母と暮せばのレビュー・感想・評価
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何歳の想定なのかしら
ニノが登場時学生なのはそんなに違和感無いけれど、半生を演じるのでなければ、もっと若い人を器用すれば良かったのでは無いの?
そのお母さん役と恋人役も合ってるの?実年齢と役の設定?
皆さん素晴らしい役者さんですが、配役が上手く無く感じる。
といっても、もう9年前の映画になるのか。
他の人が書いていたけれど、ニノの話し方が舞台みたい。
ファンタジーとカテゴリーされていたので見たのだけれど
意外と本当にあるかもしれない話。転生ものとかのレベルのファンタジーではない。
これは…
面白くない…
なんだこれ…
途中で観るのやめました。
なぜ幽霊なのか分からないけど、なんの違和感もなく現状を受け入れてる母と息子。
戦後間もない、まだまだ戦争が身近な時代に、あんなとぼけた親子がいるのかと…
原爆で亡くなった息子の幽霊ですが、根本的な事で申し訳ないけど、いやもうこんなストーリーを映画にする必要性感じないのですか…
チラホラ演出されてる反戦的なセリフも、別に幽霊のファンタジー映画にしなくても良かった気がします。
原爆にいたっては、反戦というより反米のがこの頃の長崎県民感情では強かったのでは?
原爆被害者の幽霊を、何のメッセージ性もなく2時間も観せられるのはさすがに苦痛だったので、1時間観たところでやめました。
二宮くんの演技も、ちょっと大根っぽいのと、やたらセリフが長いのが説明じみてて拒否感を覚えました。
吉永さんも黒木さんもとにかくセリフが長い。
脚本どーなってんのよ…
なんで気持ちも全て喋っちゃうのよ…
素敵なキャストなのに、脚本で台無し。
…というか、こんな反戦映画いやだ…。
さりげなさがいい二宮和也
吉永小百合扮する長崎に住む助産婦福原伸子は二宮和也扮する医師になるべく長崎医科大学で勉強中の息子の浩二を送り出したところ原爆が落とされた。黒木華扮する浩二の恋人佐多町子が後に残された。
3年後、亡霊として浩二は伸子の前に現れたのだが、とたんに泣けてきたな。二宮和也のさりげなさがいいね。亡くなってもこうして明るく話せればいいさ。でもまあ亡くなった人の彼女はどうすべきなのかな。僕は死んどらんなんて言われても辛いね。
受け入れて、泣くしかない
この作品で描かれる「母」とはいったい何だろう?
300万人もの人々が亡くなった太平洋戦争
特に原爆によって亡くなった人は、自分の死さえもわからなかったのではないだろうかと言われている。
戦争という悲劇
それは戦時中だけにあるものではなく、おそらく今でも、当時遺族となり未だ生き続けている人にとっては、戦争の傷痕は未だ消えないままなのかもしれない。
「母」とは生き残ってしまった人々の象徴的存在だろう。
生き残ったという幸運とは、心の傷を抱えながら生きねばならぬ苦しみと同じことではないのか?
着るものや住む場所があっても、今日食べることができるかどうかわからない。
夫が結核で死に、長男がビルマで戦死し、医者を目指して勉強中だった次男が原爆で跡形もなくなってしまった。
死体があれば死を感じることができる。
戦死報告と遺品が届けられることで、その死を認めざるを得ない。
しかし、たとえ7400人が原爆で死んでも、その痕跡すらないのであれば、3年たってもなおその死を信じることはできない。
この、「最初の死」を受け入れなければならない苦しみがある。
コウジの婚約者マチ子の存在
彼女は気遣いと義務感もあるのだろうか、一人で暮らすコウジの母を度々訪ねる。
彼女の存在は「母」の生きる力になる。
同時に、いつまでもコウジを思い出させる。
何が良くて、何がダメなのかという思想は、当時は厳格に決められていた。
人々は「泣いたらダメ」とか、「そう思ってはいけない」という風習の中で自分自身の気持ちを抑え込んできた。
「母」もまた同じように習い、自分の本心と風習との狭間の中で自分自身を演じて生きていたのだろう。
マチ子の将来を考えれば、結婚して家庭を築く方がいいと言いながら、それが現実となり、二人が訪問してコウジの仏壇の写真に報告しようとしても、涙があふれ言葉が出てこない。
最後にはマチ子の幸せを見て、「コウジと変わればいい」と本心を漏らしてしまう。
「母」の苦しみと悲しみは、当時生き残った人々の苦しみと悲しみの「本心」を表現している。
さて、
霊となって表れたコウジの目的は何だったのだろう?
