ルック・オブ・サイレンスのレビュー・感想・評価
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日本のレッド・パージは1950年前後から始まっている。
日本のレッド・パージは1950年前後から始まっている。
二十歳の我が亡父は、その真っ只中で、狡猾に生きてきたようだ。しかし、仲間の何人かは職場を去っている。亡父は言っていた。『イデオロギーを持っている奴なんかいなかった』と。
どう言う事か?親父は続けた。『ゴリゴリの軍国教育を受けた奴らが、共産主義なんか分かるわけ無いだろ!』って。僕はある意味納得できた。
『で、どうしたの?』と聞くと『生き残った奴らは、踏み絵を踏んだんだよ』と答えた。
それが日本のレッド・パージの実態。親父は生き残り、2014年に地獄へ落ちた。
『知らなかった』は無いと思う。インドネシアの1965年の出来事は日本人の僕だって知っている。
カボチャ王国でも、台湾でも、韓国済州島でも、そう言った出来事は起こっている。独裁国家や共産主義国家でなくとも起こっている。
この映画に登場する全ての出演者がコミュニストではない。勿論、僕もコミュニストではない。
そう考えると、人類社会に於いて、現在まで真のコミュニストは現れた事があるのだろうか?
僕がコミュニストになれない最大の理由は、簡単な言葉で置き換えれば、へそ曲がりだからだ。そして、美辞麗句で言いかためようと、人間は欲望で生きていて、自分が一番可愛い。
そんな生物がコミュニストになれる訳が無い。
この映画は、小津安二郎監督の手法をつかって、カットを多用して話を紡ぐ事をしている。果たして、こう言ったドキュメンタリーに合うのかと思う部分もあったが、フェイクな映像と証明できないので、共感できる範疇の映画として置きたい。
だが、この映画は商業主義に於いて制作された映画である事も忘れてはならない。無料では見る事は出来ない。
命をかけてインタビューした空虚な目をした主人公👁️
ルックオブサイレンス
1965年🇮🇩インドネシア
インドネシア政府は軍に政権を奪われた。
わずか一年ね100万人以上の共産主義の人が亡くなった。
そして現代、今でも軍の関係者だった人は英雄として普通に生活している。
兄を殺された弟が、当時地域の殺害していた責任者などにインタビューをしていく。
反省どころか、見返りすら求めてくる殺人者達。
この大量虐殺の真実を本人の口から聞くとんでもドキュメンタリー⁉️
❇️私がこの時代に生まれていたら、間違えなく、仕事を全うしていたはず‼️
◉68D点。
★彡恐怖政治❗️やらなきゃやられる❗️
反省したら心が壊れてしまう為に、自分のした事を肯定せざるを得ない。
🟢感想。
1️⃣自分の与えられた役割を遂行しただけ。
★彡誰が悪いとか無いと思いました。
強いて言うなら、戦争が悪かと。
2️⃣自慢げに人殺しを話す民間人。その後、兄があんたらに殺されたと迫る‼️🔪
★彡命をかけたドキュメンタリーでした。
3️⃣兄を惨殺された弟の目が忘れられない。
★彡死んだ魚の目くらい無で感情ゼロ状態でした。👁️
人は動物です
それがどんなに当たり前で、恐ろしい事か。考えても想像出来ません。
現実ほど恐ろしいものはありません。
あなたは人を殺せますか、自分のほっぺたをつねってみてください、自分の手の甲をつねってみてください強くつねると痛いですか?もう一度聞きます、あなたはこの皮膚の痛みを知ってもなお、人を殺せますか
人生に一度は見るべきドキュメンタリー
アクトオブキリングと一緒に観てほしい映画です。見るのが辛い映画ですが、平和慣れしている私たちに「戦争とは」「虐殺とは」を実感として与えてくれるドキュメンタリーになっています。
為政者側(虐殺をした側)の老人たちのほとんどが、過去を忘れた方が良いと言います。そして過去を掘り返せば、再び虐殺が起こると脅してくる人までいます。
しかしそれは全くの逆で平和な未来を作る方法は、過去の歴史から学び間違った行為を正していくことしかないと思っています。
映像の中の村では、(本当かどうかは分かりませんが)過去の虐殺を子ども達は知りませんでした。そして虐殺側の人々の中で虐殺はいけない事だったと口にする人は、1人もいませんでした。
