バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)のレビュー・感想・評価
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トリジンということでしょうか?
マイケル・キートン、エドワード・ノートン久々に観た。トリジンとしてアタマがおかしくなって、それで、後半確定したのでしょうか。わかりにくい映画でした。現実と妄想が混ざり合う映画の文法は、現在完了進行形みたいなトンチのような表現と思います。ある程度意図したところに観客を誘導しての自由な見方というのが私は好きです。俺の作った映画を、観るお前が考えろ60%くらいは!といわれてるようです。
・誰しも、これ程大きな過去の栄光は持っているわけではない
・誰しも、嫁と別れてソコソコボインとは付き合えるわけではない
・誰しも、栄光を取り戻すためのチャンスが死ぬまでに巡ってくるわけではない
・誰しも、娘がマリファナやってるわけではない
・誰しも、トリジンと会話してるわけではない
落ちぶれる自分に再起が訪れることを
想像したりはするのは、理解できる。
ありえもしないことを映画にしたらアカン
ではなくて、共感のポイントが細かく
はまらなくて、気持ちが削がれて、
ラストシーンの結局お前が判断しろ
という監督のメッセージで冷めました。
総論賛成、各論反対
というような映画でした。
役者やなにかしら演じる仕事に就いてる人には心に刺さりまくる作品だっ...
役者やなにかしら演じる仕事に就いてる人には心に刺さりまくる作品だったと思う。
撮影方法が独特で、またタイミングを見計らったかのように聞こえてくる太鼓の音がそれに違和感を持たせない素晴らしいバランスの映画でした
ブロードウェイを見知ってる人なら
マイケルキートンがあの格好で歩くことの凄さにたまげるかもw
エドワードノートンがとてもよかった!
登場した序盤では周りを翻弄し目を釘付けにして離させないのだが、中盤終盤と主人公の状態によってなんの違和感もなく存在感を操ってモブの1人になってしまうのだ。
マイケルキートンの演技、脚本、特に撮影方法の効果もあるが主人公の精神状態をさす目盛のひとつとして完璧だった
ファイトクラブでも最高だと思っていたが、もっと最高な俳優だった。
ラストはきっと夢や妄想だったのだと思う
舞台は映画より上か
ストーリー
リーガン トムスンは、もとハリウッドスーパースターで、「バードマン」という3本のブロックバスター映画を主演し、数十億ドルの興行収入を稼いでいた。しかし、そんな過去の栄光から数⒑年も月日が経ち、妻には離婚され、娘はドラッグ中毒から抜け出したばかり、役者としては鳴かず飛ばずで冴えない。しかし、落ちぶれても役者魂は健全だから、一念発起してブロードウェイで芝居を監督、主演することになった。
芝居はレイモンド カヴァーの短編「愛について語るときに我々の語ること」だ。やっとのことで公演にこぎつけたと思ったら、役者の一人が怪我で降板することになり、ブロードウェイで活躍するスター、マイクが代役を務めることになった。マイクは良い役者だが、わがままで自己中心の芝居オタクだ。監督、主演のリーガンを怒らせてばかりいる。おまけに大事な娘が一番くっついて欲しくないマイクに「ホ」の字で、気になって仕方がない。おかげで初演はさんざんな結果で終わり、批評家からは、ひどく酷評される。それでも一旦始まった興行は続けなければならない。リーガンは芝居に、もっと強い緊張と臨場感をもたせるために、舞台で使う拳銃を本物のけん銃にすり替えた。そして、、、。
