トイ・ストーリー4のレビュー・感想・評価
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賛否両論とあったが、正直否の理由が全く理解できなかったくらいいい作品だった
賛否両論という意見を見たので若干穿った見方をして本作を見てみたが、特段非難すべきところがなくとても楽しめた。
初っ端からのボーと羊たちだけが引き離されるという展開があったが、いわゆる闇落ち展開からの、つらい経験をした女性は強く逞しくなるという描画、現代の女性像として表現しているのが良いなと思った。きっと20年前では逞しい女性が頭でっかちの男たちに潰されるということがあっただろうが今の時代だからこそ表現できた事なのではないかと感じる。
井の中の蛙の勝気のお姫様が不可抗力で自分の力で生きていかなければならず何年も経過して自分のスタイルを見つけて勇ましく生きている姿、自分はまずここで惹きつけられた。
ウッディも正直可哀そうな立場だと思う、アンディから大切にしてと託されたけれど、ボニーからすると貰った一つのおもちゃでしかなく、好みじゃないから遊ばれなかっただけ、ボニーが作ったフォーキーというおもちゃには思い入れがあるのでボニーはフォーキーを気に入っているが陰でフォーキーを成長させたのは間違いなくウッディだった。
私事だが、ある店舗でバイトをしていた時に、当時の店長などからは良くしてもらっていたが、経営者が変わるからと経営層がごろっと変わった際に、新しい経営層が私のことが気に入らないようで邪険な扱いをされ、新しい経営層が雇った新人たちは良くされていた。私としては前の店長などに恩があったので数か月働いたが結局新しい経営層とどうも上手くいかず「お前は前の店長たちから託されたから使ってやっているが正直俺はお前を使いたくない」と言われてあっさりとバイトを辞めた経験がある。
その経験とウッディの立場が重なって共感しかなかった。
今までのトイストーリーシリーズから人格が変わったとかいう感想を残している人は多分人生経験が浅いんだろうなと正直思う。環境が変われば人格なんてものは変わる。
今までアンディというウッディにとっての良き持ち主の元で良くしてもらっていたからここにいたいと思っていただろうけど、自分の事を無視する新しい持ち主だから自分は必要ないのではないかと考えるのは自然の事だと思う。
ウッディにとっての幸せは自分の事を無視する新しい持ち主の元にいることではなく、紆余曲折あったがボーという長年の仲間と新しい道を進むということだったのだろうと思う。
仲間たちとの別れがあっさりしているとかいうコメントあったが、ウッディ以外は新しい持ち主に選ばれていて、選ばれなかったウッディが今の状況を辞めたいと思ったときに、「もっと頑張れよ」とか「これから巻き返せるよ」とか言える奴は昭和精神が抜けてないんだろうなと思う。自分の幸せは自分で掴めよというのが今どきの考えだろうと思う。
バズが自分の信念がなくなったという意見もあったが、相棒のウッディから「自分の声を聴けよ」と言われて、俺もやってみようというウッディに対する信頼感があったのではないのかと思う。
バズに関してはランダム(?)な自動音声だったのでウッディとは違うかもしれないがそこも相変わらずおちゃめなバズだったと思う。
シリーズ通してキャラたちの個性を考慮したり、時代を考えると本作の何が悪かったのかが理解できなかった。時代に取り残された精神的老害たちや変化を嫌う昭和精神の人たちが声を上げただけなんじゃないかと思う。
思い入れのあるトイストーリー2の次に本作が面白かった。
感動がないからと本作を低評価にしている愚か者がいたが、私は3の方が安直なお涙頂戴な気がして好きではなかった。
涙を流せるからいい作品という訳ではない。自分が涙を流したから自分にとってはいい作品だと思いたいと思い込んでるだけ。
本作はいろいろな所に考えさせる要素のあるいい作品だと思った。(初期不良というなのハンディキャップや様々な人種のキャラを登場させたり等々)
本作は当時トイストーリーやトイストーリー2を見ていた子供たちが大人になって考えさせられる作品なんだろうと思う。本作だけを見ただけで云々言っていいものではないと思う。
選択の時
3のラストで大号泣だったので続編はあまり気が進まなかったのですが、観て良かったです。
おもちゃ達の友情・チームワーク・切ない性(さが)に今回も泣きました。
アンディとの思い出に囚われ空回りするウッディ。彼がフォーキーと自分を重ねていたように、ウッディと自分を重ねて観ていた人も多いかもしれません。
クローゼットの隙間から様子を伺って待っているだけでは何も変わらないのは薄々気付いている。自分の時代が終わりつつあることも...それでもああやって持ち主であるボニーの為に奔走するウッディが切なくて愛おしい。
なぜ、そこまで?
