哀しみのトリスターナのレビュー・感想・評価
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意識と無意識が交錯するトリスターナの愛と憎しみの物語をブニュエルタッチで考察する面白さ
1977年に日曜洋画劇場のテレビ見学で初めて名を知ったルイス・ブニュエル監督の晩年の文芸映画。今回47年振りの再見になります。「昼顔」(1967年)に続いてブニュエル作品に出演したカトリーヌ・ドヌーブの無垢な美しさと、腫瘍悪化による右足切断の痛々しさにその義足のショットの僅かな記憶から、ストーリーの細かいところまで見直せて大変満足しました。原作がスペイン写実主義文学の文豪ベニート・ぺレス・ガルドス(1843年~1920年)の『トリスターナ』で、本国スペインでは『ドン・キホーテ・デ・ラ・ラマンチャ』のセルバンテスに次ぐ評価を得ている作家と言われています。映画の時代背景は原作とは違い第一次世界大戦後の1920年から始まり、第二共和政(1931年~1939年)を経てフランコ体制(1939年~1975年)の初期に重なるものの、王政復古と共和政が入り乱れる複雑なスペインの歴史の表現は殆どありません。ブニュエル監督が描くのは、意識と無意識が織り成す男と女の抜き差しならぬ愛憎劇そのものでした。
16歳で母を亡くし孤児となったトリスターナが、貴族ながら働くことを見下し僅かな資産をやり繰りして威厳を保つ独身の初老ドン・ロペの養女になるのが物語の端緒です。貴族と平民の支配と服従が生活の基盤である階級社会。このドン・ロペは、トリスターナが母子家庭になった時から、何かと面倒を見ていたのでしょう。美しい娘を持つトリスターナの母親もその美しさでドン・ロペからの寵愛を受けていたことが想像できます。トリスターナが抵抗なく養女になるのは、物質・精神の両面からごく普通の成り行きだったはずです。しかし、少女が成長し女性としての自我が目覚めると同時に、その運命的な親子関係に耐えられなくなるのは、父親のドン・ロペをひとりの男として対峙しなくてはならないからです。ベットに誘われて無抵抗のトリスターナの未熟さ、否それ以上にそんな娘に欲望を抑えきれない父親のいやらしさと狡さ。そこから、外出も召使同伴に監視されて息苦しさも限界にいた頃、偶然出会った若いオラシオと本当の恋に走るのは古今東西普遍的な成り行きです。ただここで意外なのは、駆け落ちするトリスターナを執拗に追い掛けないドン・ロペの、いつか戻って来ると構える余裕の態度でした。それは貴族の矜持と、収入が不安定なオラシオの画家の職業に対する差別意識があったことは間違いありません。この前半の予定調和から、後半のトリスターナが女の復讐をどう遂げるかに本当の怖さがあります。
三つ編みのおさげをした少女期から、熟年期に片足を失い松葉杖で歩行するトリスターナを演じるカトリーヌ・ドヌーブの表情の変化が秀逸です。メーキャップの丁寧さが、女性の美しさと冷たさを更に演出します。26歳のドヌーブが表現する、10代から成熟した女性の変遷には目を見張るものがあります。好色貴族ドン・ロペを演じたフェルナンド・レイは、スペイン映画界でもっとも世界的に活躍した名優でした。「汚れなき悪戯」「フレンチ・コネクション1・2」が記憶に残っています。貴族でも父の遺産の多くを姉に相続されて贅沢出来ない複雑な境遇と、それでもお金に執着しない、日本で言う高等遊民のような価値観の持主のドン・ロペを巧みに演じています。散歩中に突然老婦人にお金を無心するシーンの面白さ。それが莫大な遺産を受け継いだ実の姉というブニュエル監督の演出タッチがいい。その姉が亡くなるのを教会の記帳カットでさり気無くモンタージュするブニュエル監督らしさ。そして28歳のフランコ・ネロが演じたオラシオがトリスターナへの愛を貫けない展開に、唯一物足りなさを感じます。貴族と養女の愛憎がテーマ故に後半姿を見せませんが、障害を抱えた女性を元の家族に預ける男の甲斐性無さは残ります。ネロは、私にとって「続・荒野の用心棒」(1966年)のマカロニ・ウェスタンの俳優です。パートナーのヴァネッサ・レッドグレイヴと共演した「ジュリエットからの手紙」(2011年)にも良い印象があります。
ラスト、復讐を遂げたトリスターナの記憶をフラッシュバックしたモンタージュからファーストシーンに戻る終わり方が素晴らしいと思います。時を戻すなら母を亡くしたあの日に返りたい。そんなトリスターナの意識、養女にならなければ貧しくも女性として幸せな人生を送れたのではないか。主要登場人物三人の心理を想像しながら鑑賞すると、色々な見方が出来るとても興味深いストーリーと演出のブニュエル作品でした。
美しいカトリーヌ•ドヌーブ
トリスターナがだんだん悪女になって行くという描き方であるが、
ロペというおじいさん、酷すぎる。
今なら未成年への性的虐待で犯罪になるのでは?