というお話。
「舞台は映画より上だ。」と映画の中で、主人公リーガンが言うセリフがある。本当だろうか。
掃いて捨てるほどの娯楽映画が制作され、映画産業は拡大する一方、派手で意味のない映画ばかりが幅を利かせている。そんな中で、良質の映画製作を続けている映像芸術家や映像作家たちは、確かに存在する。彼らが手掛ける先端技術を駆使して、映像、美術、脚本、原作、音楽、舞踊、衣装、フイルム編集すべてを統合した総合芸術として製作される映画というものは、そのスケールの広がりからして、芝居を超えているように思える。
しかし、一方で舞台はやり直しが効かない。舞台と観客との1回きりの真剣勝負だ。ミュージカルに出演(主演ではない、端役だ)している女性と話したことがあるが、舞台前と、舞台がはねた後とでは、体重が少なくとも3キロは落ちているそうだ。それだけ2時間の公演で体を酷使して全身を使って役を演じて体重をそぎ落としているのだ。
また、アマチュアオーケストラでヴァイオリンを弾いていたとき、舞台上では、オペラ「魔笛」をやっていた。冷たい女王とパパゲーノを前に、どっしり貫禄の王様が登場し、その場を収めるシーンで、王様がせりふを忘れた。舞台上の役者たちもオペラを見に来た観客も、沈黙の50秒だか1分だかの長かったこと長かったこと。遅れて王様が思い出して歌い出したから良かったものの、この歌い手はひどいトラウマを抱えたことだろうし、観客は彼らの公演に二度と来ないかもしれない。ことほど左様に、やり直しの効く撮影や、編集でミスを消せるフイルムと、一発勝負の舞台との差は大きいい。同様に、生で聴くオペラは、一流歌手の歌うオペラのCDより価値があるし、ライブミュージックはミュージックビデオより価値がある。
だから、舞台は映画より上だろうか。
そのライブでやり直しの効かない真剣勝負を映画でやろうとしたのが、この映画「バードマン」だ。長廻しのワンテイクカメラワークで映画を撮影した。フイルムを撮っては切って継ぎ足してパッチワークのように継ぎ接ぎしたうえ、CGテクニックを駆使して役者を使わずに動きを加えたり、背景を水増ししたりフイルムテクニックでカバーする。そういった現在の映画作りへの反抗、挑戦でもあったのだろう。ワンテイクだから、一人でも役者がとちったり、タイミングが他と合わなかったら、また初めからフイルムの撮り直しだ。準備不足とか、ハプニングとか、役者がどもったり、つっかえたり、ころんだりするのさえ許されない。カメラが行く先々で、準備万端、約束通りに登場したり、消えたりする役者たちの緊張は筆舌につくしがたいほどではないか。ブロードウェイの雑踏を歩くシーンがたくさん出てくるし、エドワード ノートンが素裸になるシーンも出てくるが、写ってならないものが写らないように、失敗の許されないカメラワークも、緊張の連続だったことだろう。
バックミュージックにドラム音を多用していて、画面に緊張感を与えている。ニューヨークの雑踏でドラマをたたくストリートミュージシャン、これを背景に芝居がうまくいかなくて、どなりまくるマイケル キートンとエドワード ノートンが とてもおかしい。いつまでも芝居バカで、役者狂い、二人ともいつまでも青春やっている姿。それが滑稽なのは、観ているわたしたちにも共通する「いつまでも成長できない自分のなかの青春」を抱えているからだ。