自分の中の“内なる声”を聞いているから。“内なる声”に耳を傾けていれば、“その時”がやって来た時にきっと感じ取るのだ。
待つだけの日常に戻るのか?新たなステージへ踏み出すのか?
今が選択の時なのだと。
あまり感動できなかった
ウッディが悪者だったギャビーと壊れたボイスを交換してあげるのがとても優しくて印象的です。ボニーのところへ行く途中で迷子の女の子を見つけて幸せになる展開も面白い。
あと、ヒロインのボーは表情が豊かでとても魅力的に描かれていたと思います。
気になったのは下記です。
・ボーと離れて、家に帰ろうとするウッディだが、バズのボニーは大丈夫の一言で、家に戻らない決心をします。大きな決断をするには少しエピソードが弱いと思います。
一度は家に戻るが、ボーが危険を顧みずに迎えに来てくれて、一緒にいくぐらいの展開が好みです。
・仲間たちとの別れがあっさりしている。
保安官バッジをジェシーに渡すのは良いが、その後が少し物足りないです。
「こんな大事なモノはもらえない」「ボニーのことを頼む」ぐらいの台詞が欲しいです。
以上
前作と比べてしまいますね
どうしても前作と比べてしまいますね。
悪くはないのですが、前作を知っているだけに物足りなさが残ります。
ラストの展開は意外でしたが、次作以降が作成されるならどういう展開になるかは少し楽しみでもあります。
我々が無邪気に与えてしまった生への落とし前
作品が100パーセント自分の思い通りになると思っている作り手は嫌いだし、そうあるべきと考えている受け手も嫌いだ。作品は逸脱する。登場人物は意図の通路に容易く穴を開け、好き勝手なところへ向かおうとする。
ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』という映画に、若者たちがボールもラケットも持たずにテニスをするシーンがある。スマッシュする音もプレーヤーの息遣いも確かに聞こえているはずなのに、そこには何も映っていない。カメラという意図性は、決して対象の全てを接収できる完全無欠の道具ではないのだということを、アントニオーニ監督は今一度主張している。何かにカメラを向けることには、常にその何かに対する責任が伴うのだ。
玩具に人間と同等の自我を与える、というのも言うなれば無邪気にカメラを回すことと同義だ。そこには画面的・物語的な進展性に対する欲望だけがある。玩具たちは、『トイ・ストーリー』という映画のために唐突に自我を与えられ、あまつさえ人間に奉仕することを運命づけられてしまった。
しかしそれは別に悪いことではない。私もまたウッディやバズのめくるめく大活劇に心を躍らせたし、彼らが紡ぎ上げる数々のドラマに胸を締めつけられた。とりわけ『3』は玩具と人間の間に横たわる根本的時差の問題に目を向けた意欲作だったと思う。ウッディたちはもう子供ではなくなってしまったアンディとの日々に別れを告げ、次なる持ち主のもとへ旅立っていった。
とはいえ『3』の物語はハッピーエンドの位相が最後まで人間側に設定されていたように思う。大人になるにつれ玩具への興味が薄れていく、という我々の後ろめたさを、玩具たちに「俺たちは誰かに奉仕している限りどこへ行っても幸福なんだ!」と言わせることで無理やり解消していたというか。玩具たちが抱える自己存在の不安は、実のところ巧妙に先送られていただけに過ぎない。
したがって本作はシリーズにとって必然だったといえる。ウッディは作り手と受け手の極限まで肥大した全能感のあわいをすり抜け、その先で隠匿されていた自己自身を知るに至る。それだけであれば既存の構造に対する単に技巧的な裏切りに過ぎないのだが、ウッディがボニーのもとを離れるまでの過程に強い説得力があった。
ウッディがゴミ同然のフォーキーを庇い続けるシーンは、彼が既に主人との関係の側端にまで追いやられていることを如実に物語る。それでもボニーを信じ続けようとするウッディに、これでもかというほどの現実が襲いかかる。
