劇場公開日 2015年11月7日

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「秀逸なプロットと多角的表現のある作品」起終点駅 ターミナル R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0秀逸なプロットと多角的表現のある作品

2024年6月26日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

難しい

含みが多く多角的に描かれた物語
タイトルにも多角的な意味が忍ばせてある。
主人公の鷲田は異動先の旭川の裁判所で、学生時代同棲していたサエコの裁判で顔を合わせる。
鷲田が昔の女に心を再燃させるのはわかる。その代償として、お金という点において、妻と息子に不自由させない甲斐性もある。
この作品が問題としているのは、「代償」という概念そのものなのではないだろうか。
鷲田のこの提案はサエコにとって「特別にいい話」のはずだ。
「ねえ、駅まで知らない人のふりをしましょう」
すでにサエコは決断していた。真っ白いコートは白装束だろう。
鷲田の前で汽車に飛び込んだのはなぜだろう?
サエコの心境が理解できない。
そもそも、鷲田が司法試験に合格したと同時にアパートを引きはらった。
彼女がくれた合格祝いの万年筆を今も大事に使っている。
鷲田は結婚し4歳の息子がいたが、毎月サエコが経営するスナックに通い夜を共にした。
サエコの心情だけがわからないが、彼女は自殺した駅を「終点」に選んだ。
冒頭 吹雪く無人駅 一人佇む鷲田 線路だけがくっきりと見えている。
このシーンの鷲田の髪の毛の前頭部は白くなっているが、後頭部はまだ黒いままだ。
サエコが汽車に飛び込んだ時、鷲田は逃げるようにホームの階段を掛け上がった。
それはあまりにも予想外で突然のことだった。誰もが似たような行動をとるだろう。
鷲田はこれをきっかけに東京に戻ることもできたはずだ。しかし、サエコとの約束を果たした。彼にとって釧路は「終着駅」だった。
結婚に愛はなかったからか? どうしても学生時代のことが忘れられなかったからか?
自分自身、もう二度と家族と一緒に暮らせないと思う彼の心の中に何があったのだろう?
さて、
冒頭の駅は架空の駅だったのだろうか?
夢を見ていたのだろうか? それとも、誰もいなくなったあの駅で、この出来後のショックによって髪の毛が真っ白になったのだろうか?
「私、何もいらなくなったんです」
椎名敦子の言葉
おそらくエツコは、この言葉と同じ状態になったのではないだろうか?
エツコの店「慕情」 少なくとも鷲田が来る日に客は一人もいない。
慕情とは、学生時代に背中を追いかけていた鷲田のことだったのだろうか? 覚せい剤に手を付けて去った男のことではないだろう。男が去ったのも、サエコの心の中にあり続ける憧れを見抜いていたからではないだろうか? 覚せい剤とは男の心情の象徴だ。
サエコの心を教えてくれたのが敦子だった、ということだろうか。
敦子は、鷲田との交流の中で自分自身を取り戻したように見えたが、そもそもなぜオオバマコトを探してほしいと言ったのだろう? 逮捕されれば大下組にリンチされずに済むと考えたのだろうか?
窃盗で服役中の老女が「あなた結婚してないの? だから人の気持ちがわからないのよ」というが、鷲田は敦子の問題に関わることで自分自身について教えられるのだ。
鷲田は妻と息子に責任を果たした。しかし、彼らを顧みようとはしない。彼にとってはお金で代償が賄われると考えていたのだ。
息子の結婚式にも「いかない」と電話で言った。それはもう過ぎ去った過去で、責任を果たしたことで「会う理由」もないのだろうか?
少なくとも「会いたいとは思えない」
敦子は帰省する覚悟を決めた。一緒に行った厚岸市の実家。両親と幼い兄の娘の位牌。
10年間戻らなかった間に起きていた出来事。その位牌を大事に持って出る敦子。
家族について思いが揺らぐ鷲田。敦子は釧路を出ることに決めた。彼女にとってそこが「起点」だった。
裁判所で森山判事補と会うたび、彼は息子の話をする。鷲田にとっての一人息子が森山と被ってくる。
息子の披露宴に参加すると腹を決めた鷲田は、大下組の社長の車で釧路駅まで行く。
道中鷲田は大下に変な話をした。
釧路にいた時間は鷲田にとって「量刑」の時間。その間、家族に対する責任に向き合ってこなかったことをようやく知った。鷲田が初めて実感した「代償」が示す意味。
「ずっと逃げていた」
「これから、一生かけて更生するしかない」
鷲田にとって終着駅だったはずの釧路が、今度は「起点」になったのだろう。
結局、
作家が創る人物像は、それなりにデフォルメされている。サエコが飛び込み自殺した理由は、仮に敦子の言葉が正解であっても、わからない。共感できない。
そこだけが唯一難しい点だった。
~以下はこの作品のことではない~
受賞作にはこの「共感できない」部分がよく登場する。
人物像を群像で表現されればよくわかる。その部分を光や闇で描かれると時にわからなくなる。
「光」とは何かを伝えるために闇ばかりを描く作品に共感できない場合、その感性は間違っているのだろうか?
闇しかないような人物像の原因に迫っても、描かれ続けるのが闇でしかないなら共感は生まれない。
共感を無視してまで描きたい闇こそ、作家の中の闇だろう。
その作品が一定数、いまだに受賞し続けていることこそが、日本文学界の闇にしか思えない。

R41