私の少女 : 映画評論・批評
2015年4月28日更新
2015年5月1日よりユーロスペースほかにてロードショー
キム・セロンが迷いなく形作る孤独な少女の得体の知れなさと磁力
覆し難い現実に、白い頬をこわばらせ鮮やかな頑固さで抵抗し続けた「冬の小鳥」の9歳の少女。酷薄な世界に向けた彼女の闘志を華奢な体に刻みつけた女優キム・セロンの演技とみえない演技は今も圧倒的な忘れ難さで迫りくる。そのセロンがいったんは断った「私の少女」(「冬の小鳥」と同じイ・チャンドンが製作)の14歳のヒロイン、ドヒを「私がやるしかない」と受けて立った時、脚本・監督チョン・ジュリ渾身の長編デビュー作の成功は約束されたと断言してみたい。
天使と小悪魔、無邪気と邪気、無垢の微笑みと罪人の周到な上目づかい。あやしく微妙で繊細な善悪の境界線上で軽やかに舞い、もうひとりのヒロイン――ソウルから左遷された警察所長(ペ・ドゥナ快演!)を翻弄する少女の得体の知れなさ、それゆえの磁力を透き通った表情で迷いなくセロンは形にする。実際、彼女のそんな透明な存在感あってこそ一筋縄ではいかない主題(幼児虐待。不法移民。法の正義と人のそれ。母性愛と性愛、保護と支配・抑圧の境い目は――)を幾重にものみこんだ本作の不思議な風通しのよさは獲得されたのだろう。安易な答えも押しつけがましい教訓も出さないまま映画は愛を、孤独をみつめる。闇の先にぽっと浮かぶ小さな灯りにも似た希望を差し出す。それをセロンの演技の清澄さが裏打ちしてみせるのだ。
無論、正体のつかめなさこそが少女という存在の核心と心得た新鋭監督の確信犯的な描写、サスペンスの芽の埋め込み方も見逃すわけにはいかない。開巻。所長との出会いの場、カエルとテントウムシと戯れているドヒの幼さの背面に、一方をもう一方の餌食にする子供の企みの残忍さをも映画は忍び込ませている。そうやって指し示される少女の奥行は、もうひとりの少女に他ならない所長の孤独、秘密とも共振する。ふたりを繰り返し並べて切り取る監督はじわじわと相似形の鏡像を成立させていく。「私と行く?」のひとことに先導された幕切れをふたりの少女に用意して、映画は名づけ難い愛の境界を果敢に超えてみせる。人の複雑さとそれゆえの逞しさを提示するそこに至る道のりをぜひ、スクリーンで確認してみてほしい。
(川口敦子)