射的屋に何年間も吊るされ続けたダッキー&バニーや、古物店に売り払われたデューク・カブーン。極めつけはウッディとボイスボックスを交換してまで声帯を手に入れたにもかかわらず、意中の子供に「いらない」の一言で捨てられてしまったギャビー・ギャビー。
その一方で特定の持ち主がいない、つまり「幸福でない」はずのボーやギグルはなぜかとても楽しげだ。
それらの小さな違和感が、ウッディを悩ませる。俺もそろそろ自分のために生きてもいいんじゃないのかと。『トイ・ストーリー』という物語が設けた檻の外側を見てしまった以上、ウッディはもはや自分を愛していないボニーのもとへ戻ることができない。そんなウッディの心境を知ったバズが、彼の決心を優しく肯定するラストシーンは美しくも切ない。
我々が勝手に自我を植え付けてしまった玩具たちが、その自我を起点に我々を裏切っていったことにより、作品と我々の関係はようやく正常化したのではないかと思う。寂しいといえば寂しいけれど、そもそも彼らに生を与えてしまったのは他ならぬ我々なのだ。
ラストシーンでのフォーキーと新入りのやり取りはきわめて示唆的だ。
「私、なぜ生きてるの?」
「さあ、なぜかな」
我々の欲望はこれから先も数多のお前たちに望まぬ生を与えるだろう。だからお前たちも好きにすればいい。どのような結果を招来することになろうと、最後までそれを見届けることが我々の責務だ。
子供部屋からの旅立ち
新たな仲間、ボニーのゴミ(笑)の出現でウッディが、好きだった(と思われる、笑)ボーと再会したことも切っ掛けにバズ達と別れる=子供部屋からの旅立つ。何だか人間の親離れみたいなモノかしら。なかなか見どころあり、良かったです。もちろん映像も凄い!!
賛否両論とは
まあとにかくよく出来た作品だ。
あらゆる場面でのウッディの選択はいつも微妙であり、むしろ混乱を招くきっかけとなることが多い。
しかし、正しいかどうかは結果論であって、重要なのは何を選択するか、その決断する瞬間の気持ちなのだ。
ボー・ピープは引き留めるウッディの元を離れて旅に出た。
ラスト、決断に迷うウッディに親友バズは優しく送り出す。
結局ウッディは自分では決断出来なかったのかもしれないが、少なくとも自我を見つめ直す旅には踏み出せたのだ。
シリーズ最新作としては賛否両論的らしいが、個人的にはすごく共感出来た作品だった。
ボーに恋して
9年間もボー・ピープと離れていたウッディ。その別れのシーンを冒頭に持ってきて、ストーリーとしてはまずまずの構成となっていた。新しいフォーキーというキャラが現実逃避をしているとかいじめられているような雰囲気で、とにかく自分をゴミだと思っている子。擬人化されてるオモチャだと考えたら、とにかく悲しさをも感じる。
独裁国家から逃げ出す大活劇で興奮させてくれた前作に比べると、物足りなさもあるのだけど、ウッディのボーに対するかつての恋心が再燃すると思わせる葛藤がいい。子どもの頃からのトイストーリーファンならば、鑑賞者自身も大人にならねばならないという含みも感じられるのです。
子どもはオモチャのことなんてすぐ忘れる。そりゃあれだけいっぱいのオモチャがあれば、一体くらいいなくたって・・・
ボー・ピープのメアリー・スー感
単品で見ればストーリー的にも悪くないと思う。でも、これをトイ・ストーリーシリーズの続編として出されると違和感が強い。
「メアリー・スーって二次創作の話じゃないの?」と思った人もいると思うけど、ここではあくまで「要素要素がメアリー・スーっぽい」と思った理由を書いていく。
具体的に言うと
・ボーピープが肉弾戦も作戦行動も精神面もやたら強い。
・当然のように他のオモチャ達に慕われ愛されている。
・ウッディやバズが(出番の長さではなく実績として)全然活躍せず、ボーピープが活躍しまくる。むしろウッディがボーピープの足を引っ張っている。
・最後は主人公ウッディと一緒になる。しかも主人公は仲間との別れを選んでまでボーピープと一緒に行く道を選ぶ。
