きな声で主張する。
築いた新たな交友関係でも再び浮く石田。
物語を追っていけば、石田にしょうこへの嫌悪感や強い悪意があったわけではないのがわかるが、やっていたことはいじめ。
川井さんが悪口も言わず、主張の強い植野を嗜めたり、しょうこにも優しくしてきたのは事実で、いじめっこと一緒にされたくない気持ちや石田を嫌な気持ちが消えずにいるのは仕方がない。
しょうこ本人は、耳のハンディに甘んじず、声でも伝えようとずっとしていて、それがなかなか伝わらず、進展しない人間関係に密かに孤独を深めていく。
周りはしょうこの本心を知りたいが、本人はどんな嫌なことをされても、自分の会話手段のせいだと思っているため、本気ですぐに謝るし、その癖がついている。
物語が進む中で、しょうこの耳の症状も進んでいく。片耳は聴力を失ったようで、補聴器をする必要もなくなる。
成長して人間関係が開けてきて、恋もし、一番楽しいはずのタイミングで選ぼうとした、自死。
「私といると不幸になる」この思考が染み付いてしまっているから。そのきっかけはもしかしたら小6の時のいじめの影響も大きいのかもしれない。石田と再会した瞬間、逃げ出したことからも、当時を良い思い出としていないのは確かだが、手話を学んで態度を改めた石田に驚き、石田を好きにさえなることができていたのに。
元々石田は、やっていることは最悪だが、本音でしょうこと接していたことをしょうこ自身もわかっていたからこそ、小6当時に取っ組み合いの喧嘩をしたこともあったし、再会後に好きとも思えたのかもしれない。
でも、幸せを感じるほどに、関わる人間を幸せのままにしたいがゆえ、自分の存在が害だと感じるのだろう。
わだかまりを抱えたまま成長してきた登場人物達が、小6当時はそれぞれが自身のどういう感情ゆえそういう態度だったか無自覚だったのかもしれないが、高校生になると、それぞれの当時の心境を吐露しはじめる。全員正直な気持ちを述べていて、見るものにより賛否はあれど、誰が間違っているというのはないのかもしれない。
これがこの作品のポイントだと思う。
加害者側被害者側とはっきり分かれている作品は沢山あるが、後から振り返る形でそれぞれに視点があたっていることで、考えさせられる。
では、しょうことどのように関われば良かったのか。
物語に登場すらしない、クラスで遠巻きに見ていた者達なら、しょうこと親しくもならないが、問題にはならなかっただろう。
川井さんは小6当時も高校生になっても誰に対しても優しい態度だが、しょうこを深く知ることはできていないし、石田の指摘の通り自分が責められたり傷ついたりしない予防策なだけなのかもしれない。
しょうこの本心を知ろうとした、石田や植野は、会話手段をしょうこに合わせることなく、自分が楽な健常者の口頭での会話で接したため、しょうことの会話を読み取れないことにやきもき、イライラを感じ、やりすぎてしまう。しょうこの意見を聞きたかっただけなのに。
しょうこを知ろうと手話にも興味を示した佐原さんは、成長後もしょうこを気にかけていたが、立場が危うくなると自分を守るため逃げるしかなくなった。
それぞれの関わり方こそ個性であり、成長してもまだ思春期の彼らはそれぞれに思うところがあり、どれが正解というものでもない。だからこそ難しい。
妹の結弦は、自身の生活ほったらかしでしょうこと常に一緒にいて、しょうこの気持ちをよく理解しているが、それでも、目の前にしょうこがいてもメールを使ったりもしている。
例え全員が健常者でも、誰かが日本語話者でなくても、価値観はバラバラで、同様にそれぞれの気持ちの交錯は起こるのだろう。でも、共通の会話手段を持つ重要性をひしひしと感じる。
しょうこ自身は、声で伝えられればと切に願い、思うようには発音が難しくても恥を捨てて話そうとしている。