映像内のインドネシアの村は50年前の出来事から現代まで当時の権力構造が残ったままです。過去に蓋をして後世に何も伝えなければ、今後50年の間に同じような虐殺が起こってもおかしくないと思います。そんな未来にならないためにも過去を見つめる勇気を持つ人が1人でも増える事を望みます。
気持ち悪い
気持ち悪いけど、生きていく上で見ておいて良かった映画だと思う。
この映画は「アクト・オブ・キリング」という映画の姉妹映画として撮られたもの。前作は虐殺者に主眼を置かれていたが、今回は被害者であるアディが主人公となって、加害者側の人たちにコンタクトをとっていく。
正直見ていて気が滅入った。
人間の殺し方、ひいては兄の殺し方を教えられるアディ、
加害者側は「話を聞きたくない」「どうして蒸し返す、争いを繰り返したいのか、忘れるべきだ」「もう許してあげて、こちらを家族と思ってちょうだい」とぬけぬけと抜かす、
こんな非道が社会的に罰されることなく肯定されている現実、
教育も虐殺者は英雄だと歪んだ形で子ども達に伝えられている、
そもそも加害者は当時の奪略や政権の影響によって現在裕福に暮らしていて、被害者は住処を追われ貧しく暮らしている、被害を訴えることもタブー視される現状、全てがダメージを与えてくる。
監督の話から、本来なら本作こそが恐らく最初に世に出されるものだったのだろう。
自分の行為を正しいと思えば人はいくらでも酷い事ができるのだなと痛感する。どれもこれも吐き気がする。
昔は共産主義者をどう殺したかという本すら出版された。当時中華店に女性の首を投げ入れると店主が叫んだと笑って話す老人。よく正気を保っていられると思う。
虐殺者の一人が、正気を保つために殺した人間の血を飲んだ、だから俺は今でも正気だ、と話すシーンがある。この人も社会も狂っているとしか言いようがない。
アディは町の権力者にも会いに行く。「僕はあなたの指示であなたの部下が殺した人間の弟です」といえばアディが何処に住む誰なのかを訊いてくる。アディの活動を聞いたアディの母は殺されるかもしれない、棒を持て、警戒しろとアディに警告する。
それだけ町は危険で溢れていて被害者が声を上げられる状況ではない。
遺族と知った途端、態度が急変する人々がとても印象的だった。
でも、自分や、ましてや自分の身内がやった行為に向き合うと人は生きていけないとよく分かった。目の前にいる人物が被害者だと分かると、みんな目をそらす。加害者は自分がどれだけ異常なことをやったのか分かっている。そして恐らく周囲の人間からは人殺しとして恐れられている。
誰も何も言わないけど、被害者が実際に会いに来たことは加害者にとっては怖かったろうな。殺された方はもっと怖かっただろうけど。
ルック・オブ・サイレンスというけれど、アディの母親の話す「加害者、加害者の家族、子どもが不幸であることを望む」というのが、被害者の本音であると思う。
アディはただ静かに見つめていたけれど。
こんな映画を見て、人を恨んじゃいけないなんてとても言えない。
虐殺は、この人たちに大きな傷と断絶を産んだ。これからこんな歴史を持ったこの国の子孫達はどうなるんだろう。どうやって向き合っていくのが正解なんだろう。
これからもこのドキュメンタリーの出来事がこの国ではずっと続いていくと思うと苦しい。
真っ直ぐな眼で
1960年代のインドネシアで起きた軍事政権による大虐殺を、加害者の視点から描いた衝撃のドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』。
本作はその姉妹編で、今回は被害者の視点から描く。
あちらは斬新だったが、こちらは真の描き方。
監督と共に同行するのは、眼鏡技師のアディ。彼の兄が殺された。
彼の両親の暮らしも貧しく、恐怖政権の成れの果て。
アディは無料の眼の検査の名目で(タイトルの由来)、今もノウノウとのさばる当事者に近付き、話を聞く。核心に迫っていく。
アディは彼らを断罪せず、赦すとさえ言うが…、
『アクト・オブ・キリング』を鑑賞し、当事者たちの話に耳を傾ける、その真っ直ぐな眼(まなこ)。
