走れ、絶望に追いつかれない速さでのレビュー・感想・評価
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【絶望に呑み込まれてしまった親友の死を受け入れられない男が、親友の故郷を訪れ、再生して行く姿を描いたロードムービー。人間の細やかな善性と生の喜びを表現した作品でもある。】
ー 今作を観ると、中川龍太郎監督は初期から”喪失から再生”と言うテーマに拘っていたのかな、と思った作品。-
■青春時代を共に過ごした親友・薫の死を、1年経っても受け入れられずにいる漣(太賀)。
薫が遺した絵には中学時代の同級生の女性の姿があった。
その女性に薫の死を知らせようと決意した漣は、彼女がいる薫の故郷に薫の元彼女、理沙子
(黒川芽以)と向かう。
だが理沙子は、富山で一泊した後に”矢張り帰る”と言って去る。
独りで、中学時代の同級生の女性に会いに行った蓮だが・・。
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
・仲野太賀は、太賀と名乗っていた頃から、好きな俳優であるが、今作を観て、その感を強くした。
・漣が、親友・薫の死に納得できずに、鬱屈した日々を過ごす中、一周忌に彼の両親から手渡された一人の女性の絵。
彼は、薫の死の理由を知るためか、親友の元彼女、理沙子と、富山を訪れる。
だが、理沙子は去り、漣は一人でスナックで働く中学時代の同級生の女性を訪れるが、その素っ気ない態度と言葉に、店を後にする。
翌日、薫が死んだ岩壁で泣き崩れる蓮が、地元の老人に肩を叩かれ、食事を振舞われるシーン。
■このシーンは、今作の白眉のシーンであろう。
老人のさり気無い優しさと、涙を流しながら食事を掻きこむ蓮を演じる太賀の姿。
そして、彼は全てを吹っ切り、仕事場に戻るのである。
今まで、漣に厳しかった先輩が見せるさり気無い優しさも良い。
<尺が短く、観る側に解釈を委ねる映画であるが、ラスト、漣がハンググライダーで、太陽に向かって宙を舞う姿は、生の喜びを表している、と私は思った。
人間の細やかな善性を表現した作品であるとも思う。>
重そうなタイトルだったので覚悟して観た。 生命力に溢れた激しくもや...
重そうなタイトルだったので覚悟して観た。
生命力に溢れた激しくもやわらかい作品だった。絶望に追いつかれないように走って生きている人や、受け入れて過ごす人、たくさんいる。絶望とどう向き合ったって生きていたらいい。
作中何度か映し出される主人公の食事シーン。職場の先輩と食べる時は基本的に惰性で食べている感じがしたけど、すき焼きのシーンは色んな想いが溢れかえっていてすごく人間味があった。
監督は生きることと親友が大好きなんだろうな、と思う。
おそらく友人の死が招いただろう主人公の心の閉塞感を、 Amazon...
おそらく友人の死が招いただろう主人公の心の閉塞感を、
AmazonPrimeあと3日で配信終了だったので、観ました。
大まかに言うと、親友の死に自分の心の閉塞感を原因を求めている主人公が、
彼の生前の足跡を辿りながら、やがて自分の心にもトンネルを見出すみたいな、
そんな感じのストーリーだったと思う。
監督の実体験が如実に作品に出ていると言う事だ。
個人的に印象に残ったのが、このタイトル通りのセリフより、
亡くなった親友の初恋の相手が発した
『自分の問題は自分で解決してもらっていいかな?』
という言葉が主人公を動かしたような気がする。
あのシーンから一気に主人公演じる太賀が、自らの足で歩み始めたような。。。
巧く書けないが。
全体として、大衆的なドラマチック映画ではないので、凄く抽象的で静かに過ぎていくが、
そこにある映像美や演出は秀逸。特に仲野太賀さんだからこそこういう葛藤が描けるのではないかと思った。
中川龍太郎監督、今まで3作品観たが、独特の視点でなかなか良い映画作る。
これからも期待。
太賀さんはやはりいいです!
都会の朝の静寂なビル群、朝焼けの赤紫色の空の日の出、ただ静かに波打つ海…
まるで写真集の1ページのような映像に言葉が出ませんでした。
その情景を巧みに入れることにより、作品の内容をさらに膨らませ、観ている人の心に刻みつける技法は中川監督らしいと思いました。
太賀さんは普通の一般男性役が抜群に上手な役者さんだと思います。肯定的な意味でこの人はコレという固定観念もなく、自分の色を作品ごとに作っていくというような感じがします。
おじいちゃんが黙って作ってくれたすき焼きを、泣きながら無我夢中で食べる太賀さんの演技には胸を打つものがあり、おじいちゃんの優しさがとても切なかったです。
この作品でまた、1つ太賀さんの魅力を見つけられました。
圧倒的な映像美
観終わった後議論の余地が残る、人によって与えられた余韻が異なるような作品でした。絶望に追いつかれてしまったのだろうか。中川龍太郎監督は自主映画時代のサイレントな作風しか観たことがなかったから新鮮な驚きがありました。
わざと退屈に
ワンカットが同じアングルで長い。独特なアングル。わざと退屈に作ってあるような気がした。それは悪い意味ではなく、主人公がゆっくりと自分の気持ちとかおるの気持ちを分かって行く様子を表しているのか。結局なんで死んだのかがはっきりしない。就職の疲れ?飛びたかった?結局絶望に追いつかれてしまったんだね。
身近な友人の自殺に理由と答えを求める姿にホロリときた。昔は自殺する...
