奇蹟がくれた数式 : 映画評論・批評
2016年10月11日更新
2016年10月22日より角川シネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマほかにてロードショー
“数学の詩人”というちぐはぐな称号が、すとんと心に落ちてくる
数学と芸術。この両極端で対峙するジャンルが、実は根底部分で繫がっていることを教えてくれるのが、このトゥルーストーリー。ケンブリッジのトリニティ・カレッジで教鞭を執る数学者、G・H・ハーディと、当時、イギリスの植民地だったインドからケンブリッジにやって来る天才数学者、ラマヌジャンの攻防は、芸術的な閃きを数字で証明できるか否か? そこを深く深く探求していく。
例えば、2つの数でしか割りきれない素数は、2、3、7、11、13と続くわけだが、ラマヌジャンはこの不規則な素数の現れ方を弾き出す公式を、まるで神からの啓示のように閃いたと言い放つ。しかし、数学は数字で証明して初めて認知されるのだと言うハーディに対し、ラマヌジャンが提出した証明は間違いだらけ。なのに、彼の公式に当てはめると、ほぼ完璧に素数の個数が算出できた。つまり、数学に於いては、数字では証明できない正解もあり得るというわけで、これはむしろ、発想が優先される芸術的領域。いや逆に、優れた芸術の製作過程にも、もしかして、公式のようなものが存在するのかも知れない。そう考えると、多くの後輩たちがラマジャンに付けた“数学の詩人”というちぐはぐな称号が、すとんと心に落ちてくるのだ。
名門ケンブリッジの閉鎖性と、イギリス人のインド人に対する差別的目線、そして露骨な行為に打ちのめされそうになりながらも、故郷から最愛の妻を呼び寄せることを唯一の心の拠り所に、命がけで堪えるラマヌジャンは、数学の神秘ばかりか、ハーディの人生観をも変える重要な存在になって行く。数学を数字的証明の結果だと固く信じ、生涯家庭は持たず、無神論者を自認するハーディが、ラマヌジャンとの出会いを通して、円やかで寛容な人間へと徐々に変化を遂げていくプロセスにこそ、映画のテーマが凝縮されている。
人生は一般論や常識ではなく、認め難い相手を受け容れ、尊重し、そこから新たな自分を発見していく旅。学者然として表情も少ないハーディが、やがて、少し戸惑いながら自身の心の変化に気づいていく様子を、ジェレミー・アイアンズがいつも通りに、抑制の利いた端正な演技で体現している。「運命の逆転」(90)でのオスカー受賞から四半世紀が過ぎても尚、演技者としての技術は勿論、薄くて渋い風貌をキープし続けているアイアンズこそが、奇蹟的に劣化を免れた神からの啓示ではないかと思うくらいに。
(清藤秀人)