この時にちゃんとした父親であったなら、
トリスターナも家出することなく居着いたのでは、と思う。
駆け落ちした男のことは、本当に愛していたのかわからない。ただただロペから逃げ出したいからだったのかも。
男は、トリスターナの病状の重さを自分で抱えることができずロペに帰した。
そこまでの愛である。
右脚を失ったトリスターナを元気づける為に、
男に自分の留守中見舞ってやってくれるよう頼み込む程心配する。
男とは自然消滅して、今後のことも考えてか
ロペと結婚する。
以前と違いロペに指一本触れさせない。
弱っていくロペ。
いよいよとなった時トリスターナは?
トリスターナの変貌ぶり、怖い
トリスターナの変貌ぶりがなかなか怖い…。
カトリーヌ・ドヌーブがそれだけうまく演じている、とも言えるのかしら。
ペロは老いるにつれ謙虚になり、人を許す良い信者になっていく。
片や皮肉なことに、彼が昔蒔いた悪い種はしっかりトリスターナの中に根付いてしまい、病で彼の世話にならざるを得なくなったこと、そして脚の切断という不遇が追い打ちをかけ、彼女をモンスターのように悪女として成長させていくばかりだった…
何とも皮肉さ、ちぐはぐさを感じさせるストーリー。
ところで
画家はなぜ彼女のもとを離れたのかな…
?彼女の方から離れた?
【自由】
フランコ独裁末期のスペインのマドリードからほど近い古い街トレドが舞台だ。
カトリーヌ・ドヌーヴは、「昼顔」より、こちらの作品の方が気に入っていると話していたことが記録として残っている。
この作品は、トリスターナが足を切断せざるをえなくなることもあるが、脚フェチを思わせる場面が出てくる。ヒッチコックはこの脚フェチ表現を気に入っていたようだ。
谷崎潤一郎もいくつかの作品で脚フェチと言われたりするが、実は、この作品の脚はフェチというより、自由のメタファーではないのかと思う。
トリスターナは、16歳で母親を失い、貴族のプライドにしがみつき働くことを良しとしない老貴族ドン・ロペの養女になるが、ドン・ロペは、トリスターナを次第に女としてみなすようになり、愛情を注ごうとするが、トリスターナは次第に自我に目覚め、他の男を愛するようになり、駆け落ちをする。
ところが、病気でトリスターナはドン・ロペの元に結局帰ることになるが、脚を切断せざるを得なくなり、ドン・ロペと結婚し、“自由を放棄”せざるをえなくなったように見せて..。
ドン・ロペは一族の財産を相続し暮らし向きは改善するが、年老いて衰えが隠せなくなり、トリスターナは自由と財産を手に入れるのではないか..というところで映画は終わりとなる。
トリスターナという女性を通じて、自由が抑圧された状況だったフランコ独裁末期のスペインに重なる物語でもある。そして、偶然なのか、予感があったのか、フランコ独裁は、この数年後に終わりを迎える。
仮に片方の脚(自由)を失っても、片方が残っていれば、自由が完全に失われたわけではない。再び立ち上がり、自由を獲得することが出来るかもしれないと云ったメッセージも含んでいるような気がする。
また、舞台になったトレドは、エル・グレコの作品が有名だが、歴史的にはキリスト教徒やイスラム教が攻防した都市で、そんな背景も、この物語に奥行きを持たせているのではないかと感じさせる。
良い映画
当直明け2/5本目。
『ルイス・ブニュエル監督特集上映 デジタルリマスター版 男と女』にて鑑賞。
1970年公開の作品。全編スペイン語。カトリーヌ・ドヌーブの声は残念ながら、フランス語ではなくスペイン語の吹き替えのようだ(比較的聞き取りやすいスペイン語なので、スペイン語学習には良いかも)。
カトリーヌ・ドヌーブは娘役だと思っていたら、どうも養女役で、母の死後、父親役だった男優の愛人?になったりする…ん〜、もうこの時点で、人間関係がややこしく、話についていけるかなぁと不安になって来る(日本にはあまりない文化ですからねぇ)。