そんな成長できない「男」を、彼の芝居をよく理解して見守っている別れた妻が居る。彼が落ち込んでいるので励ましに来たら、すぐ図に乗って男は、妻とよりを戻そうとして俗物性丸出しにする愚かさ。そしてそんな父親を激しく批判しながらも、深い愛情で観ている若いが人生に疲れたドラッグ娘も、この男には、できすぎた良い娘なのだ。 数10年前映画「バードマン」を主演した、かつてのスーパーヒーローというが、彼は自分なりに芝居の道を歩んできたのであって、冷たいが理解のある元妻と娘をもち、ブロードウェイで芝居を続けられる幸せな男ではないか。批評家にこてんぱんに批評されても、妻子にきついことを言われても、芝居のパートナーに演技で追い越されても、良いじゃないか。でも、それを良しとせずに、いちいち脳天から火がでるように怒り、ジタバタして、悩んで、過激に反応するマスター キートンが、とてもとてもおかしい。本当に役者がすべての人生なのだ。喜劇映画じゃないのに、とても笑える。
酔った勢いで芝居評論家に毒付いて暴力的ともいえる詰め寄り方をして、批評で「完全におまえをつぶしてやる、」とまで言わせる。この人は、最後の舞台で銃が放たれたと同時に、席を立って出て行った。このぼやけたシーンが良い。ここで感動した。芝居のパートナーに、「舞台でおまえが玩具の銃で脅かしたって全然怖がってなんてやれねえよ、」と言われて自分の演技に勢いがなくなったのを指摘されたと思い、怒り狂って本物の銃を出してくる、彼のとっ拍子もないアクション。これは何だ。舞台への愛、「舞台:いのち」という男の舞台への深い深い思いを描いた作品なのだ。
舞台の好きな人、役者をやって人の熱狂を体験してしまったことで役者としての昂揚感が忘れられない人、演じることが好きで好きで仕方がない人にとっては、この映画は忘れられない映画になるだろう。
画面が一様に暗くて、全部がいつも「舞台裏」みたいに見える感じで統一されている。
最後のシーンでは、「バードマン」は役者として突っ走っていって飛ぶが、墜落して死ぬと思うけど、「バードマン」は、人々に希望を与え続けていくことだろう。
役者は誰もが「役者ばか」で、役作りに悩み、役になりきって悩み、死ぬまで役者だ。実験的作風で、この監督の「舞台への愛」がしっかり伝わって来た。おもしろい作品だ。
バードマン
長回しのカメラワークが
独特の緊張感を与える。
妄想から逃げる事ができない、
窮屈な閉塞感は、楽屋裏の
狭い廊下のようだ。
突き当たりのドアを開けると、
過去と現在と現実と妄想が、
シームレスにつなぎあわされ、
見ているものを、
奇妙な混乱へ陥れる。
主人公レーガンは、
開き直るように、
死へと突っ走る。
エゴや見栄、栄誉や屈辱
全てのものを投げ出して。
あのシーンは想像したが。
東宝シネマズで鑑賞
ステージの落ちを最初に見た瞬間、
あ、最後は本物の銃を使うんだな。
と思ってしまった。多くの鑑賞者がそうなのではないか?
ラストシーンを何にするかさまざま考えられたと思う。
ステージで終わるラスト。
新聞記事で終わるラスト。
バードマン出して終わるラスト。
本作のバードマンが飛び去るシーンを連想させる終わり方。自分は好きでした。
なかなか見ごたえがありました。
昔とった杵柄。。。的、哀れな男
飛行機内鑑賞②。
予告を観てから、観てみたかった映画のひとつ。
正直言って、もっと笑える映画かと。
超能力を使えるバードマンが起こす単なるドタバタ劇かと。
私は、洋画にまったく詳しくないので、オマージュとかにはまったく気づかないのですが、
彼をかなり哀れな存在に仕立て上げていること、
ハリウッド的な豪快でお金をかけ、街を壊すヒーローものなどを皮肉っていること、
記者の書いた記事ひとつで映画の評判は大きく変動するという映画界のゆがみ?