という点。
勿論ボー・ピープは元々存在するキャラだけど、なんというかキャラが変わりすぎて"ボー・ピープである"という感覚が薄いのもあると思う。
ぶっちゃけ「トイ・ストーリーのボー・ピープに転生したのでウッディを救おうと思います」ってタイトルでもあんまり違和感ない感じのストーリーだった。
こう書くと「ラストシーンはあくまで生き方を選んだだけであって、ボー・ピープ(恋)を選んだわけではない」という意見があると思う。
でも強く言いたいのはそこじゃない。ウッディやバズを差し置いてボー・ピープが活躍しすぎてるのが問題。
本当にウッディとバズの見せ場がない……。
あのオチは個人的にはうーんな感じだったけど、ああいうオチにするならするで、トイ・ストーリーなのだからウッディやバズがきちんと活躍する所が見たかった。
もはやボー・ピープが主役でウッディは脇役のトラブルメーカーになってる印象。
本当に単品で見れば悪くなさそうなストーリーなんだが……トイ・ストーリーとしては、まあ、☆3で。
困惑…!!
言いたいことは色々あるんだけど、とりあえずモヤモヤと困惑がすごい…。
中華料理店で美味しい中華を食べて、「この店美味しかったからまた来よう」と、来店の度に味付けの変化や料理が洗練されてきてるのを楽しんでたのに、ある日同じ店に行ったら看板はそのままなのに、いきなりインドカレーが出てきた感じ。
「いや、おいしくはあるんけど、中華料理食べに来てんだから中華が食べたいんだけど…。インドカレーが食べたい時はインドカレーのお店に行くんだけど…」という感じ。
(インドカレーはインドカレーで大好きなんだけど、要は困惑したということを言いたい。)
例えが悪いけどまさにこんな感じだった。
あとボーかせっかくまた出たのに色んな製作側の思想とかストーリーの都合を背負わせすぎ…。
ボーに限らず製作側のキャラクターへの愛が感じられないのが残念。
ストーリーを実現するために、ストーリーありきで既存キャラクターを当てはめてる感じが見てとれてモヤモヤしてしまう。
うーん…。
惹かれないのは何故だろう
子どもが作ったゴミおもちゃの為に頑張る話
子どもが気に入っているからとはいえ、お節介すぎる気もする
ゴミおもちゃ救出がストーリーの大部分だが、もう少し展開やテンポが欲しい
ラストにこうなるまでに、伏線や今作のテーマとなる軸が欲しい
シリーズ作というより、外伝のよう
これまでのシリーズ作品とは別物
おもちゃの持ち主がアンディからボニーに移ったあとの話。
おもちゃの持ち主が変わったからなのか、これまでのシリーズ作品とはほぼ別物のようなストーリー。
女性らしい印象のボー・ピープが独り立ちしてワイルドになっていたり、ウッディがおもちゃの持ち主から大切にされていなかったり、これまでのトイストーリー1,2,3とは印象が異なる。
アンディから「一番特別なおもちゃだから大切にして」とボニーに託されたはずなのに、クローゼットにしまわれたままになっていたり、いなくなっても分からなかったり、ウッディの扱いが雑なのが気になる。
微妙なのは、自分のことしか考えずに行動していたギャビー・ギャビーのせいで事態がややこしくなったのに、何のお咎めもなく新しい持ち主を見つけていくところや、元々のおもちゃ達がほとんど出番がないところ。
これまでのシリーズの続きというより、また別のシリーズと思えば納得しやすい。
高評価をつけているレビューにも共感する部分はあるし、全体的なストーリーとしては悪くないと思うが、自分がトイストーリーに求めていたのは今作のような展開ではない気がする。
感動する場面もあったが、何度も見たいと思う作品ではなかった。
仕事一筋だった男の定年後セカンドライフ
ヴィランらしいヴィランがいない
ギャビーギャビーはおもちゃとしての幸せを求めるウッディーと鏡合わせのよう
おもちゃが動くところを人に見られちゃいけないけど声は大丈夫なんだ?