身近な友人の自殺に理由と答えを求める姿にホロリときた。昔は自殺するのも理由があるんだろうと思ったりしたけど、年をとると残された方の身にもなってよ!死ぬ前に!と思いますな。
太賀くんのご飯食べる姿がかき込んでたべても上品だったw
『ウワアア!監督同い年いいい!』
だからでしょうか、もう、いちいち、いちいち思い出を引っ張りあげられる。この映画のひとつひとつの場面たちが、わたしの拙い人生の何某かをいちいち釣り上げる。そういう釣り針で溢れている。
たとえばこれは喪失の物語で、近い作風では橋口監督の「恋人たち」があるけれど、わたしにはまだ、妻と子供を亡くす痛みは、想像はできてもどこか夢物語でした。それよりもずっと、「親友の突然の死」のほうが、リアリティのある悲劇であり、その親友の昔の恋人のほうが、リアリティのある存在なのです。
親友との青春の日々は、わたしにもこれでもかと覚えがあり、たとえば朝方の駅前通りでのやりとりや、たとえばマグカップで飲む安酒の味は、手に届く範囲にあるのです。
そして、常に傍にある緩く柔らかな絶望の影。これは、不況ネイティヴや悟り世代と称される、独特の空気感なのかもしれません。
忘れようとしていたあの人のあの言葉とか、あの日の虚勢とか、あの朝の後悔とか、小さな嘘と大きな嘘とか、蓋をして奥にしまって埃をかぶっていたはずの思い出たち。そういう、実にパーソナルなものと、恐ろしいほどリンクしてしまいました。
引っ込み思案で感情を表に出すことが苦手な主人公・漣。対照的に、人当たりが良く甘い顔の美男でいつも輪の中心にいるような親友・薫。そんな彼の突然の自殺を受け入れるため、薫のルーツを探す旅に出る漣の物語。
冒頭、背中を丸め、就活用の安っぽい黒スーツとビニール傘で、決まり悪そうに微笑み手を振る薫の後ろ姿も、降りたシャッターの前で降り出した雨を避けタバコを吸う同級生たちも、そんな薫の後ろ姿を怖い顔で見送る元恋人・理沙子の眼差しも、点滅する歩行者用信号の嘘くさい青緑色も、雨に乱反射する赤いテールランプの行列も、それらを包み込む東京のどこかの街の喧騒も、まるでわたしの記憶そのもののように、見知ったものでした。
全編にわたり、わたしはこの物語をずっと前から知っていたような気分にさせられます。崖のあの彼女の涙の訳も、朝日の屋上での鼓舞するような言葉も、知っていたような気がするのです。
既視感とも少し違うこのノスタルジアは、他のどの監督の作品とも違うように思いました。一番近いのが、世代の近いバンドが紡ぐ詩の世界。
そういえば、中川監督は詩人なのでした。
今後、彼が紡ぐ世界はきっと、わたしたちの目線と近いところにいてくれるのではないかと期待しています。
ひとは、未来に希望がなければ生きられないと、強く感じました。でもそれは大それたものである必要はなくて、明日はあのドラマの日だ、とか、期間限定のアイスが今週末からだ、とか、来月には好きなバンドのライブがある、とか、来年には友達に子供が生まれる、とか、そんなもんでいい。そんなもんでいいから、そんなもんを目指して、絶望に追いつかれない速さで、走っていかなくちゃならないんだろうな。
静かに紡がれる物語。旅の果てに知った“生きること”。
【賛否両論チェック】
賛:死んだ友への旅を通して、少しずつ“生きること”への感じ方が変わっていく主人公の姿が印象的。過剰にならず、自然のままを切り取った演出も粋。
否:展開はかなり淡々としていて、退屈しそう。時間軸もやや分かりにくいか。
多くを語らず、演者さんの雰囲気と風景描写でお話が進んでいくのが、粋でステキです。“親友の死”から抜け出せずにいる主人公が、友の思い出の地への旅を通して、その死と向き合い、自分の生きる力へと変えていく様子が、淡々と描かれていきます。
ただ、悪く言ってしまうと「死んだ親友の故郷に行くだけの映画」で片づけられてしまいそうなのも、たまにきず。ストーリーそのものはかなり単調で、それでいてとても静かな演出なので、人によってはメチャメチャ眠くなってしまうかも知れません(笑)。
いずれにせよ、青年達の生き様を自然に切り取った作品ですので、気になった方は是非。
ここでの反応の鈍さが不思議なくらい、揺さぶられた映画だった。
※けっこうネタバレしてます。
TVドラマ『ゆとりですがなにか』の山岸(ここでは、漣)が主演、もう、それだけで観たいと思った。
その、惰性で生きてきたような漣が、親友の自殺の訳を探しに行く。
親友の初恋の相手に会った後、日本海を見つめながら、絶望に追いつかれそうになる漣。波立つ水面の下は、絶望の象徴のようだ。