など、かなりの皮肉にあふれた物語ということはわかった。
すべての瞬間が一つの空間であるような、同時進行的であるような
長回しのカメラは個人的にはあまり好きではないけど
音楽と相まってこの悲しい雰囲気を表すのに効果的だったのかもしれない。
昔の栄光にすがる、哀れで悲しい男のものがたり。
これが、私がこの映画につける感想です。
・・・・・
最後、わたしは彼は死んだんだと思う。
現実と虚構の間
初めの一時間は正直言ってあまり好きじゃなかったです。アメリカ人の苛立ったおっさんたちが怒鳴りあうシーンが長回し(もどき)で延々と続き、疲労、フラストレーション、衝突しているおっさんのダンディズム的な雰囲気だったので、長回しもどきがとにかく重く感じられました。今までそういう映画は山ほどあるので、芸術映画気取りで、またか、という感じでした。
ただ後半は秀逸で、前半でイマイチ映画の中で存在理由のわからなかった破天荒な俳優の主張(ストイックなまでに舞台にリアリティーを求める姿勢)が、主人公の人生の中で実現していく。その過程がまるで「ブラックスワン」のように、意図と無意図の間で、極限状態の中で奇跡的に実現する。現実が虚構に侵入する、もしくは虚構が現実に侵入するというとても奇妙な現象、そしてそこに一瞬の芸術のひらめきを求めること、それがこの映画の意図だと思います。俳優として生きるゆえに、家族を顧みず、人間としての自分の人生はただの空洞だったと嘆く主人公に、それがあなたの人生だった、現実だったと励ます元妻の言葉がそれを物語っているように思います。芸術とそれ以外の芸術に類似した表現、例えばデザインや漫画などの大衆文化との違いは、作者の現実がいかに如実に再現されているか、ということだと思います。逆に言えば大衆文化でも芸術の高みに消化される可能性は十分にあり、昨今ではその境界線の探り合いが盛んにされているような印象を受けます。
この映画は、「ブラックスワン」の極限状態に一瞬きらめく真実の美、「君と歩く世界」での、虚飾のないリアルな物語性、そして「ゼロ・グラビティー」での長回しによる体験としての映画、を思い出させます。
それにしても、イニャリトゥ監督といい、クアロン(ゼロ・グラビティ)の監督といい、知る人ぞ知るアルトゥーロ・リプステインといい、ギレルモ・デル・トロといい、メキシコからはかなり優秀な映画監督が出てきていますね。
わからん。
なぜアカデミーを獲ったのか理解できない。
俺がバードマンを理解できるほど成熟してないのかと思う。
全編1カット風味で話は進む。
あくまで、風味。
日付けが変わったり時間が飛んだりする。
そんな事があるから、上手い事CGで誤魔化してあんだろなと思う。
実際、1カットで撮ってたとしても、長回しに拘る必要を見出せない。
編集次第と言われる映画業界に真っ向勝負ってわけでもないだろう…。
実際、1カットに見えるような編集は入ってる。
話題性なのかしら…。
ただ、カメラが切り取るアングルは、いちいち気持ち良かった。
時々1カットだという事を忘れる程に。
最後、主人公は幻に嫌気がさして自殺したのかと思いきや、空飛べてましたみたいなオチで、益々薄っぺらい人間の性を…ん〜…踊らずにいられない人間の悲哀をとでもいおうか、そんなものを感じました。
だからと言って教訓にしようとか、共感できるとか、救われるとか、そういった類の感情は一切湧かない。
文句をひとつ
『ゼロ・グラビティ』が凄かったのは宇宙を舞台にしているのに描くのは一人の女性の「生きたい」という単純な感情を本来なら見世物であるVFXを駆使して表現したことで、この作品もリーガンの「復活したい」気持ちを中心に描いており小説に例えるなら心象を描いた日本でいうなら私小説に近いつくりだ。だから冒頭の隕石も浮いているも街角で怪獣と戦闘があるのも空を飛ぶのもリーガンの心象、心の中を描いているからおそらくそのためのノーカット(風)演出なのだろう。
「復活したい」リーガンは自分がいるブロードウェイがリーガンと同じ人間達がたくさんいる場所であることを知りショックをうける。辛口の批評家も浮浪者もおそらくかつては舞台俳優を目指してしていたのだろう。そんなところにリーガンは飛び込んだのだ。
心の中のバードマンはささやく「こんなところやめてはまたヒーローやろうぜ。人が観たいのは中身の無いハデな見せ場なんだ」
そのささやきにリーガンは気がつく、そしてクライマックスでまさしく「人が観たかったものをみせる」のだ。バードマンの目的とはちがう方法でだ。
これがアカデミー賞をとるのはよくわかる。演劇人にコンプレックスを感じているかもしれない映画人ならこのラストを支持するだろう。演劇よりも映画の“勝利”だからだ。
ただ、ひとつ不満がある。リーガンは今の表現でいうと『エクスペンダブルズ』シリーズに出そうな設定だが、演じているマイケル・キートンはけっして下手な演技をしない役者さんだ(だから、ライバルに彼よりも演技が上手いエドワード・ノートンを入れたのかもしれない)だから、そこにどうしても違和感を感じてしまい個人的にはなにかしこりが残ってしまった。
せめて彼に主演男優賞をあげろよ!