一般的に霊となればすべての物事が見通せるというような概念を、多くの日本人は持っている。
しかし、この作品に登場するコウジは当時のコウジのままで、特別な情報は何も持っていない。
ただ、自分は死んだと認識していることと、悲しみに覆われたとき消えてしまう設定がある。
霊にとって悲しみという周波数に陥れば、この世界に出現できないようだ。
コウジとは、生き残ってしまった人々に対する慰めの象徴だろう。
コウジが初めて母の前に現れたとき、その条件が死を受け入れることだった。
「あきらめてくれたから出てこられた」
執着しないこと
執着すれば、霊と波長が合わなくなるのかもしれない。
執着のない純粋な子供には霊が見えるが、大人には見えない。
逆に、コウジがマチ子に執着している。
これが彼がマチ子の前に現れるのをできなくさせているようだ。
コウジはマチ子が他の誰かと結婚することを拒んだ。
しかし考えた末にそれを認めた。
ところが認めたのは言葉だけで、実際には気持ちを押し殺したというのが正解だろう。
母でさえも押し殺していたのだから、コウジが聞き分けよくしただけだったことが伺える。
霊となったコウジでさえも、気持ちを押し殺す方がいいと判断した。
それが理由で、彼はマチ子の前には現れることをしないままだったのだろう。
しかしマチ子は、コウジも彼の母も「自分の結婚」を許してくれたと考えた。
それは、
決して間違いではなく、この世にある人々のあるべき姿だった、だけなのだろう。
コウジは、霊となって母の前に現れ、ひとりぼっちにしてしまった母の話し相手になるが、その内容は過去の想い出ばかりで、決して今後のことは出てこない。
もしかしたら母は、「あきらめた」ことで生きていくこともあきらめたのかもしれない。
物語の中では助産婦をして人の生に関わっていながらも、本心では「あきらめた」時に生きる希望も半分失ったのかもしれない。
最後のつっかえ棒だったマチ子が婚約したことで、本来であればコウジと結ばれ娘となるはずだった彼女を他人に渡してしまったことで、母としての役割を全うできなかった事実を受け入れるしかないことを悟ったのだ。
もう、この世でやるべきことはない。
これが「母」の本心だったのかもしれない。
「母」とは、役割だ。
家族の中の、ひとつの役割であり、大きな使命を持っている人のことを指す。
夫が死んでも母
長男が死んでも母
しかし、次男も死んでしまったら…
その代役をしながら自分自身を奮い立たせていたのが、マチ子がいたからではないのだろうか?
