毛皮のヴィーナス : 映画評論・批評
2014年12月16日更新
2014年12月20日よりBunkamuraル・シネマほかにてロードショー
恐怖と笑いとエロスがあやうい均衡で共存
ロマン・ポランスキーの映画はその波瀾に富んだ数奇なキャリアを反映するかのように、一筋縄ではいかない不可解な魅力をたたえている。端的に言えば、恐怖と笑いとエロスがあやうい均衡で共存する世界である。80歳を迎えたポランスキーの新作は、マゾヒズムの語源となったザッヘル=マゾッホの自伝的小説「毛皮を着たヴィーナス」に想を得た戯曲の映画化だ。
とある老朽化した劇場を舞台に、「毛皮のヴィーナス」のオーディションに遅れてきた女優ワンダと演出家のトマが対峙する。当初、強引に自らを売り込むワンダに辟易しつつも、次第に、その深い洞察に満ちた解釈と演技プランに瞠目させられるトマ。映画は、「毛皮のヴィーナス」のエッセンスを、〈入れ子構造〉のような形で取り込みながら、二人だけのワンシチュエーションドラマとして組み上げていく。そこから、支配と服従、権力とフェミニズム、加虐と嗜虐、フィクションと実人生の絶えざる反転というテーマが自ずと浮かび上がる。
なによりも注目すべきは蓮っ葉な女優を妻のエマニュエル・セニエが、傲岸不遜な演出家を若き日のポランスキーと瓜二つのマチュー・アマルリックが演じるという絶妙なキャスティングだ。そこからポランスキー自身の私的生活の軽妙な戯画を読み取ることも可能ではある。だが、画面から伝わってくるのは、刻々と千変万化するエマニュエル・セニエの表情と圧倒的な肉体に対するポランスキーの信仰告白にも似た讃嘆の想いである。老境に到って、なお、これほど画面のすみずみにまで艶やかな官能性をにじませるのは稀有なことではないだろうか。一見、深刻めいたサドマゾ的な関係の劇を、辛辣な笑いとアイロニーで包み込むような優雅な演出は、かえって瑞々しさすら感じさせる。ポランスキーの新境地である。
(高崎俊夫)