劇場公開日 2015年6月13日

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「着替えること 「監督 小津安二郎」蓮實重彦 風」海街diary よしたださんの映画レビュー(感想・評価)

2.0着替えること 「監督 小津安二郎」蓮實重彦 風

2016年5月23日
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鑑賞方法:TV地上波

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 映画の主たる舞台は鎌倉である。執拗とも言えるくらいに描かれる3度の法要。これらの意味するところは後述する。

 登場する四姉妹は、法要の場面はもちろんのこと、仕事、転校、サッカー、花火など、その場面が変わるたびに衣装を替える。それはまるで監督の是枝裕和が、人気女優たちのコスプレを楽しむ観客を試しているかのようだ。
 実際に是枝は、彼女たちの着替えを非常に強く意識して本作を撮っている。
 まず冒頭、長澤まさみが恋人のベッドから抜け出して朝帰りをするシークエンスは、印象的な着替えのシーンの為にあるといっていい。長澤の伸びやかな四肢が印象的なそのシーンは、人は着替えることで別の人間に変わっていくことができるという、この映画の宣言である。
 長女と次女の諍いと修復も衣装のやり取りによって表される。
 新しく購入した白いカーデガンを勝手に着たと綾瀬はるかが長澤に文句を言ったり、「勝負服」であるブルーのノースリーブを、仲直りの印に綾瀬が長澤に譲ったりする。
 性格の正反対な長澤と綾瀬の関係も、その衣装の交換によって表されているのだ。

 そして、ずいぶんと昔に家を出たきりの父の葬儀での喪服。鎌倉にいた3姉妹は喪服を着て葬儀会場に現れるが、山形の広瀬すずだけ中学校の制服を着ている。中学生だから喪服を持っていないので代用として制服を着用しているという、どこにでもある葬儀の風景である。
 だが、この衣装の違いが意味するところは非常に重要で、映画におけるこの4姉妹の、腹違いの末っ子の立ち位置を象徴しているのだ。この中で唯一の未成年者で、誰かしらの後見がないと生きていくことが困難な者の記号として、広瀬はここで中学校の制服を身に纏っているのだ。
 この法要における制服の着用は、祖母の法事、風吹ジュンの葬儀においても三度繰り返される。それほどまでに、法要での制服に込められた意味を、是枝は強調したいのだ。
                               ところで、「鎌倉」、「葬式」というキーワードが小津安二郎を意識していることは明らかである。会葬者の中で、何らかの事情で喪服を着用していない者は、小津の作品にも登場する。
 「東京物語」の終盤。尾道で行われる東山千恵子の葬儀では、東京から来た子供たちは義理の娘である原節子も含めて、皆が黒い喪服を身に着けている。それに対し、大阪から来た末っ子の大坂志郎だけは白いシャツを着ている。
 若いから喪服など持ち合わせていなかったのか、それとも危篤の知らせを聞いても、まさか葬儀になるとは思わず、喪服を準備してこなかったのか理由は分からない。ただ、映画の終盤になって登場するこの大阪に離れて暮らす三男坊を、小津はこの物語の外部者として扱っているのだ。
 物語におけるよそ者を登場させることによって、次男の嫁である原がその血縁関係を超えてこの物語の内部の人物であり、東京に暮らす長男、長女と同列に並ぶ彼女の立ち位置を強調することに成功している。

 話を「海街 Diary」の戻すと、広瀬の着る制服は、他の3人とは異なる存在であることを示す重要な記号である。母親が違うこと、まだ子供なので大人の庇護が必要な存在であることは、綾瀬、長澤、夏帆の三人とは異なる点である。そのために広瀬は自分の存在を肯定することができない。
 このような異なることによる自己否定を乗り越えて、4姉妹一人一人が自己を肯定する瞬間を、映画はやはり彼女たちの衣装によってはっきりと示している。
 広瀬が海上での花火見物から家に帰ってきた時に、他の三人が揃って浴衣を着て待っていたシーンである。友人と花火大会を見に行く広瀬に、綾瀬は浴衣を着せて送り出す。広瀬が帰宅すると、3人の姉たちも皆浴衣を着ていて、家の庭で線香花火を始めるのだ。
 この浴衣を着た四人が、しゃがんで花火を持っているシーンは、この4姉妹が今まさに一つの家族となったことを謳いあげている。

 実は、衣装が同じになることによって、その場所へ受け入れられることは、広瀬のサッカーチームのユニフォームによって前もって示されている。チームメイトとして認められた彼女は、そのチームのユニフォームに袖を通すことが許されるのだ。
 四人の若い女性が新しい自分の居場所を見つけていく静かで温かい家族の再生の物語が、見方によっては扇情的な人気女優の着替えシーンの繰り返しによって紡がれている。是枝の醒めた目のなせる業であろう。

佐分 利信
flying frogさんのコメント
2016年6月3日

あの・・・法要の時に中高生が喪服ではなく学生服を着るのは日本の習慣として当たり前のことなので、ここにことさらに別の意味を見いだす必要はないのでは?

でないと、花火の時にせっかくひとつになった姉妹が、二ノ宮さんの葬式の時にはまたすずが「よそ者」になった、という解釈をせねばならなくなるのでは?

花火のシーンは原作のすずは浴衣を着ていませんし、帰宅後の4人揃っての花火シーンもありません。
ここに関しては、確かに4人が同じ衣装を着て花火をすることで、4人の一体感を象徴する、という演出的な意図は見て取れます。
でも、それを映画全体に広げるのはどう考えても無理でしょう。
学生は葬儀でも学校でも学生服を着る、OLは職場では制服を着る、ナースはナース服を着る、という社会的な慣習やルールを無視することはできないからです。

すずが自分を肯定することが難しいのは、自分の父親が姉たちを捨て、自分の母親が姉たちから父親を奪った結果、産まれた子が自分だから、でしょう。
単に腹違いだから、でもないし、ましてや自分が庇護を要する子供だから、ではあり得ないと思いますが。もしそうなら、世の子供はすべて自己否定せねばならなくなりますよw

原作では二ノ宮さんの葬儀にすずはおそらく出ていません。千佳は確実に出ていないし、そもそも二ノ宮さんを知らないでいます。二ノ宮さんも幸と佳乃は個別には知っていますが、このa人が姉妹であることを知らないまま亡くなっています。

映画では、それをわざわざ二ノ宮さんと香田姉妹は昔からのつき合いと設定を変え、葬儀に4人揃って出席させています。原作では幸も佳乃も職場代表として出席しているので、葬儀の後はそれぞれ仕事に戻ります。
喪服&制服にそんな意味を持たせたのだとしたら、わざわざ原作を改変してまでラストシーンにすずを制服を着せて出席させる意味が分かりませんよねww

flying frog