そんな漣を見ながら、おい、しっかりしろよ!と怒鳴りたくなってくる。
そこから救われた漣は、泣きながらメシを食らう。メシの美味さをかみしめながら、生きてる実感に震えているのだ。
この場面を見ながら、こんないい役者なのかと泣けてきた。
そして、壁に掛けられた絵を見て何かに気づく。何に気づいたかの説明はない。
で、ここからは僕の想像になるが、おそらく、薫もこの絵を見たんだ!と直感したんじゃないだろうか。大阪行きが決まったあとに、漣たちに黙って初恋の彼女に会いに来て、同じこの宿に泊まったのだ。だから、屋上で朝日を浴びながら戯れていたのはこの絵を思い出していたからで、そのときにはすでに死を覚悟していたのかもしれない、と漣は気づいたのだろう。だから、送別会であれだけつれない態度をとったのだ。携帯をなくしても平気だったのだ。
ちなみに、ついでに余計なことを書く。旅館の娘のことだ。凧揚げの場面が不要だという意見をどこかで見たが、あれは「家業を手伝っている気遣いのできる女の子だからこその、さりげなく他人にみせる優しさ」だ。そして、自分の宿の客と知るや、案内し、「おじいちゃん!」と言う。
僕は、泣きメシを食ったシーンのあとに、この場面を思い出して、震えが走った。あ、この子、両親はいないのか?と。そして、何かの不幸で親を亡くしたからこそ、人の痛みを感じる優しさがあり、布団を敷いたあとのすれ違いざまに、漣に声をかけたのかと。そして、おじいちゃんに「あの人、大丈夫かな?」とそれとなく話し、だからおじいちゃんは、もしや?と思い、崖まで様子を見に行ったのだ。
そう思えば、泣きメシのシーンでのおじいちゃんのショットが深く胸に刺さってくる。身内を亡くす悲しさを知る人間だからこその静寂が。(あくまで想像ですが)
そしてこの絵に希望を見つけた漣は、生き方が前向きになった。
だから、仕事ぶりを先輩に認められようになる。
そして、たまたまハングライダーを見かけ、空を飛びたいと思う。高いところが苦手な漣の決意を感じるようだ。下(海)を見つめて絶望を探していたような漣が、空を目指し、希望を捕まえに行こうとする決意を。
つまり漣は、漣なりの走り方(生き方)を見つけて走り出したのだ。
走り出しさえすれば、絶望なんて忘れてしまうものだ。その変わりゆく心情に寄り添うような音楽が、また絶妙だった。
最後に漣は、希望の象徴のような朝日に向かって空を飛んだ。
それは、屋上での薫を思い出したかのようでもあるし、もしかしたら、薫のことを乗り越えたということなのかも知れない。
それはなにかわからないけれど、それはそれでいい。漣だって、薫の自殺の本当の理由はわからないんだし。誰だって、身の回りのことをすべて知っているわけではないんだし。それは一人一人が解釈すればいいこと。音楽を聴いてそれぞれが幸せや悲しみを感じるように。
ついでにまた想像を。
漣が大学を中退したのは、少なからず父親との確執に起因するだろう。それほど亀裂が入った二人なのに、生き方を見つけた漣は心変わりをして連絡をとった。その穏やかな声のトーンに泣けた。
公衆電話を使ったのは、海へ捨てた携帯を新調するのをやめたからだ。
死を意識して携帯が不要になった薫と、生き方を見つけて携帯に縛られることがなくなった漣との対比がいい。
苦悶する主人公にありがちな、わぁわぁガナることなどなく、内なる悩みと苦しみをじわじわとにじみ出すような演技は見事。
どこか、宮本輝の小説のような話だった。
いま、チラシに書かれた「tokyo sunrise」の文字を見つけた。まるで、都会に住む若者たちへのエールのようだ。
二日も経つのに僕は、まだこの映画の余韻に捕らわれている。
僕からは、主役二人と、監督にこそエールを。
絶望はいつでもすぐそこにある
親友が身を投じた崖に行き絶望するも宿に戻る。
その宿の調理場で暖かい料理を無言で提供され、食べる。
生きていることを実感するかのように書き込みながら涙を流す。
このシーンは涙が止まらなかった。
緊迫からの安堵感を描いたこのシーンは誰でも経験したことがきっとあるはず。
この作品は、中川龍太郎監督の体験に基づいた映画。
長くも印象に残るタイトル「走れ、絶望に追いつかれない速さで」は監督の親友が励ましてくれた時にくれた言葉だった。
この言葉を基に描いたものがこの映画。
監督が感じた虚無感と親友への愛がこの映画を通して感じた。
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