つまり、
コウジは、いつまでも母に母でいてほしかったのだと思う。
コウジは「あきらめたから出てこられた」と言っていたが、実はあきらめたことで母でなくなってしまうのが辛かったんだろう。
これがコウジが出てきた本心だったような気がした。
義理の娘
マチ子は決して「母」をお義母さんとは呼ばない。「おばさん」と呼ぶ。
それは当然まだ結婚していなかったからかもしれないが、マチ子の中にはどうしても「逃げ道」が必要だったのかもしれない。
彼女をお義母さんと呼んでしまえば、二度と結婚しない誓いのようになるだろう。
マチ子にはそこまでの覚悟はなかったと考える。
葬儀の時、コウジは彼女を見かけて「マチ子」と呟くが、母の「行こう」という言葉に促され立ち去る。
この時すでにマチ子にはコウジに対する執着はなかったのだろう。その事の驚きと悲しみが「マチ子」というセリフに込められている。
自分のことを「おばさん」と呼んでいた事に母は気付いたのだろう。
母にはすべてわかっているのでコウジを先へと促した。
マチ子には当時からすでに半分その気はなかったのだ。
マチ子にとってコウジの死はいたたまれないものだったことに違いはない。
しかし、生きている将来のある若者までもが、過去の呪縛に縛られてはいけないと制作者は考えたのだろう。
当時の厳格な思想
言論統制と厳しい取り締まり
自分の気持ちや本心を抑え込みながら生きていた時代
体裁のいいことと本心は違う。
でもどれが正しいのか誰もがわからないでいる。
コウジは従来のコウジのままで登場することで、その正直なおしゃべりの中で、母は自分自身の本心に気づいたのだろう。
母という役割は、コウジの死で終わった。
できれば生涯母として生きたかった。
そうさせてくれたのがコウジの霊だった。
将来のあるマチ子をリリースすることで、母という役割さえも捨てなければならない。
その現実を受け入れることで、誰かが幸せを手にする。
さて、
この作品のタイトルは難解だ。
「母と暮せば」
その意味は当然コウジと母を指す。
母と暮せば、母は母のまま。
母と暮せなくなったことで、母は母という役割を失ってしまった。
母から母という役割を奪い取った戦争
霊になっても母は母だと、コウジは言いたかったのかもしれない。
霊なっても、母は母のままだと、コウジはこの世界のすべてに叫びたかったのだろう。
この、意外にも永遠ではなかった「母」という言葉
死んでコウジの世界で再び母となることができた喜び
「あなたはもう、ボクの世界に来ているんだよ」
コウジに言われて大きな笑顔で喜ぶ母の顔が印象的だった。
「母」という象徴は、最期は喜びの中で迎えられることが、慰めになる。
戦争という傷痕
消しようのない傷
本当に傷ついているのが生き残った人々
監督は、彼らのための慰めを描いたのだろう。
私は当然、この真実を受け入れて泣くしかなかった。
どうしても心を動かされてしまう素晴らしい作品だった。
母より町子と暮せば
『父と暮せば』(2004年公開)で曖昧だった幽霊の設定が、少しだが明らかになった。
見どころは演技、方言、音楽。生活感を見せるのが上手い監督なので、リアリティがある。
序盤のカメラワークはとても良かったが、中盤以降はマンネリぎみで眠くなった。
『父と暮せば』よりもキャラクターの魅力はダウン。
以下、登場人物に対する感想。
浩二(二宮和也)...マザコンっぽくて好きになれない。幽霊の服装が変わるのは嫌だ。
伸子(吉永小百合)...いつからクリスチャンなのか、戦争中はどう過ごしていたのだろう。
町子(黒木華)...浩二が姿を見せて町子と暮す展開になるのかと一瞬頭をよぎった。
黒ちゃん(浅野忠信)...松葉杖以外のビジュアルが『父と暮せば』と同じだが嬉しくない。
ラストの合唱の映像が氣持ち悪いし、ビルマで戦死した人達のシーンが怖かった。
生きたかった数えきれない方々のこと
本作は原爆で亡くなった方の一つの物語です。この物語と同様、原爆で亡くなった方々には数えきれないほどの物語があり、数えきれない方々が本当はその後の人生を生きたかったのだと思います。そして生き残った方々も戦争で亡くなった方々とずっと一緒に生きていきたかった。そんな願いが痛いほど伝わってきました。
劇中信子が《浩二が亡くなったのは運が悪かったでは済まされない》みたいなことを言ってましたが、本当にそうです。戦争は天災ではなく人災です。国家が責任が取れるものではないし補償で済まされるものでもありません。絶対に絶対に全人類が戦争を経験してはいけないのです。
原爆投下79年の今年2024年、浩二の様に生きたかった数えきれない方々の言葉を代弁して、長崎市長は長崎を最後の被爆地にと仰っいました。欧米諸国が何と言おうが、私にも本作と同様、生きたかった数えきれない方々の反戦DNAがしっかりと刻まれています。そして、邦画の魅力はこういう所だと思います。
反戦、そして、母と息子の天国へのバージンロード‼️
原爆と聞き、自分では分かっているつもりでした。
しかし何も分かっていなかった。
幸せに暮らしていた医大生の息子と母の生活が、
当然のように将来は結婚して家庭を持ち子供を育てる、
そう決めていた若い2人、
それが突然に、前触れもなく、暴力的に、
庶民の生活が根こそぎ奪われたのです。
1945年、原爆が長崎に投下された8月9日。
それから3年後の1948年8月9日にはじまる物語です。
助産婦をしている伸子(吉永小百合)は、次男・浩二(二宮和也)の
命日を恋人だった町子(黒木華)と迎えてます。
高台にある伸子の家は戦災を免れてしっかりと建っている。
この辺りは被害が及ばなかったらしい。
浩二は長崎医科大学の講義中の午前11時、原爆が投下された。
瓦礫の下敷きになって
遺骨も時計も洋服の切れ端も残らず、母・伸子は息子の死を
まだ受け入れ難く思っている。
まるで嫁のように伸子の世話を焼く町子は、小学校の教師をしている。
浩二の死から3年。
母親の元に浩二が亡霊として帰ってくる。
母親に息子は言う。
「僕は死んだんだから・・・」
引導を渡しに来たのか?