映像と音楽
アカデミー賞を受賞したという事で観に行きました。
賛否両論あるようですが、私は好きです。
やはり、カメラワークがとても面白い!現実と妄想が一緒になっていたり、音楽が盛り上がると実際にドラム演奏者が出てくるところとかツボでした。
思ったよりコメディ色が強くて楽しめました。
ストーリー展開は割と普通。映像と音楽を楽しむ映画だなと。。
あの寺島しのぶのネタバレは本当に罪ですね(笑)でも言いたくなっちゃった気持ちが今ならわかります。ラストカットは最高でした。。エマストーン、いい味だしてました。。
悪夢だとか
ダークファンタジーだと言いながら、細かい笑いがたくさんあったりして、無駄に暗くなったりせず、変な毒を貯めることもなく、わりとライトに見られてよかったです。
藤子F不二雄さんの短編SFなんかにもありそうな感じもしました。
最後は救いもあってよかった。あれは本当に飛んでてくれて良いと思います。
手放しで面白かったといえないが…
午前9時過ぎからの観賞。イメージとしてはもう少しリラックスできると思ってたら、とんでもない。効果音とカメラワークと癖のあるエゴをさらけ出す役者陣にすっかりやられてしまった。元バットマンに元バードマンを演じさせるキャスティングだけじゃなく、舞台が映画より上、とか色々な毒っ気も散りばめてあって、こういうの好きな自称映画通には刺さる映画だなぁ。
終始力が入って疲れたけど、最後の目線にはやられたな。
実験的な作品を想像し、さらに実現して、なおかつ面白い
映画を珍しい手法で撮ったからといってそれが素晴らしいわけでもない。普遍的なイノベーションであれば別だけど今作はそうではないだろう。それでも『アバター』や『ゼロ・グラビティ』がそうであったように「そう撮ることで新しい感動が生まれる」のであればもう手放しで称賛したい。
正直、ストーリーや人物造形についてそれほど掘り下げることもないだろうとは思う。超能力やバードマンの描写については妄想の産物だと言い切れるし、それらはどちらかというと今時のブロックバスター的な作品群への皮肉としての道具だと捕らえている。言うなれば悪ふざけやジョークの類で遊び心と言ってもいいのでは。ラストのことを思えばこの長いタイトルさえも虚しいし、悲しいのだ。そう、しっかり考えると悲しい話でしかない、と思う。でもそれだとコメディとしての価値が自分の中で保てないので掘り下げない。
登場する主要の演者たちが実際のキャリアとかぶるような役になっているところはそれら背景をあらかじめ知っていないと笑えないので内輪受けと言えばそれまでだったりもする。名作というより良い意味で迷作であり快作である。もう一度観てあのリズムに浸りたい。
延々とワンショット(風)のカメラワークは臨場感すごいし、クライマッ...
延々とワンショット(風)のカメラワークは臨場感すごいし、クライマックス近くとのコントラストが際立つ仕掛けは充分効果的。「フィルス」に通じる所もあるが、あちらほど破滅的ではないまま物語は進行。
オープニングから夢想と現実の行き来が繰り返されるので、観客はラストの出来事をどう解釈するか悩まされることになる。ここをはっきりと描かなかったのは監督の趣味だよな絶対。ズルうまいわ。きっとラストは何パターンか用意してるぜw
キャスティングは秀逸! ハングオーバー!シリーズのヤツがいちばんマトモな役回りだとかwww ポップコーン度は低いほうね。
予期せぬザック。
満を持しての作品賞の公開。しかし元バットマンがバードマンに?