君はともだち♪『何で生きてるの?』『わからない!』
2022.6.24地上波金曜ロードショーにて鑑賞。内容は、玩具が子供の見えない所で自我を持ち動き回る。個性のあるキャラクターが繰り広げられる子供と玩具達の関係の物語。好きな言葉は、『ゴミ・・・』今回のメインキャラクターの先割れスプーンのフォーキーの言葉。自我をもった瞬間!子供の鞄の中で命が吹き込まれた瞬間は感動的で驚いた。玩具=ゴミの関係性については持ち主の主観による所が大きいので非常に罪悪感を刺激される面白いテーマになっている。『持ち主・・・』この台詞も玩具世界で、ある種の呪いでタブーだと思われている所は興味深い。今回のトイストーリーでは、テーマは『内なる声に耳を傾ける👂』だと感じました。主人公が親友のバズとの会話での場面は哲学的で非常に面白いと感じます。これはピクサーの責任者で立役者のジョンラセターが、諸事情で作品途中で解雇され物語のストーリーボードが大幅に変更された所は商業作品としてより、文学的な表現を重要視された部分だと感じます。それが分かりにくく大人な作品になってしまい子供の作品としての表面色が薄くなってしまった深い作品だと感じました。玩具ホラーCG映画としての色が強くて非常に怖かったです。子供が観ると夜眠れなくなるかもしれません。個人的にはミッドポイントの転換点に出でくる今回の新キャラ!カナダ玩具のカブーンが味があって大好きです。カブーンだけでも話を広げていけそうです。作品の終始通して伏線が上手く張られていて計算されたストーリーボードと人が怖いモノとして描かれている所はトイストーリーのテーマの一つであり今回はテーマ性が、上手に練り込まれてるシリーズでは一番好きな、素晴らしい作品です。
ちゃんと卒業できていますか
持ち主も成長して卒業した。
かつての恋人も成長して卒業していた。
そして、ウッディも成長して卒業してゆく、そのタイミングの物語。
同時に
観客にも問い掛かる。 「あなたも、ちゃんと成長して、卒業できていますか?」
ちゃんと成長して、卒業できている人には、この映画は肯定的に見えるだろう。
まだ成長している最中の人には、背筋にナニヤラ居心地の悪いメッセージとして、否定的に見えるだろう。
僕の中の まだ成長したくない部分の僕が、ちょっと寂しくも感じたラストだったけれども、
僕はウッディの選択を、意思を、肯定してあげたい。応援してあげたい。
ウッディは偉いよ。
玩具の役割として、子供を見守り、ちゃんと成長させて、卒業させるところまで、
迷いながらも、自分の生き様で示してくれる。
(次回作あたり、移動遊園地すらも飛び出し、もっと広い世界へ飛び出すかもしれない!)