それが、彼の応え。
忘れ難い。
目が悪いならこの眼鏡をかけて見てください
「赤狩り」という宗教。
人間を殺すのはしんどい。
たとえどんな上からの命令であってもしんどい。
ましてや同じ村の顔見知りが、命乞いをし、泣き叫ぶ
その場面では。
だから
必ず戦争には【宗教】が後ろ楯として伴うのだ。
道徳や人情や恐怖に打ち克つにはどうしてもそれを超える【宗教】が必須なのだ。
だから為政者は必ず兵士たちのために、どの時代にも例外なくそれを用意する
・モハメッドも敵を殺すことは禁じていない
・共産主義者は神を拝さぬ“悪魔”なのだから征伐しなければならない
・当方は聖なる神国であり敵方“鬼畜”は殺すべし
・そこにいるのは神国に反逆する“ちゃんころ”であり、“丸太”である。人間ではない
・散華した神軍は英霊として祖国の“神”となる
・殺した人間の血を飲めば狂わずに済むのだという民間信仰
こうして
人間を殺す行為のしんどさは、為政者によって政治的に計算されて与えられた【宗教と信仰】に補償されて、民草に許され正当化され、免罪されてゆく。
【宗教】によって
流血の穢れは祓われ、水ですすがれ、清められるのだ。
日本は、75年前に海の向こうにそれ=宗教行為の残骸=を置いてきたけれど、アディは同じ村に暮らす顔見知りの家を一件一件訪ねる。
眼鏡技師のアディは村を巡る。「はっきり見えますか?」「このレンズでどうですか?」と。
戦後もユダヤ人と同居し続けるドイツ国のヴァイツゼッカー大統領の、あの演説を思い出す。
「あなたははっきりと見ているか?」
と私たちも問われている。
壮絶だ。
虐殺隊長の娘と老妻だけが「許して」と言う。しかしアディの表情は変わらない。
責任なき悪のメカニズム
兄を殺された眼鏡技師のアディが監督と共に加害者のもとへインタビューを敢行する。乳房やぺニスを切り落として殺すなどとにかく殺し方のエグさが酷い。加害者の子供が話の概要を初めて知って顔色が変わっていくのがリアル、それは自責の念だったり逆ギレみたくなったり反応がいろいろ。「過去は過去、俺は知らなかった、俺は悪くない、今さらそんな事言い出して何になる。」アクトオブキリングと対になる。
観なければいけない映画。楽しくはない
興味ない•2•••好き/並•••4•すごい
無••••5社会派/大衆••••5カルト
損はしてない/紹介する
俺の満足度 50点
作品賞ノミネート可能性 80%
再びイメージフォーラム。再びインドネシア1965年の闇。アウトオブキリングの方が、飽きなかった。被害者視点のやるせなさに耐え切れなかったのかも。真実の衝撃なので、どっちを先に観たかだけの差かもしれない。
いずれにしろ、観なければいけない映画。楽しくはない。
よく頑張った、俺。おかげで、同じような状況で少しは違うことができるかもしれない。同じような状況になりたくないが。--支配層が悪とした者を市民が殺しても、必要悪と黙認されたり、それどころか讃えられたりする世界。
●インドネシアの闇。
「アクト・オブ・キリング」続編。1960年代にインドネシアで起きた100万人ともいわれる共産主義者の大虐殺。今回は、被害者の弟が加害者たちにインタビューする。決死のインタビューを見て思い出した。「ゆきゆきて神軍」を。
この国の闇は、巧妙に仕組まれていた。軍は手を下さず、あくまで民間人が共産主義者狩りを行なった。世界はそれを黙認した。今でもインドネシアでは、共産主義者の子孫は公職につけないという。
そして、僕らもこの歴史をあまり知らない。加害者の民間人たちは、いまでも街の英雄だ。そのすぐそばで、被害者の家族たちは暮らしている。
歴史は勝者によって作られる。被害者の心情はおかまいなしに。
想像力の欠如。軍の徹底したプロパガンダ。
被害者の母親は、加害者の不幸をいまも願う。父親は、苦しみから逃れるようにボケてしまったのか。闇はすぐそこにある。
エンドロールには「ANONYMOUS=(匿名)』の文字が並ぶ。インドネシアで本作公開後、アディ氏は移住したとか。
凄まじいドキュメンタリー
エンドロールのスタッフクレジットが
ほぼ全て、
Anonymous
と表記!