そして、彼氏が出来て家出をするけれども、彼女は重い病となり再び養父の元へと戻って来る…ん〜、もう終盤に近いんですけど、何で戻って来たんだろうと頭の中がグルグルし出す(笑)
ラスト近く、病気ゆえ足を切断してしまったカトリーヌ・ドヌーブ演じる女性は、使用人の男の子の前で裸になってみたり、ちょっとよく分からない場面があって、過去がフラッシュ・バックする様なシーンの後、映画は終わる。
正直、この作品のテーマが、よく分からんかった(笑)
(養父との)愛のない結婚生活に幸せは来ない…とでも言いたかったのか?(笑)…ん〜、ありきたりだなぁ(笑)
*YouTubeを見てたら、この作品のTV放送版の予告編が出て来た…番組は『日曜洋画劇場』…流石!淀川長治!笑…昔の民放は凄かった!笑
と言うことは、日本語吹き替え版が存在する?笑
慈善 と 偽善
ドン・ロペは鷹揚に構え 手持ちの品を売る時も値引き交渉などしない
(世間体はよい)
(教会には行かないが 善行を施している… と考えている)
孤児になったトリスターナを引き取り 養父になる
が、軟禁状態にして〈世間から遮断〉しておき、父親の権威を振りかざしながら
無垢、無知、無防備の娘の混乱に乗じて
関係する
成長するにつれ 彼女の意識は目覚め始め
自由に外出し、画家と恋に落ちる
男性不信もあるのか
芸術家の身勝手さも察知したのか
束縛されるのが嫌なのか
結婚はしない
自分も働くつもりだった
が、病に倒れ、死を覚悟しロペの元に戻ることを選択
どーせ死ぬのだし… と、考えもする
画家のお荷物になることを危惧したのか?
ところが 片足を切断して生還し
いまや〈憎悪の対象〉となったロペと再び暮らすことに!
〈愛〉を知ったばかりに
彼の行為への怒りは更に募る
(画家とは終わる)
遺産が転がり込んで 金持ちになった彼は
慈善活動にも精をだし 司祭たちとも知己になる
彼は傷ついた彼女の面倒を見、善行を重ねていると考えている
(内面の傷は?)
そして 不適切な関係を指摘され、二人は結婚する
ロペや司祭たちの とってつけたような善意と正義
そして 無自覚の悪意と欲望
トリスターナは 彼等がくつろぐ部屋の外を
呪詛の念を唱えるように
松葉杖の音をたてながら往復する
また足が不自由になった後
妙に 馴れ馴れしくなった幼なじみの中に
同じものを見つけた彼女は
ガウンを開き〈裸体と傷〉を深い軽蔑をもって
半笑いで見せてやるのである
そして 激しい雪の夜
苦しむドン・ロペに医者を呼ばず、窓を開け放つのだ
これで呪縛から解放されるのだろうか
司祭とその教義も彼女を救いはしなかった
酷薄な表情のトリスターナと
フィルムを巻き戻して無垢だった頃の彼女の姿を対比させ、因果関係も示唆している
色々考えさせられました
ブニュエルの1970年の文芸もの
原作者のベニート・ペレス・ガルドスは スペインの国民的な作家らしく、ビリディアナも彼の作品を基にしているのね
宗教に懐疑的な話ですが、スペイン人と宗教との関係の深さを感じました
氷の女王
「華麗なるフランス映画」という企画上映で(数十年ぶりに)見たが、ブニュエルやアントニオーニをフランス映画というくくりに入れるのは違和感があるな。この映画など全編スペイン語で、舞台もスペインだ。ま、たぶん俳優中心に編んだ企画なんだろうけど。
ブニュエルの即物的で情け容赦ない筆致はここでも徹底している。あと、夢の唐突な闖入も。フェルナンド・レイはブニュエルの作品にたびたび出演しているが、ほぼ同じような役柄で、監督自身を投影しているのかもしれない。
レイ扮する老人が仲間と歓談している横を、トリスターナが松葉杖の音を響かせながら何度も往復するシーンが怖い。
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