「東京大空襲、原爆、東日本大震災を越えて」シン・ゴジラ りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
東京大空襲、原爆、東日本大震災を越えて
何年かぶりの和製ゴジラの新作『シン・ゴジラ』、ロードショウで鑑賞しました。
昨年秋の文化庁主催のシンポジウムで、平成ゴジラ中興の祖・大森一樹監督が、「ゴジラは映画のスター。スター映画というのは、ファミリー映画。庵野と樋口にはファミリー映画が撮れるのか」と述べていましたが、さて・・・
各国が太平洋に無断投棄した放射性廃棄物を食料とした古代生物が巨大化し、東京に上陸。
自衛隊を中心に政府は対応しようとするが法整備すら出来ておらず、対応ができない。
その間にも巨大生物は変態し、さらに巨大になっていく・・・
というストーリーは、第1作目の『ゴジラ』の焼き直しである。
というか、そのままである。
たしかに、政府の対応方法や細部は異なるが。
その異なる部分が今日的な視点である。
第1作では、ゴジラ出現の経緯は太平洋における核実験。今回は放射能廃棄。
さすがに、現在、太平洋での核実験は行われていないので、そのように改変しているが、「核に対する無自覚さ」というのが根底にあることには変わりない。
また、第1作では「東京大空襲」の悪夢の再現のようなゴジラのゴジラの襲来は、今回は明らかに「東日本大震災」の再現である。
幼生のゴジラがのたりのたりと川に沿って遡ってくるのは、津波のイメージだろうし、その幼生(一部変態するが)は引き波のように海に還っていく。
還っていった後に残ったのが、瓦礫と放射能なのだから、これは福島のイメージだろう。
(瓦礫の山の前に、長谷川博己演じる矢口が立つシーンは、震災後の写真を彷彿とさせる)
とここまでは、太平洋戦争を東日本大震災にスライドさせたイメージで進むのだが、後半、完全変態した成体形ゴジラになってからは、ゴジラ本来が持っている「原爆」の恐怖のイメージが沸々と滾(たぎ)ってくる。
ゴジラに対して、国連の多国籍軍が編成され、ゴジラを駆逐するためには、熱原爆を落とすしか手がない、それを日本が許容できるのか、というハナシになってくる。
このあたりになると、心底、恐怖が増してくる。
なにせ鑑賞したのが、広島・長崎に原爆が落とされた日の直後だったからね。
この、無謀な策を、「復興」の名のもとに受け容れようとする政治判断も描かれ、背筋が凍ってしまった。
しかし、この映画は、第1作の焼き直しである。
東京に原爆は落ちない。
落とさせない。
核に対して核、という回答はあってはならない。
第1作では、オキシジェンデストロイヤーという科学の力(しかしそれとても、武器になりうる可能性がある)が投入されたが、今回は、「技術」である。
コンクリートミキサーとコンクリートのクレーン注入機で、ゴジラに血液冷凍剤を注入しようというのだから、科学ではなく、「技術」だろう。
この技術志向は、かなり興味深い。
SF(空想科学映画)的解決ではなく、あくまで、技術。
ゴジラ退治のシーンは、まさしく、大規模工事現場の様相。
あれれ、なんだか既視感が・・・
樋口真嗣が監督した2006年の『日本沈没』では、太平洋プレートのひずみに巨大な鋼鉄製のプレートを打ち込んで、日本の沈没を食い止めた。
あれに似ている。
ただし、今回のやや乱暴ともいえる血液冷凍作戦は、映画的には驚く効果を残した。
(というか、この画を撮りたくて、この作戦を採ったのだろうけど)
それは、冷凍剤注入中に覚醒したゴジラが立ち上がり、そのままの状態で固まってしまう画。
そしてその固まったゴジラは事態収拾後も立ち続けている。
原爆の象徴=原爆ドームのように。
無自覚な放射能施策を忘れてはならない、と告げいるかのように。
東京に原爆を落とさせなくてよかった、と告げているないかのように。
冒頭に挙げた大森一樹監督の発言を振り返ってみると・・・
第1作目の『ゴジラ』は、そもそもファミリー映画ではなかった。
スター映画でも、ファミリー映画でもない、「恐ろしいゴジラ」を現代に蘇らせたのだから、この映画、成功だろう。
ただし、この映画は、これで完結であり、凍り固まってしまったゴジラが蘇る日は、スター映画・ファミリー映画になるかもしれないが。
評価は★★★★(4つ)としておきます。
<追記>
エンドクレジットでは長谷川博己、竹野内豊、石原さとみと並んで(他の多数の出演者の後に)、野村萬斎がクレジットされていましたね。
パンフレットを買えば書いてあるのかもしれませんが、これは、ゴジラ役でしょうね。
今回のゴジラはオールCGとのことですが、その元の動きのモーション・キャプチャを野村萬斎が務めたものと推し量りました。