皆 命狙われるリスク、
監督も同様に。
というように、
撮影時は、
あなたの武勇伝を語って!の体で臨み、
上映では、殺戮実態を。
心底楽しそうに
殺害を回想して再現説明してる様は
とにかく異様
全肯定している
けれども
目前の人物が遺族でると分かった直後の
リアクション!!
凄い映画
背負いきれない罪と怒り
罪を犯した者の深層心理を描いた前作に対して今作はその罪を置き去りにされた者を描く。加害者の家族は、その罪を背負いきれない。又、本当に背負うべきものではないのかもしれない。被害者の側はやるせない。しかし、彼も被害者そのものではない。使命感も感情を高めることもできるかもしれない。しかし、罪は大きすぎて、それを処せる術もなく、ぽっかり空いた空白感が漂う。
繰り返される「過去は過去だ」。
繰り返される「過去は過去だ」を、諦めで眺めるしかなかった一本。
無駄な飾りが一切なく、その分日々の暮らしに迫る演出は「アクトオブキリング」以上だが。
ただ、その分絶望感も半端では無かった。
スケール、事件の深刻さは違えども。
日常にも置き換えることが出来る事柄に働く、嫌というほど目にする「自分は悪くない」という心理。
私は大嫌いなこの言葉、あなたは口にしてないか?
ただ、過去の事実の認識を確認したいだけの主人公と(そして監督と)。
心理的防御もあろうが「過去は過去だろ!俺は知らなかったんだ。うるさい。」と煙に巻き、または考える事すら拒絶する加害者やその家族。
挙句に身内や生存者まで、その魔法の言葉を放ち…
忘れないのは主人公の、憎しみを忘れない母親だけ。
父ちゃんは恍惚の人って。
監督の意図は別として。
コレ今の日本、そして世界でも未だ当たり前に大手を振るってる状況だよ。
臭い物には蓋、長い物には巻かれろ。
個人的には大嫌いな言葉だけれども。
結局、それで流さないと人生荊の道しかないのか、と改めて絶望した。
絶望を目の前にした主人公の顔と、自分の顔がダブって仕方が無かった作品。
命を絶たなくても。
悪意が無くとも。
「人は殺せる」んだよ、実際…
「自分が大好き」な動物がこの世には溢れているのだから。
納得がいかない。ゆるせない。
何故、人を殺して平気なのか。
まして、それを悪びれす自慢げに語る。
単純におかしい。頭が悪すぎる。
この映画を見たインドネシアの国民は、己れの国に起きた事に平気でいられるのか。自分の国で実際あったのだ。
過去に有った悲惨な事実にきちんと向き合うべきだ。
そうでないと、インドネシアそのものがアホな国と思われるだろう。
聞くに耐えない、見るに耐えない画像を静かに見つめるアデイの目が私の脳裏から離れない。
乗り越えられない悲しい歴史の重み。難しさ。
「アクト・オブ・キリング」の続編というより、"対"ではないかと思います。というのは、前作が"加害者目線"なら、本作は"被害者目線"だからです。
現在この被害者家族は、行き場のない悲しみや怒りを抱え、加害者達に囲まれて"沈黙"して生活をしています。原題は(監督曰く)この"被害者側の沈黙"部分に迫るといった意味とのこと。
被害者側の視点を担うのは、犠牲になった兄を持つアディ・ルクンさん。
ルクンさんはメガネ屋さんのようで、「検眼しましょう」と言って、加害者宅を回るんです。そして急に「私の兄ラムリを知りませんか?」と切り出します。
被害者と加害者との対峙です。
加害者の殆どは、共産主義者を殺したことを正しいことだと思い込んでいます。なのでまるで武勇伝を語るように、殺人を自慢げに語ります。
特にオッペンハイマー監督はアメリカ人です。
当時は、インドネシアが共産主義者を排除することを、アメリカは好ましいことと思っていました。
当然、加害者はノリノリで、ルクンさんの兄をどうやって殺したか、オッペンハイマー監督に向かって笑いながら説明します。