息子との会話は弾んで楽しい。
思い出が次々と溢れて、それは明るい浩二のお喋りで、
孤独な母の頼もしい相談相手。
伸子は結核で夫を亡くし、長男は学徒動員でフィリピンで
戦死している。
そして次男の浩二まで・・・本当に痛ましい。
・・・・言葉もない・・・
そして母の心配は町子の将来。
そろそろ新しい人生を考えてもいいのではないか、と。
頑なに「町子は俺の嫁、ほかの男に盗られたくない」
そう言う浩二にも、母の喧嘩腰の説得に、折れていく。
そして「俺の分まで幸せになってほしい」と言う迄になる。
伸子はキリスタン。
教会に通い讃美歌を歌い、日々、祈りを捧げます。
やはり長崎や天草、五島列島・・・は、宣教師が古くから
布教に訪れて信者が多いのですね。
遠藤周作の原作を篠田正浩が映画化した「沈黙」
そして同じくマーティン・スコセッシ監督の「沈黙ーサイレンス」
で、キリシタン弾圧が描かれていますが、庶民の隅々まで
キリスト教信仰は根強く生き続けているのですね。
ラストの伸子のお葬式のシーン。
天国への階段を迎えに来た浩二と昇って行く。
ちょっと違和感のあるシーンでしたが、
この映画の元となった
井上ひさしの戯曲「父と暮せば」
井上さんはカトリックの孤児院で何年間か暮されたそうなので、
その関連なのかもしれませんね。
出演者はみなさん素晴らしかったです。
浩二の婚約者、町子(黒木華)は浩二のことを想い続けていた。 町子は「結婚する気はない」と伸子に告げるのだった。 苦悩の末に町子が出した選択とは?
動画配信で映画「母と暮せば」を見た。
2015年製作/130分/G/日本
配給:松竹
劇場公開日:2015年12月12日
吉永小百合
二宮和也
黒木華
浅野忠信
加藤健一
本田望結
広岡由里子
小林稔侍
辻萬長
橋爪功
山田洋次監督
長崎で助産婦をしている伸子(吉永小百合)。
戦地で長男を亡くし、長崎の原爆で次男、浩二(二宮和也)も亡くした。
浩二は死後3年経って、伸子に会いに来るようになった。
浩二は頻繁に現れて、伸子と長く会話した。
戦後の庶民の生活の苦難も描かれている。
庶民は闇物資などに頼った生活を続けていた。
浩二の婚約者、町子(黒木華)は浩二のことを想い続けていた。
町子は「結婚する気はない」と伸子に告げるのだった。
苦悩の末に町子が出した選択とは?