玩具仲間たちも、既に成長して旅立ったものもいる。
残ったバズたちにもいずれ、ひょっとしたら、そういう時が来るのかも知れないね。
アメイジングトイストーリー
新しく生まれ変わったボー・ピープを主人公にした、全く新しいトイストーリーです。
この作品は、トイストーリーの続編、シリーズものとして楽しむのではなく、キャラクターは同じものを使いつつ、これまでとは隔絶された単品として観るべき映画です。
スパイダーマンとかバットマンだって、キャラクターは同じでも、中身は全然別物ですよね?
そんな感じで、あぁ、これはこういう新しいトイストーリーなんだ、そう見ると、色んな良さが見えてきます。
事実他の人のレビューを読んでると、これまでのトイストーリーの中ではこれが一番好きかなとか、前作知らずに見たけど楽しめたとか、そういう意見もあります。
1〜3のシリーズに縛られず、新章、別シリーズ、ドラマ版みたいな感じで見ると良いはずです。
一方で、もしトイ・ストーリー3の続編として捉えるなら、こう言わざるを得ません。
金を儲けるために、最高の作品の続編を作れという無理難題に対して、必死に絞り出して作った、愚作だと…
ファン全員が思っていたことですが、やはり4を作れというお題がそもそも無茶だったのです。
トイ・ストーリーは、あらゆる面で、3で完全に完璧に完結していました。
世界初の長編3Dアニメーションという表現としても非常に意欲的かつおもちゃのバディムービーという新しいジャンルを切り開いた1から始まり、魅力的なキャラクターの追加とおもちゃとしての幸せの在り処を描いた2、公開時期に合わせてアンディをリアルに成長させる演出、高クオリティな映像とアップダウンの激しいストーリー、アンディの決断、お母さんの表情、おもちゃの悲哀と友情、登場キャラクターそれぞれに感情移入できるよう設計された、老若男女全てが楽しめる映画史上に残る傑作の3…
この続きをいくら普通に作ろうとしたって、重箱の隅をつつくような、薄味のものになってしまうに決まっているのです。
トイストーリーという名前である以上、おもちゃのルールに縛られるし、キャラクターに縛られるし、3を超えて4を作る必要性も描かなくてはならない。こんなハードル高すぎます!
案の定、まだ使われてない、またはもう一回使えそうなおもちゃの悩みはコレかな、キャラクターを増やす、または戻すとしたらコレかな、ギリギリ変えれそうなキャラクターの設定はコレかな、予想を裏切るラストはコレかな…
そんな縛りだらけでは、当然映画なんか作れませんので、おそらく製作陣は「4を作る必要性」ということを最優先事項にして、つまりラストシーンのためだけに、映画を作ったのだと思います。そのせいで、シリーズとしては矛盾だらけ、既視感満載、影の薄い仲間たち、といった燦々たるものになりました。
ウッディの性格なんて、今更言われるまでもなく分かってますし、フォーキーのゴミのくだりだって、3がもっと重々しく語っています。ゴミ文脈でいうなら、焼却炉のあの絶望感に勝てるわけないでしょう。デューク・カブーンの跳べない設定は1でバズがやったやん。オマージュ?見逃し配信?
ジェシーの閉所恐怖症は、サイドストーリーの「トイストーリーオブテラー」で乗り越えてるはずですし、同じ話に出ていたカールって仲間を無視するようなキャラだっけ?まぁ別モデルなんでしょうけど。
バターカップの毒舌は正直どうでもいいけど、なんであんな事を考えるかわからないし(おもちゃを踏んづけるお父さんを恨んでた?)、みんなでクルマをぐっちゃぐちゃにして、なんで持ち主のことを考えないの、こんなんでウッディなしでやって行けるの?
今回解決策としておもちゃのルールを逸脱し過ぎ。しゃべりすぎ。それでいて新キャラのダッキーとバニーがルールを侵す提案をして笑わせようとする。いやいや、やってることほとんど変わらないから。より大袈裟なルール破りを見せる事で、大目に見てもらおうとしていることが小賢しいですよね。もっとオモチャならではの解決策を考えてよ!なんでもありやん!
