ニーゼと光のアトリエのレビュー・感想・評価
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ゴミ
「何がゴミなのか人間は決めつける」
「種はゴミなんかじゃない。植えるものだ」
精神病患者はゴミではないし、自然界にもゴミは存在しません。そもそもゴミという概念を作ったのは人間なんですよね。極論すると、人間を排除した先にあるのがユダヤ人強制収容所なのだと改めて思いだしました。
精神疾患の人は私達には見えない世界で生きている為、それが見えない人達には理解されないようです。ニーゼは医者でしたが、患者と一緒に見えない世界を理解し寄り添っていました。今後科学が進歩することによって精神に関わる沢山の事が解明されると、ニーゼのやった治療の科学的根拠が示される気がします。そしたら世の中少しは精神病に対する偏見がなくなるかもしれません。
彩
他人の起こした革命に乗っかり、束の間の春を謳歌しようとする民衆を描かれても満足出来ない。
彼等はジョーの部隊と同じく他者依存であり、自由も尊厳も得られはしない。
此処では無い何処かへ希望を求めて彷徨う00年代に対して、狂気の沙汰であると断ずるこの作品には、浮き足立った民衆へ痛烈なメッセージが込められている。
この物語は現在進行形
1944年、ブラジル・リオデジャネイロ。
公立の精神病院で働くことになったニーゼ(グロリア・ピレス)は、患者たちのひどい扱いを直ちにみることとなる。
院内のシンポジウムでは、ロボトミー手術や電気ショック療法の効果について披歴され、あまつさえショック療法にについては、医師たちの前でのデモンストレーションが行われていた。
そのような病院の方針に異を唱えたニーゼは、重きを置かれていなかった作業療法施設の責任者となる。
施設は荒廃していたが、ニーゼは、ユングの書をもとに、患者たちを観察することから始めることにする・・・
という実話を元にした映画で、その後、ニーゼが職場の看護師の助言を取り入れて、患者たちに絵や塑像をつくらせる取り組みをしていく、というハナシになる。
捻った要素など何もない実直な映画なのだが、はじめ、巻頭、病院を訪れるニーゼをロングで捉えるショットでちょっと戸惑いを覚えた。
灰色の壁の中の小さな鉄製の扉、それを叩くニーゼをカメラは捉えるのだが、なんだがフワフワしている。
手持ちカメラなのだ。
ありゃ、こんなオープニングのロングショットを手持ちカメラで写すのかしらん、と少々不安になった。
その後、その扉を開けて、中にはいるニーゼをフォローするので、手持ちカメラである理由はわかったのだが、以降もこの手持ちカメラの揺れが気になって仕方がなかった。
しかし、ニーゼが作業療法所の責任者になり、患者たちと接するようになってからは、この手持ちカメラの威力が発揮される。
自分たちの世界の閉じこもっている(というか認識できない)患者たちに対して、ときに寄り添い、ときに少し離れて、という距離感は、固定されたカメラでは伝えられなかったのだろう。
で、そんな手持ちカメラで描かれるその後である。
ニーゼは、自分たち(健常者)の価値観やルールに、患者たちを押し込めない。
彼らが「言葉で言い表せない」ことを伝えようとしていることに、心血を注ぐのである。
ここで、はたと気づく。
劇中のセリフにもあるのだけれど「ルールを守らないもののは、罰を与える」とある。
ルールというのは、ある種の共通認識(言語なりなんなりの)言語的(論理的)な秩序を保つためのものであって、ルール(言語的)の埒外にいるものにとっては、そもそもが理解できない。
理解できないからといって、理解している(と思っている)側に合わせなければいけない、というのは「あわせろ」と言っている側の「都合」にすぎない。
つまり、相手が非言語的な論理で行動していることを認めずに唾棄してしまうのは、あまりに奢っているといえないが。
非言語的な表現であっても、「感じている」ことは「同じ」土俵の上にないのかどうか、そこから考えなければいけない。
そんなことを、この実話に基づいた映画は巧みに語りかける。
そう。
非言語的な論理であっても、彼らは、だれもがと同じような感情を持っている。
瞠目すべきは、同じアトリエに集う巨漢女子に惚れた黒人男性が嫉妬に身をよじらせるシーン。
そう、同じ感情がある。
それを、離れたところから手持ちカメラで撮る。
ここには唸った。
その後、患者本位のニーゼと病院側との軋轢が描かれたりもするが、巻末に、年老いたニーゼや患者たちの実際の映像が映し出される。
遠い過去の話ではなく、この物語は現在進行形なのだったと強く思った次第である。
筆とアイスピック
治療とは名ばかりで、患者を隔離し、抑えつけ、モルモットの様に扱っていた時代に、自由にさせて心のままに絵を書かせ人として接した女医。
これはこれでありのままなのかも知れないが、ニーゼやクライアント達の背景のドラマをもう少しみせて欲しかった。
ニーゼ
素晴らしかった!鑑賞後質疑応答に監督が答えてくださり、ニーゼは94才で亡くなるまで仕事をして、後輩の医者や看護士がニーゼの教えのもと巣立っていったそうです。
映画のラストにご存命のニーゼが話されるのですが、品のいいとても素敵なおばあさまでした。
患者役の俳優の演技が素晴らしかったのと、ニーゼの患者に対する視線の優しさに感動しました。
グランプリ。主演女優賞おめでとうございます。
一般公開はいつ?どこで?するのでしょうか?
もしかして公開無しなんて事ないですよね。
知り合いの精神科医に話をしたら、是非観たいと言ってました。
TIFFGP
冒頭数分で、この映画における意志を見いだした。それは、音によるイマジネーションと映像によるリアリティーの追求というのも。
とかく、映像のリアルさというものは徹底していたように思う。最近ありがちな偶然性を求めたような手持ちカメラの多用というものではなく、あくまでも作者の意志をそこに込めようとしていたように思う。スクリーンの中に完璧に構築された世界、実話をもとにしているとはいえそこにあるのは虚構の世界、それをあくまでも自然な形で見ている者に伝えるがために、虚構を真のものに仕立て上げるために、とことん画面が揺れ続ける。ニーゼは実在した人物であり、嘘偽りない真の姿を伝えるという意志の強さが画面からにじみ出ていた。
ぶれる映像といいながらも、その一つ一つの映像というものは計算され尽くされたもののように思えた。どこに焦点を当てるのか、どのようにカメラを動かし、どのようにフレームインしてくるのか─すべて完全なる自然なのだ。矛盾した表現かもしれないが、まさに劇映画にしてドキュメンタリーのような印象を持つ。(つくられた完全なる自然─いわゆる明治神宮のようなものか…分かりづらいか。)
リアルに展開される映像でありながら、心を揺さぶられそうになる感動が所々で押し寄せる。それというのも音や音楽の効果が大いにあったように思う。今さら映画における音の効力などということは述べるものでもないけれども、効果的に活用しているものはそれほど多くないはず。そのうちの一つがこの映画だと思う。バッハで自然に涙があふれ出た。
兎に角、最初から最後まで、濃密であり、ニーゼというタイトルそのままに描かれた、グランプリ、最優秀女優賞にふさわしい作品だった。
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