なんて冗談も大概にしろよと思うキャスティングがバッチリ嵌った。
いや~面白かったの何の!好き嫌いが大いに分かれそうな作品だが、
個人的には大ウケ&バカウケ。途中で何回ケラケラと笑ったことか。
今や落ち目俳優リーガンの起死回生を懸けた舞台プレビューを追う
ほんの1~2日間を描いただけの話なのだが、観てる方は疲労困憊。
全編ワンカットで撮ったかのようなカメラワークにも酔いしれるが、
背後に流れる即興演奏のドラム、癖ある芸達者達のキワモノ感、
リーガン同様で嫌になる痛烈場面ばかりなのに瞼は開きっぱなし。
さぁどうする?次はどうする?パンツ一枚になって街頭を歩く(爆)
リーガンの名場面はそういうことだったのか!?とSNSの反響を
体感しながら(これシェフ!と同じ感覚ね)バードマンが囁く超自我に
彼がどんどん目覚めていく飛翔場面はハリウッド製の爽快なロマン。
映画界を皮肉り演劇界を批判し役者のエゴも剥き出しにしているが、
どのギョーカイにも存在する「裏側」を丁寧に描いていて分かり易い。
舞台で本番に挑もうとする俳優や、アンコールを笑顔で罵る俳優達、
実名入りでバンバン貶すところなんか(大丈夫か?)楽しすぎて爆笑。
リーガンと批評家タビサの一騎打ちなんて鮮やかすぎて隙がない!?
どんな罵詈雑言にも耐えうる屈強感が全くない彼のノーテンキな顔が
そりゃ芸術家を名乗る舞台専門家には何をこの馬鹿映画俳優が?てな
もんなんだろうなーといちいち納得するも、芸術家になれない奴が
批評家になる。なんて言葉にも大納得。場面は流れ、苦言は刺さる。
あちこちで巧い強弱をつけた展開は、バードマン自我に目覚めた彼を
一気に舞台で飛躍させるが…そういうことか~。ここでタイトルの
(無知が~)の意味が分かるけど、確かに予期できないわねぇあれは。
(あと予期してなかったのがザックの名演。あの馬鹿ヒゲ男が超普通!)
現実か夢か
ストーリーは難しくないし悪くないとは思うけど、都度画面で展開している内容が現実なのか妄想あるいは夢なのかが分かり難いことが多く、映画の中に入り込めず常に外から眺めている感じだった。
感情を受け止めて感じる作品だと思うけど、これは致命的。
娘のラブシーンも意味不明だしラストも現実ではないのかって…
ワンショット長回しがどうとか、そんなものもどうでも良い。
高評価される理由が自分には理解出来ません。
理解でけまへん…
難しかった…
レイモンドカーヴァーの短編小説を読んでたらもう少しわかったかもです。
でも村上春樹っぽいタイトルの小説でしたよね?
愛について話すとき私たちが語ること、でしたっけ?わー守備範囲じゃないわーと思いました。
ワンカットに見える映像に注目しすぎたのもあって、演劇と映画のストーリーのシンクロなど全然わからんまま見てしまい、エマストーンと日焼けマシン買いたがった男がいちゃつくあたりで、なんでそこでいちなりいちゃつくかな?となり、飽きてしまったともいえます。
とはいえ、ラスト付近の演劇評論家にけちょんけちょんに言われて、ブチ切れてバードマンの声を受け入れて本物の血を見せてやろうぜみたいになって、本物の銃で芝居をしはじめたあたりの流れはゾクゾクしました。
あれで自殺して終わりにならずに、ラストに窓の外でどうなったんですかね?