ルクンさんがその映像を、瞬きもせず見つめているシーンが印象的でした。
ルクンさんは、加害者に復讐したいわけでも、謝罪を聞きたいわけでもないと言います。
ただ「後悔している」の言葉が聞ければ、許せるかもしれないと。
嬉々として殺人を語る加害者達ですが、流石に殺した弟が尋ねて来ると顔色を変えます。ルクンさんは、表情一つ変えずに冷静に聞くんです。
「私の兄は貴方に殺されたんです」
「殺された」という言葉で、メガネ屋と客の関係が、がらっと加害者と被害者に変わります。一瞬にして、緊迫した空気に変わる。
「上から言われてやったんだ。自分には責任がない。やらなければ、自分が殺される。しょうがなかった」
などなどと、責任をどこかに投げやってしまう。埋まらない。加害者と被害者の溝。
加害者達の子供は、「私は小さかったので何も知らない」と言う。
父親が殺人の方法をにっこにこで話している映像や、描いた本の挿絵などを見せられると、「今まで仲良くやっていたのに、何故蒸し返すんだ。忘れて仲良くやろう」と声を荒げたり、逆に「私の父を許して。これからは家族ぐるみの付き合いをしましょう」と優しく猫なで声で提案します。
実はルクンさん自身も、9・30事件後に生まれたのでお兄さんを知りません。
私は加害者と被害者が対峙する部分より、この子供達や事件後に生まれた世代の立ち居地に考えさせられました。インドネシアだけではなく、悲しい歴史を持つ国は日本や他にもあります。
当事者が亡くなった後、その子孫が歴史とどう向き合うか。インドネシアの被害者と加害者の図式だけではなく、民族間、宗教観、国と国の関係の中で、乗り越えていかなくてはいけない悲しい歴史の重み、またその難しさを感じる作品でした。
被害者からみた悪と加害者からみた悪
歴史上の真実を暴くドキュメンタリーでありながら、カメラワークや色彩表現など芸術性も備えた稀有な映画だった。
この作品を観て、「常識とは何か?」という問いが私の心に痼りのように残された。
殺人が時代の常識なら、私たちも躊躇なく加害者になりうるという危うさが描かれていた。
そして、倫理上は等価値であるはずの一つの命の重みが、ひとたび論理が異なるとで、ここまで軽く扱われてしまうのだとういう事実に衝撃を受け、そして憤りを覚えた。
死から距離をおいた生活を送っている私にとって、この作品に描かれている命の軽さには、只々圧倒されるばかりだった。
また、被害者と加害者の罪の意識の決定的な違いについても再認識させられた。
(加害者側の「罪の正当化」とは、人が生まれ持つ自己防衛本能の一つとして精神安定剤の役割を果たしているのではと感じた。この回路がショートしてしまうと(特に正義感の強い人などは)精神的に破綻してしまうのではないだろうか。)
皆そうなりかねない
インタビューを受けた加害者全員が自分の過去を肯定している。誰一人として謝らない、罪悪感を感じさせない淡々とした話し方。
彼らは根っからの悪なのか?違うだろう。アメリカや軍からの圧力を受け、自分自信を守るために従うことしかできなかったかもしれない。
手をかけた者の血を飲んで、あえて狂った。"正気"でいるために。
年を取ると皆同じだ。鬼と呼ばれた人間もいつかは目は悪くなり、体も弱ってよぼよぼになる。情けなくなるほどに。
人を殺してはいけないイスラムの教えも、敵に対しては殺していいというのだから厳しい。敵だから殺しても許された。
罪悪感の肯定。そうでもしなきゃきっと自分が保てなかったのだろう。
何十年もそう生きてきて、今さら変わるわけがない。人間という生き物をまた少し分かれた気がした。
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