満足度は5点満点で4点☆☆☆☆です。
戦争
たくさんの命が失われた戦争
たくさんの未来がなくなった戦争
直接戦争を描かない方法で、戦争がどういうものなのか教えてくれる作品です。
まちこがおばさんを抱きしめてごめんなさいと謝るシーンは、涙なしには観られません。
私は幼い頃死ぬことが本当に怖った。怖くて眠れない日もあった。
でも映画が、死ぬことは先に死んでいった人たちのところへ行くことだから、死ぬことは怖くないと思わせてくれました。
いつまでも続いてほしかった
戦争の悲しさ、親の有り難さ、ささやかな幸せの尊さ、いろいろなものが詰まった作品だった。
望んだことが現実になる悲しさは何とも言葉で表現できないが、この映画でよく伝わると思います。
戦力ばかり増やそうとしている今の日本。ぜひ今見てほしい映画です。
死者とはいっしょに暮らせない
古事記においても語られているように死者と生者は一緒にいられない。愛する妻に会いに黄泉の国へ行ったイザナギも、変わり果てたイザナミの姿を見て逃げ帰る。
これは直接的な話として描かれているけれど、たぶん、死者、いや、追憶の中にどっぷり浸って生きようとすると、生命力を失い、弱っていくということなんだと思った。
我々は追憶の中から何かを学んだり掴み取ったり、ときには癒されたりすることがあってもいいが、追憶とズブズブだと、未来をなくす。そういうメッセージを感じた。
たとえ死んだ人とまた出会えたとしても、それを生活にしてはいけない。
前を向いて生者の世界を生きていかなきゃいけないんだ。
親子が成仏するまで
丁寧に昭和の理想の女性像を映像化しているからこそ、
元々クリスチャンが多い地域の長崎で、
元々お人好しな部類の方であっても、
「何であの子だけ?代わってくれたら良かったのに」
と最後に母伸子が口にするのが効いてくる。
亡くした家族が大切だから、
誰しも、他の家庭で家族と同世代の子が生きていたら、
いいなと思う感情を抱いて普通だと思う。
夫を結核で亡くし、長男を戦争で亡くし、
次男までも原爆で亡くし、
失意をどうにか次男の恋人の町子に支えられて3年過ごして、町子を娘のように想う伸子ですら、思うのだ。
吉永小百合も黒木華も、
監督や男性の考える理想的な女性で、
原爆の実際の中では、画にできている部類の生活なので
作品で扱う登場人物それぞれの感情はまだ美しさ優しさを残せている方。
それでも充分もう散々に悲しい。
明らかに憎むべきは戦争そのものなのだが、
負けたアメリカから流れる闇物資で
少し生活に贅沢が出るのもまた事実。
理想的な女性達に、「現実」のスパイスを加える上海のおじさん。
出兵した男性達もまた、元々は女性から産まれて、
お母さん大好きな男の子達だったわけで。
戦時中辛い時寂しい時、母の優しさを思い出した者は沢山あっただろう。
幽霊という設定がゆえ、それを声に出して伝えてくる。
マザコンと叩く評判はわかるが、実際男性ってマザコンな生き物だよなぁと。
もし生きていたら、20代男性はあんなにペラペラと恋心や胸のうちを母親には話さないし、とっくに浩二は町子と新しい家庭の大黒柱。
霊だからこそ童心に還り、全てを言葉に出している。
母には、たとえ息子がいくつでも、大切な子供。
戦争なんかに奪われて、悔しさ悲しさ寂しさこの上ない。この作品を見て、亡くした家族と重ねて、浩二が発する台詞に救われる遺族はきっといると思う。
息子の霊が、3年間母が諦めないから出てこられなかったと言っている通り、母が息子の生存を信じているうちは霊にもなれずにいたということか。
そして母が、現実として息子は亡くなっていると理解できる頃を見計らって出て来ている。
