神々のたそがれ : 映画評論・批評
2015年3月17日更新
2015年3月21日よりユーロスペースほかにてロードショー
灰色の惑星の終末をプリミティブに描き上げたSF寓話
1998年のカンヌ国際映画祭でコンペ部門の審査委員長を務めたマーティン・スコセッシは、ロシアから出品された「フルスタリョフ、車を!」を観て「何が何だかわからないが、凄いパワーだ」と唸ったという。その異形の怪作の作り手こそは、レンフィルムの重鎮アレクセイ・ゲルマンだ。2013年に死去した鬼才の遺作「神々のたそがれ」を観た者は、誰もがスコセッシ同様の感想を抱くことになるに違いない。いや、それどころか作品全体に充満する不可解さも乱暴さも、前作から数倍にふくれ上がっているのだ!
アンドレイ・タルコフスキーの「ストーカー」の原作者でもあるストルガツキー兄弟のSF小説「神様はつらい」の映画化。地球よりも文明の発達が遅れたある惑星を訪問した人類の見聞録という形をとっているが、冒頭、池を囲むように切り立った複雑な地形の集落が映し出され、観客はいきなり混沌のまっただ中へ引きずり込まれる。抑圧的な体制による知識人への処刑が日常茶飯事のその世界は、雨や霧に濡れた地面が不快なほどぬかるんでいて、あちこちに吊し上げられた死体が揺らめき、泥と血と内臓と汚物が混じり合っている。
ゲルマン監督はそんな無秩序や不条理といった言葉でも言い表せない腐敗した光景を、尋常ならざるディテールへの執着が感じられる膨大な物量のセット、小道具、エキストラを投入してヴィジュアル化した。慌ただしく画面を出入りする人物のみならず、ニワトリや犬といった動物までが有機的に動き回っているショットの数々は、いったいどんな準備のもとで撮ったのか。おまけにそれらの映像は整然とした様式美とはかけ離れ、観客の困惑などお構いなしに、何もかもが狂ったプリミティヴなエネルギーを発散し続ける。
中盤から終盤に向けて異様な出来事がはてしなくエスカレートする本作は、灰色の惑星にどこからともなく暗黒の死が押し寄せ、ついには虚無が訪れる瞬間までを見届けていく。つまり侵略者の襲撃もウイルスの蔓延も天変地異も起こらないこの映画は、究極の自己破滅的な終末を描いているとも解釈できる。しかも、ひょっとするとその野蛮な惑星の正体は“地球”なのかもしれないのだ。
(高橋諭治)