「過去の自分と若き自分からの解放」アクトレス 女たちの舞台 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
過去の自分と若き自分からの解放
原題の「Clouds of Sils Maria」(シリス・マリアの雲)は作中に登場する劇中劇のタイトル「マローヤのヘビ」と重なっている。同様に、映画本編と劇中劇とが重なり合って物語は進む。
劇中劇「マローヤのヘビ」は若い女シグリッドが年上の女ヘレナを翻弄し自殺に追い込む話だという。かつて女優マリアはシグリッドを演じ、成功のキャリアを手に入れた実績がある。そのリメイクを上演するに際し、今度はヘレナを演じてほしいと言われることから物語は動き出す。
一方の本編でも、若い女と年上の女が登場する。ジュリエット・ビノシュ演じる女優マリアとクリステン・スチュワート演じる若きアシスタント。アシスタントのヴァレンティンは片時もマリアの元を離れず、彼女の仕事も私生活もサポートしている。2人の関係は女優とアシスタントというよりも、まるで親友同士のような親密さを感じさせる。親子ほど年の離れた女同士とは思えない対等な立場でものを言い合い、信頼関係があるのがよく分かる。後にセリフで出てくる「シグリッドとヘレナはある種、同一人物だ」という文句はそのまま、マリアとヴァレンティンのことかもしれないと思う。
マリアの前に立ちはだかるのは20年という月日と、若さへの羨望、そして時間との対峙だ。20年前に演じたシグリッドに固執し、そこから得たもの失ったもの流れ去った時間というものに囚われ、マリアは思うように演技ができない。その様子を、舞台の「本読み」を通じて描いていくのが、この映画の特徴的な部分だ。
映画の中で、ヘレナのセリフをマリアが吐き、ヘレナとマリアが徐々に一体化するのは理解できる。一方、シグリッドのセリフを吐くのがアシスタントのヴァレンティンであるところがユニークだ。ヴァレンティンとシグリッドとを重ねながら、マリアと向き合わせる。実際に舞台に立つ新人女優ではないところがミソ。常に行動を共にするアシスタントだからこそ、直面させられる過去と現実とが如実に浮き彫りになる。これはうまいやり方だった。
マリアとヴァレンティンが、舞台のセリフを発し合うだけのシーンも少なくない。しかしそのセリフの端々に、マリアが浮かんだりヘレナが強く出たり、ヴァレンティンがシグリッドとしてマリアを脅かしたり・・・という2人の女優だけで4人分のパワーバランスを魅せる。これは演じる女優2人の力量に見ごたえを感じる。
本読みとマローヤのヘビを見に行く旅を通じて、マリアは過去と若さと時の流れとを受け入れ、手放し、達観するまでの心の旅をする。
しかし、そんな長い旅も無意味なほど簡単なきっかけでマリアは腹を括る。エンディングで、クロエ・グレース・モレッツ演じる新人女優から平手打ちのような言葉をかけられるのだ。そしてビノシュが見せる、目が覚めたような揺るぎない決断の目が印象的だった。
正直なところ、抽象的な暗喩表現が多くて読み解きが難しい。またモレッツを通じて描くハリウッド業界を揶揄するエピソードは、映画のタッチを崩すだけで余分な贅肉だったように思う。