夫や長男と違って、遺体や遺品さえも全くないから、希望を消して亡くなったと認識し生活を進めるのは非常に難しい。
作中、伸子に現実を突きつけるのは、息子の霊にしか出来ない役割なのだろう。
終戦して3年経っても、国民の生活も苦しく、癒えぬ傷を沢山抱えている中での話。
決して良いななどとは言えないが、
身寄りがなくなるまで家族を亡くした母親が少しずつ、息子の霊と共に生きている世界から離れていき、息子のお迎えがある状態で息を引き取り、長く経つことなく発見されて、悲しみ悼まれながらミサまでして貰える最期は、あくまで最期の形だけで見ればかなり恵まれていると思ってしまった。
ミサで、伸子だけでなく遺品もなかった浩二も一緒に天国に送って貰えているという表現があのCGなのかなと。もう霊になることもなく、成仏するのだろう。
伸子はそれまでどれだけ、品位を落とさず、ひとり抱えて苦しんできたか。
町子すら結婚を決めた時、この世に生きる意味も幸せも未練も全てなくなって整理がついたのだろう。
ただし、町子の結婚は町子のご家庭と町子が決めることで。今頃孫が産まれているかもとか想像してしまうのも、浩二が町子を大好きだからすっぱり送り出せないのもよくわかるのだが、あれだけ関わりがありながら町子のご家庭は会話にすらも全く出てこないのがとても謎。
そして、子供をたくさん産んで、って当時の価値観での言葉が何度も出てくるが、現代だと叩かれちゃうかも。
浩二への想いは嬉しく有難くも、断腸の思いで町子には浩二を諦めて幸せになって欲しいと結婚を勧めたが、結婚相手となった黒ちゃんは戦争で足を失くされた方。
恋仲だった女性が、別の者と結婚し幸せになって欲しいと想いを切り替える時、大好きな町子の結婚相手にどこかしら不自由がない方が珍しいほどだったことを、浩二は想像していただろうか。
町子はどの選択をしようとも、お世話をする人生。
それでも、生き残った者が背負う罪悪感や苦悩を、ひとりで感じ続けるよりずっと良い。
話し相手がそばに居続けるだけで良い。
それも難しくなった伸子には、寂しさからか本当なのか、次男の霊との会話をする日常が始まっていき、次第に現実との境目がつかなくなっていったのでは。
それは寂しすぎて、認知症のような状態が進んだのか、一種の逃避だったのか、わからない。
それでも掃除まで欠かさず、助産師の仕事まであって、稼ぎ手がいなくて分家の未亡人でありながら、髪や身だしなみも、言葉も優しさも乱れない伸子は、戦後の、戦死した男性、生き抜いた男性達全ての、理想像。
伸子のお隣に住むおうちこそ実際。
身なりも何もはっきり違いをつけて、画でそれは示してある。
見た目だけでも美しい中で語られる、
状況ではなく気持ち。
まだ学生設定、息子設定だから二宮和也はまぁよく喋るが大人になりきっていない男性の演技がとても上手。
霊になったことで子供に戻ったかのようにお母さん大好きが溢れ出る。笑う演技のみぎこちないが、メンデルスゾーンに大粒の涙を流し、台詞はないが生きていたら良かったのにとやるせない悔しさ悲しみがひしひし伝わる演技がとても良かった。
医大学生が高校の頃には中学生の町子と出会っている。
どんな馴れ初め?
出演者は恥しくないのか?
『人間のすることじゃなか!』
さて、気持は分かるが、寧ろ、それが人間のするあやまちだと思う。実際の台詞は『鬼のアメリカ軍め!』となる。つまり、それが言えないから、誤魔化した台詞。三島由紀夫先生が自決した理由がそこにあると私は考える。
しかも、東京大空襲の指揮を取ったカーチス・ルメイの存在になぜ触れないのか理解出来ない。
学校で『背比べ』を歌っているが『柱の傷は一昨年の、、、』と続く。『プルトニウム爆弾』が投下されたのが、三年前。柱も吹き飛ばされた長崎でそんな歌歌ったのか?