そもそも、バズのボイスにあんなバリエーションはなかったはずやんね。赤いボタンを押すたびに出てくる無限のボイスバリエーションこれなに。突然あらわれた「心の声」という謎の設定をクリアするためだけの機能でしょ。
ふざけんなと言いたい。
誰が共感するんですか、あの行動原理に。
トイ・ストーリーの面白さは、それぞれのおもちゃが、生まれながらの自分の設定を乗り越えて、自分の意思を持って行動することじゃなかったんですか?それこそが、心の声に従うってことじゃないんですか?
ボイスは自分のおもちゃとしてのただの機能なのに。よりによってなんでバズを、主人公だったはずのバズを、前作を否定するための胸ポチポチバカに変えちゃうんだろう。凄く悲しいです。
とまぁ、不満が無限にでてきますが、これって見る側に先入観があるからなんですよね。
トイ・ストーリーという世界でのルールはこれだとか、1〜3のシリーズを踏襲してると思うから、そう考えてしまうんです。
だから、全く別物として楽しむべきなんです。
サム・ライミ版とアメイジングとMCUのスパイダーマンは色々違うけど、まぁべつによくて、その上で自分はこれが好きかなーみたいなのがあるじゃないですか。
ターミネーターだって、2が最高だけど、そのあと作る続編も、一個前のを無かったことにしたり、てんやわんやしていたら、見てるこっちは、あぁこれはもう別のターミネーターだよねって、思い始めますよね。
そこまでいくと、もう記号でしかなくて、これからいくつターミネーターとして駄作を作ろうと、2の感動は薄れはしない。
トイストーリーも4以降は、こうあるべきなんです。3で完結して、4は全く別物だと。そうすると、無駄な水増しで、3までの感動、完成度を薄めなくてすむ。あぁ、こういう解釈もありかもね、実はそこだけは気になってたんだ、ふむふむ、それも面白そうですね、そんな感じ。
冒頭に述べましたが、こう考えると、良い部分が見えてきます。
ボーはいいですよね。
この映画で一番かつ唯一存在感を発揮しています。
元々自分の女性としての魅力を理解していて、それをしたたかに利用するセクシーで芯のある女性でしたが、そこから数年の苦しみを乗り越えて、吹っ切れた視座の高さと、前向きさと、アクティブな強さを身につけている。割れやすい陶器という設定も、割れたって気にしないわって感じで突き進む。
プリンセスでいうと、ボーはアニメ版のジャスミンに近いのかなと思っていたのですが、実写版アラジンよりもはるかに上手に、成長という過程を挟んだ上で、現代風の自分の意志で生きる女性にリファインしています。
ただ、ウッディにあんだけチューチューしていた過去、恋人だった過去は、無かったことになってます。あぁ、元彼なんてこんなもんですよね…。
ダッキーとバニーも可愛いですよね。ラストのレーザーのくだりとか、制作側が遊んでいる感じがして好きでした。チョコプラは吹き替え上手です。
あと、嬉しいのはブリキのおもちゃティニーの出演です。トイ・ストーリーの原点と言われている、ジョン・ラセターの短編CGアニメーションの主人公がティニーでした。一瞬の出演でしたが、可愛かったなぁ。フィギュア欲しい。
それから敵側に関して。
ベンソンは、ストレートに怖いですよね。あーまだ腹話術の人形って使われてなかったんだ、良いとこ突いたなって。3のビッグベビーみたいな深い設定はゼロで、最後に救われるわけでもない使い捨てキャラだったけど。ホラーでした笑
ネコの扱いはひどいですね。1のシドの犬スカッドみたいな完全な悪者で、キャラも使われ方も被ってます。名前もないし、完全なゴミキャラでした。
ギャビーギャビーは、だいぶ問題児ですけど、リアルにいますよね、ああ言う人達。可愛そうな子なんですよ。生まれ持ったハンディキャップだけが、自分が愛されない原因なんだと思い込んでいる。でもそれが間違いだったことに、残酷な方法で気づかされる。