周りもしょうこを知りたければ、手段を持たなければ。
手話が、聲の形となるのかもしれない。
石田もしょうこもニックネームはしょうちゃんで、元々通じ合いそうで通じ合わないギリギリの関係性がずっと続くところがもどかしい。
「ともだち」「これでもがんばってる」「すき」都度全力でしょうこは伝えているが、なかなか伝わらず、しょうこに死にたいとまで感じさせた石田が、今度は自殺を考えるまで追い込まれて、お互いに人を大切に想う気持ちを知っていく。
しょうこの母親から見たら、何度もしつこく接触をはかってくるいじめっ子そのものであり、他人には理解し難い関係性。
しょうこの母親はしょうこを守るため強く生きてきたのだろう、言葉の強さと裏腹に、明らかに心身とも疲れている。妹もしょうこに付きっきりだが、おそらく性同一性障害を抱えている。そんな家族をありのまま受け入れ温かく接する祖母いとの死。
しょうこが死にたいと思わないように、動物の遺体の写真を見つけては撮り壁に貼っていた妹の結弦の努力も虚しく、しょうこは死を選ぼうとする。
気持ちは本当によくわかる。いても誰かに嫌な思いをさせたりし、いなくなることすら、周りを悲しませるとしたら、もうどうしたら良いのか。
「誰だってそうでしょ」という川井さんの言葉が響く。
生きていて人に迷惑をかけない人などいないのだから、できる限り自分の事は自分でした上で、少し厚かましく、助けが必要なら声をあげ頼り、感謝して生きる。そのかわり、困っている人がいたら全力で助ける。
人間関係で好き嫌いが出てきてしまうのは仕方ないが、誰しも自分より内面ですぐれた部分を持っているもの。そこに目を向けて取り入れれば、そんなに腹は立たない。
個人的には、担任の先生の対応は最悪だと思うし、お世話する感覚でしょうこを見る川井の他人行儀な丁寧さも、植野の身勝手な思考回路も苦手である。
石田が程度をわきまえて素直に接していたら、とても良い結果になったのではないか。
そのために5ヶ月も放置せず早いうちに担任が動けていたら。佐原を守れていたら。そう感じさせられる。
それを体現するかのように、石田と高校生になってから友達になった永束くんの存在がある。過去を知っているわけではないが、大切な友達を信じて、見捨てない。
「ともだち」ってなんなんだろう。
心を開けるだけでなく、例え違う意見でも、対等に声をあげ合えること。助け合おうとできること。
そうある難しさがリアルに描かれている。
石田が過去の過ちの重さを身をもって深く理解し、10年越しに当時の関係者に謝罪するまでに至る難しさ、一度してしまったことを真剣に反省すればするほど、自身を許す難しさ、周りから許される難しさも描かれている。
作中、重々しい内容に刺激をつけるためなのか、わざと女の子の下着が見えそうだったり、ひさびさに会ってすぐに胸のサイズの話をしたり、女性の監督でありながら不快な描写も多い。こういうやり方でしか、男性は真剣な内容の作品を見られないと思われているのだとしたら、それも一種の差別だなと感じた。
作中の一筋の希望は、石田の母。
自業自得な石田以上に、悲しく辛い思いをしたのはしょうこの周りを除けば石田の母だろう。常に優しく気丈に振る舞うが、大切な息子が、他のおうちの大切な娘を傷つけてしまった悲しみはいかばかりかと思う。石田がしょうこの自死を防ぎ、石田自身が死の淵を彷徨ったことでやっと、しょうこの母から会話して貰える存在になった。そして、立場ゆえ孤立しがちなしょうこの母の髪を切ったり、息抜きの場、話し相手となることができそうだし、おそらくひとり親で、娘の結婚相手も外国人だったりと、多様性への理解がある。今後もしも石田としょうこの関係性が進んだとしても、きっと大丈夫だろう。そう思わせてくれる存在。
