「もうひとつの『太陽がいっぱい』」キャロル 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
もうひとつの『太陽がいっぱい』
観始め、何だか画面のピントがボケてるというか滲んでるなあと。昔のフィルムが劣化した感じともちょっと似ている。自分の疲れ目のせいなのか、座った席のせいで歪んで見えるのか。ただでさえ滲んでいるのにガラス越しのシーンも多く、霞がかっている。
だが、ラストシーンでは、キャロルの表情をクリアに映し出す。
この世界では、あなたしか見えないと言わんばかりに。
あなたさえ受け入れてくれればそれで良いと言わんばかりに。
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原作パトリシア・ハイスミス。
このうえもなく意地悪で孤独な小説ばかり書いてきた。
(『キャロル』は、ハイスミスにしては珍しくシンプルなハッピーエンドだ。)
「あなたが受け入れてくれればそれでいい」
それなのに、拒絶される人の話を多く書いてきた。
例えばハイスミスの代表作『太陽がいっぱい』は、中流階級の若者が、上流階級の同性に強い憧れを抱くが、結局は拒絶されてしまうという話だった。
『キャロル』と『太陽がいっぱい』は、片やハッピーエンド、片や拒絶の、対称的な作品だったのではないか。
実は『太陽がいっぱい』グリーンリーフと『キャロル』は、同じ人物をモデルにしている。
作家デビューする前のハイスミスはイタリアを旅行中、上流階級の女性Kathryn Cohenと関係を持つが、帰国後捨てられてしまう。
その失意の中で、現実に反抗するように書き綴ったのが本作『キャロル』であり、その女性と旅したイタリアを舞台に後年書かれたのが『太陽がいっぱい』だった。
片やロマンス、片や殺人と逃亡のピカレスク、そして男女の違いはあるが、この二作は表裏一体であり、ネガとポジである。
どちらも
「あなたが受け入れてくれればそれでいい」
という、ただそれだけの愛の物語だったのかもしれない。
意地悪、人間嫌い、掟破りのミステリと評されるハイスミスの根底には、どうしようもなく共鳴を求める一人の人間がいたのかもしれない。
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ただの愛の物語を、トッド・ヘインズ&エド・ラックマンは非常に上質に仕上げたと思う。
最初に書いた画面の滲みも、後で調べたらフィルムがスーパー16のせいだった。なるほどブローアップか。霞みがかったようなもどかしさも、ラストの感情も、ラックマンの巧みな技にかきおこされたものだったのか。まんまとその策にハマってしまい悔しい気もしたが、その他、ラブストーリーを支える技の数々に唸った。
男女の違いはあれ、幾度となく繰り返されてきた愛の物語。
「結局は配役を変えて何度も繰り返される」ものであり「古典」だと、ハイスミスは言った。そして
「古典とは時代を超越した、人間の業を描くもの」とも。
この映画は、原作発表から半世紀以上たって作られた。見事、時代を超越した新しき古典であることをトッド・ヘインズは証明したのではないか。
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追記1:
恋人二人の関係は、テレーズが手袋を送る事で動きだし、テレーズがラスト走ることで決定づけられる。決断しているのは、じつはテレーズの方だ。最初は、自分が何者なのか何を引き起こすのか判っていないが、ラストは判った上での決断だった。その変化を、テレーズ役のルーニー・マーラは非常に繊細に演じていたと思う。
キャロル役のケイト・ブランシェットは、取り繕った表情の裏に、若いテレーズに年の離れた自分が受け入れてもらえるのか、そんな怯えと惑いが見え隠れし、そこが上手いなあと思った。
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追記2:
脚本が、個人的には素晴らしいと思った。もっと背景を説明した方が、より楽に共感を得られたかもしれないが、あくまでもシンプルに絵的に見せる構成も良かった。枝葉を落として幹を残すような、そんな構成だったようにも思う。
原作はハッピーエンドだが、それでも意地悪なハイスミスらしい毒がそこかしこに散りばめられていた。
対して映画はまろやかだ。
そのまろやかさ、静謐さは、ハイスミスの遺作『スモールgの夜』(テレーズと似た人物が出てくる。この小説もまた『キャロル』の相似形である)と通づるところがあるなあと思った。
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追記3:
キャロルのモデルは、上記のKathryn他、幾人かいる。若き日のハイスミスがデパートで働いていた際に接客した女性。彼女とはそれきり会う事はなかったらしいが、その出来事を元に本作のアウトラインを思いついたという。なんという妄想力。この妄想にKathrynとの交情が絡み合い、『キャロル』に結実したのであろう。(妄想の女王ハイスミスにモデルがどうの言うのも野暮だけども。ほんとにいろいろ長々書いてすみませんでした。)