エマストーンわらってたし上むいてたし、地べたでクラッシュはしてなさそうだったけど…
映画界への批判など、ほう、と思える部分もたくさんありましたが。
疲れてるのもありましょうが、頭使ってみるのめんどくさくなって、結果、で?なんの話やったん?てなりました。
頑張って作った人ごめんなさい。
音楽と映像はすごくカッコよかったです。
エドワードノートンがうざくてうざくて仕方なかったともいえます。
難しい系の映画を二日連チャンでみたらあかんな。
描写がわかりずらいけどシンプル
エンドロールのドラム音がなった途端、やべえ!わからん!!という思いと共に、アカデミー賞受賞作が理解できなかった自分がアカデミー賞から見放された気がして辛かったです。はい。
でも、改めて噛み砕くとそこまで複雑ではない映画だよな、と思えました。
自分へのメモもかねて説明すると
主人公は過去のヒーロー映画の栄光を引きずり、娘からも尊敬されない、かなり落ち目の元スター。
再起を図りブロードウェイの難解な舞台に挑戦しますが、そこで自分の実力のなさと、ハリウッドの有名人ではあっても、真の芸術家たる舞台俳優にはなれないんだと、思い知らされます。
どんなに頑張っても結局は有名人としての評価でしかない。トラブルからのパンツ一丁騒動も、舞台俳優としての評価からは程遠いものだと、批評家の老女に言われて初めて気が付く体たらく。
主人公のおっさんは二日酔いの果てに本番当日、もう死んでしまおうと思うのです。バードマンにほとんど自我を乗っ取られてしまい、バードマンたる自分を殺して別人になりたい、なるしかないと思う。
この心理状態は偶然なのか、主人公が舞台で演じる役の心理状態、葛藤と一致します。
クライマックス直前、楽屋での元奥さんとの会話シーンは、舞台のテーマであった、愛について語るという事を初めて主人公が出来た瞬間です。死ぬことを決意してやっと元奥さんの心に響く、愛についての話が出来たのです。
そして自死未遂。観客はスタンディングオベーション、新聞の一面を飾りました。
そこでの謳い文句は、新しい表現の確立。
この新しいという所がキモで、それ故に批評家の老女はうけつける事が出来ず早々に客席を後にしたのでしょう。
その後のシーン。チープ極まりないアメコミヒーロー達が舞台上で何やらやっていたのは、主人公の夢なのかなと思います。そこにはヒーロー達が彼にとってチープなものであると決定的に認識された事を示しており、主人公の心の変化だと思います。
だから最後に見たバードマンもトイレで排便をしています。かっこ悪いです。
ラストシーンはバードマンではない新しい姿で羽ばたいた事を示し、娘に認めてもらえる父親になれた。というラストだと解釈しました。
実は結構シンプルでスッキリした話なんだと思います。
素晴らしいの一言
話題のワンカット撮りにまんまと引き込まれました
どこで繋がれたのか分からないぐらい、途中でそんな事どうでも良くなるぐらい引き込まれました
私はいかにもハリウッド!な映画も好きだけど、そのハリウッド映画をシニカルに見ていて、なおかつ、ハリウッド?ケッあんなの芸術じゃない!と上から目線で見ているブロードウェイ業界もシニカルに描いている所が、これがオスカーを取ったって事は本当なんだなーと
NYの演劇業界を裏から見たつもりになれました
誰しもifもしもあの時?とか考えてると思うし、まさに今自分がそう思ってるし、それを思っても仕方ないし、過去の栄光を再びって思ってもそうならないことを分かってる
人生にもがいている、だけど前に進むしかないよねー
自分では死ぬ思いで捨て身でやったことが以外と功を制して、願っていた結果になったのに、いざそうなると実際それが求めていた事じゃなかったけど、人生いいもんだよね、的なラストだと私は解釈しました
超能力も、最初なんだろう?と思ったけど、飛んで劇場まで来た後にタクシーの運転手が無賃だって追っかけてきた時に、あーこれも主人公のもう1人のバードマンのイメージなんだな、と理解しました
バックミュージックとドラムの音の使い方が素晴らしくて、その音のおかげでさらに引き込まれました
とても音も効果的
正直『バベル』はあまり好きではなかったしあの映画の良さが解らなかったけど、これはとても良かった
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