メンデルスゾーンはドイツの作曲家だが、メンデルスゾーンはユダヤ系の作曲家。ナチス・ドイツがどう言った扱いをしたかきちんとリサーチすべきだ。
演出家や脚本家が誰か知らずに見た。分かっていたら見なかった。
ファンタジーと言えど、作品づくりに人称を意識しないとそれは反則になる。
死んだ人間に対して、操を立てる神経が分からない。結局は主人公もやがて死ぬんだろうから、地縛霊のお話。
アメリカ交響曲は1945年の映画。ゆえに主人公が知る由もない。
結論、『皆さんPLAN75に入ろう!』って事か。
皆に優しい母が最後口に出してしまった言葉が本音だろうな…
ネタバレ
泣いた。
原爆で亡くなった息子と、1人で生きている母の話。
泣いた…。
母は原爆症で亡くなったのか、心臓?悪化して亡くなったのか…。
亡くなった人を思い続けまちこを縛り続けるのは良くない。
最後母のセリフ、まちこが代わりに亡くなればよかったって子を持つ親ならみんな思ってしまうんだろうな。
最後までまちこをみんなを大切にしていた母が見せてあの姿がね…。
つら…。
ピカっと光ってインクの瓶が一瞬で溶け、そこから爆風がきて。
戦争はよくない。
23.8.12 テラサ
感動。息子がお迎えに来た説を強く推す
まずは批判も多いラストですが、あれは原爆で亡くなった方々への鎮魂と、祈りだと強く感じた。レクイエムを歌う老若男女、お母さんと手を繋いだ子供、一瞬で失われた沢山の、普通の方々の魂だと思えて涙が溢れた。戦争と原爆というものを書くからには、祈りと鎮魂が込められなくてはいけないと、思うので、ラストの特撮の出来の問題は置いておいて、あれで良かったと思う。あのラストは戦争と原爆で亡くならなくてはならなかった方々へ送られたものであり、「オチ」では無いのだ。天国へ行って欲しいと祈る祈りと共に私は泣きながら見た。
二宮さんは独特の哀愁がある役者だ。黙って見つめただけで悲しみを表す。泣く演技をしなくとも悲しいのだと感じさせる。セリフで説明するわけではない悲しみを内在した存在を演じさせたらピカイチだと私は思っている。
本当はどうなのかはわからないが、母は息子を探して、投下翌日から長い間被爆地を彷徨った時に被爆したのではないかと推察した。
母は無意識に自分の死期が近いことを感じ取っていたのではないだろうか。だからマチコにしつこいくらいに息子を忘れて幸せになって欲しいと言い出し、おじさんに世話になる関係も清算しようとしたのではなかろうかと感じた。息子が未練で亡霊となって近づいてきたのではなく、母があの世に近づいていたから息子が見えるようになったのではないだろうか。ラストで息子がおやすみという時の、悲しいような怖いような表情。息子は母の死が近いことを知っていた。母を心配しながら、たくさんの話の中で息子は、母にこれからの幸せのことや、長生きしてねというような未来の話を一度も言わないのである。
リアルで、老健施設に勤めている家族から聞いた話。気難しい利用者が、「〇〇丁目の角まで、亡くなった息子と旦那が迎えに来ているので、タンスの中のものを風呂敷に全部詰めて欲しい」と訴えるようになったそうだ。その数週間後にその方は亡くなった。私には、風呂敷にぎっしり身の回りのものを詰めて背負ったその方の魂が、旦那さんと息子さんの待つ〇〇丁目の角まで、歩いて行く姿が想像された。全部持って行こうとして、旦那さんと息子に、あの世には持っていけないよと言われたりしなかったであろうかと、想いをはせた。
その話を聞いた後のこの映画である。
なので、息子がお母さんを迎えに来たんだなと、即思えた。お母さんが亡くなる前にマチコが決心できるように誘い、母子共に心の整理もして、何も心配することを残さず行けるような作業を共に行なった。母と暮らした大事な時間だ。
2人芝居の舞台を見ているように進む、淡々と積み重ねる時間は、別れの言葉も言いにこれず、自らの死で母に大きな悲しみを与えてしまった息子の、親孝行の時間であったと思えた。亡くなる前に、息子と想い出を語り合い、ひとときの喜びを感じ、小さなずるさを清算し、立派な母が、悲しさに心の奥も吐露した。マチコへの愛情と複雑な想い。マチコの罪悪感と、そうして確かにある愛情。その時間の切なさ。それを退屈だと感じる人には、死はまだまだ遠いのだろう。