心の声が聞こえる
×点さん、ごめんなさい
「しょうこ」と打つと一発で変換できないので「ガラス」と打ちながら、硝子の心の奥底を感じ取ろうと努力してみました。だけど、やっぱり将也の心の方が痛いほど伝わってくる。高3で心を解き放ったのは本当に良かった。
いじめっ子が逆に孤立していじめられる側になるのはよくあること。周囲の子どもたちだって、良くないことだとわかりながらも同調してしまう社会の構図。子どもは大人の鏡とはよく言ったもので、成長する彼らの変化が面白いほどに胸に突き刺さってくる作品でした。
誰が悪い、誰が嫌い・・・そんな気持ちを払拭させてくれる高校時代。闇を抱えて一人悩むよりも人と話し合ったほうがいいに決まってる。素直にならなければ老人になるまでずっとしこりとなって残るはずだ。ろうあ者を中心に添えた設定も、心がうまく伝えられないもどかしさをも端的に表すことのモチーフだろう。
自分の気持ちが伝わった瞬間。至高の喜び。“ともだち”になったと思えるときなど、幼き頃を思い出しても世界が変わったひとときだった気がします。というか、この映画がそうだったんだよと教えてくれたのかもしれません。
登場人物のそれぞれの性格が見事に描かれ、嫌な奴だと思っていても次第に優しさがにじみ出てくるストーリー。みんな人付き合いが苦手なんだよ!声が届いた瞬間は絶妙だったし、心が伝わったことに涙した。あぁ、高校時代に戻りたい・・・
人と・自分と向き合うという事
原作未読です。中高生向けのアニメかと思って軽い気持ちで観ていたのですが、泣けました。こんなに感動するとは思っていませんでした。
人の心ってこんなにも柔らかくて繊細で、危うくて残酷でもあるのだなと改めて思いました。
小学生の硝子が将也に馬乗りになって掴みかかり喚く場面が印象的でした。何をされても静かに笑ったり、自分は悪くないのにごめんねと謝るばかりだった硝子が、ある意味初めて自分の感情を人にぶつけた瞬間だと思いました。
将也に酷い事をされても‘友達だよ’と伝えていたのは硝子が将也の中にある優しさを感じ取っていたからだと思います。だから周囲から孤立し、いじめられても何もしないでいる将也を見ているのが辛かったし悔しかったし、自分の姿と重なるようでもあり、腹が立ったのかなと思いました。
‘周りの人を不幸にしている’、‘自分が嫌い’。命まで絶とうとした硝子の気持ちを簡単にわかるとは言えませんが、重みは伝わってきます。硝子の心はまだ癒えていませんが、将也と共にこれから時間をかけてゆっくりと前に進んでいくのだと思います。
ラスト、文化祭で将也が大粒の涙を流す場面も感動しました。
やんちゃ坊主だった将也が、一瞬で周囲から孤立するあの感じ、怖かったです。子供だからすぐに仲直りするという事も無く、それはその後の中学高校生活でもずっと続きます。
‘自分への罰なのだ’と将也はそれを受け入れますが、周囲の目に常に怯えています。
心を閉ざす事でしか自分も守れなくなった将也。それは辛すぎます。命を絶とうとする前に硝子に会いに行きますが、彼女との再会がきっかけで、彼の心の中で何かが動き始めます。自ら人と関わり、少しずつ向き合えるようになっていきます。でも、上手くいかなくなるとまたすぐに心を閉ざします。まだ完全には心を開けていない将也ですが、ベランダから落ちていく硝子の手を掴んだ時、彼は自分が今まで心を閉ざす事で色々な事から逃げていた事に気付きました。
文化祭の人混みの中で涙を流す将也。自分の殻から完全に外に出て一歩を踏み出した瞬間の喜び・不安・勇気、、、色々な感情が伝わってきて感動しました。
親の視点から見た
人との関わり
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