最初のボイスボックスのくだりは、ウッカリ、怖い!とか変な声!って笑っちゃいましたけど、本当は生まれつきの故障で、本人は本気で悩んでいる部分だってわかった時は、結構グサリときました。
思いがけず人を傷つけてしまうこともある。人間社会でも気をつけなきゃって。
と、ちょっとこちらが同情しそうになった瞬間、この映画は今度はギャビー側に痛烈な反省を促すんですね。
勝手にコンプレックスを持って、そのせいで愛されないと思い込んでいたけど、逆に、それ以外の自分の改めるべき心に目が行っていなかった。自分が一番可愛そうなんだから、他者が自分のために犠牲になるのは当然だし、そいつがどうなろうと知らないよ、というエゴにまみれた心です。
周囲が理解することはもちろん大事だけど、自分が辛いからと言って変わる努力もせず、権利の獲得と承認を声高に叫ぶのはどうなのか。そう訴えているように思えます。
結局生きて行く上で大事なのは、勇気を持って自分の心を変えること。そうすれば、必ずどこかに自分を認めてくれる、必要としてくれる人がいるということなんでしょう。ギャビーのラストはそういう救いがありました。
(まぁそれならそれで、直った声をもう一回ぶっ壊すとかして、心を入れ替えることにフォーカスしたほうが良かった気がしますが…)
ラストシーンは、こうするしかないでしょう。
単純に、仲間たちとの別れのシーンとして、泣けました。
このシーンはまた、ハッキリと過去作と決別することを意味しています。
3のラストの感動は、アンディが「ウッディにとって一番の幸せはなんなのか」を考えた瞬間にありました。おもちゃ側からすると、「またその子が大きくなり、捨てられる時が来るかも知れないけど、永遠ではない一瞬一瞬を大切に過ごそう」という意志がありました。
命あるものの儚さ、人間もおもちゃも、限りある命をどう生きるのが幸せなのか。何が正解かはわかりませんが、少なくとも彼らが選んだ一つの答えが提示されていました。
一方4のラストは、おもちゃとして「生きる」のをやめ、ある種の精霊みたいなものになることを決めたのです。
これを人生の新たな選択肢だとか、役割からの解放だとか、そういう風に解釈する人もいますが、僕は違うと思います。今回のウッディの「おもちゃであることを辞める」という選択は、ファンタジーの中のおもちゃ(トイストーリー)だから出来ることであり、現実の人間が選べるものではない。人間をやめるには、人の間にいることを拒絶する、つまり、世間から隔絶し空想の世界で孤独に生きるか、死を選ぶしかないのです。
(「おれは人間をやめるぞ!ジョジョーッ!!」とか言って吸血鬼になるのはありかもしれません)
このラストでウッディは、私たちが親しみを抱くおもちゃではなく、「トイストーリーというおとぎ話のキャラクター=ウッディ」になる事を選んだのです。
だから、今後はなんでもありです。
おもちゃとしての自分の役割との葛藤は無くなり、ウッディ&ボーが世界を冒険するアクションムービーへとなり得ます。
こうなると、おもちゃである必要はなく、動物が主人公でも一緒です。ペットではなく、何からも自由な野生の鳩やネズミですね。
大きく方向性を変えたので、トイストーリー5だろうが、サイドストーリーだろうが、なんだって作れます。
また続編が作れるよ。良かったね、ディズニー。
でもいくらナンバリングタイトルが出て来たって、トイ・ストーリーは3で完結しているんです。
トイストーリー4は、今は間違って4って付いてますけど、おそらく後付けでアメイジングトイストーリーとか、トイストーリーホームカミングとか、そういう感じになるんです。
ウッディは既におもちゃとしての「声」を失いました。もうおもちゃとして子供に語りかけることはありません。
寂しいけど、商売だ、仕方ない。
新しいトイストーリーを温かく見守っていきましょう。
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