なぜあなたが生きてて自分の子供が死んだのか。と言われた人を実際に知っている。なぜうちの子だけが。と考えてしまうほどに子供を失うということは悲しい。世の中で、それ以上に悲しいことはないのではないかと思えるほどに悲しい。そう言った実際の悲しみを知っているかどうかで、この映画への感じ方は変わり、評価も変わるのかも知れない。
この映画には戦争という大きな悲しみを産み出したものと同時に、「悲しみを抱いた普通の人」の人生。〇〇人と、数字で語られる被害者一人一人の生きた時間に対する想いがあり、祈りがある。ずっと心に残るであろう良い映画であった。
また、現実時間軸では息子が出てくる時の唐突さ。家の暗闇にスッと消えて行く様は実にリアル。お化けってこういうふうに出るよね〜と面白く見た。
比してあの世の家ではライトアップされる舞台的非現実感で差別化されているのも(そっちの演出はあまり好みでは無いが)面白い。
長い朗読を聞かされているようだ
過去にあった事などを会話であんな事あったよねーと説明されても、レストランで隣の席の人の話が聞こえちゃったくらいの興味しか湧かない。
ただのマザコン君のお話にしか感じられなかった。
良い映画を観れた幸せを感じました
自然と感動の涙が溢れ出ました
降り積もるようにいろいろな想いが積み重なって、いつの間にか胸が一杯になっていました
元々舞台の為の原作なのだから舞台劇ぽいのは当たり前のこと
それをここまで映画にしたのはやはり山田洋次監督の力でしょう
山田洋次監督作品だから、人情もの、笑い声のあがるユーモアを期待する向きもあるのでしょうがそのような作品では有りません
劇中、劇伴の音楽が要所ごとに鳴っているのですが、それと気付かない程に自然なものです
それ故に浩二のかけるレコードなど、劇中で実際に流れているものだけがクッキリと浮かび上がって記憶に刻まれます
劇的に盛り上げることなく、淡々と静かな日常生活を描いていきます
私達はその日常生活の中で一緒に暮らしている印象を受けるほど
それだから冒頭の坂本龍一の格調高いタイトル曲と、それが展開されたラストシーンの葬送曲とエンドロールに流れる賛美歌のようなコーラスが圧倒的な感動を呼び起こすのだと思います
吉永小百合は、少女時代の彼女自身の性質と彼女の役が一致していた頃のように、役と自身が久々に高いところで入り混じり折り重なった演技を見せています
彼女の作品で初めてその演技を素晴らしいと思えました
長崎ぶらぶら節に続いての長崎弁がとても彼女に似合います
もう70歳
なのにそれでも美しさが失われてはいません
十分、二人目がもう医大を卒業しようかという歳になった子を持つ、50代半ばぐらいの母親に見えます
彼女の役は、家族を全て失い、健康状態も悪く、栄養も取れずに孤独に生きている女性なのですから、実際なら彼女以上に老けていてもおかしくないのです
だからちょうど良いぐらいです
二宮和也も、黒木華も素晴らしい演技だったと思います
良い映画を観れた幸せを感じました
イエスの奇跡
たまたま録画られていたこの映画
そしてたまたま今日は何も用事がなかったので見始めたらなんと長崎のこの日からの話だったのですね
あまりの偶然に驚きましたよ
こんな風に亡くなった人と暮らせたならどんなに幸せかわかりませんね
やはりこの時期になると「戦争」がテーマのものが映画やドラマなどで増えてきますね
人は人を愛し慈しみ幸せになってほしいと願うもの
よほどの出来た人でもなければ羨ましがったり妬んだりしてしまいがちですよ
そんな事思っちゃいけない事は誰だって分かる、分かるけど考えてしまう、そしてまた苦しくなってしまう
そんな思いをした方がどれだけ沢山いたのでしょうかね
この作品は深いメッセージとは裏腹にとてもテンポ良く楽しくお話が進むのが良かったです
息子は明るくとてもよく話 母は嬉しそうに二人の時間を楽しむ
冒頭に出てくるシーンの続きを見ているようです
是非時間を作って長崎という土地へ行ってみたいものです。
あのお墓のある場所から長崎の街を眺めてみたい
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