メビウス : 映画評論・批評
2014年12月2日更新
2014年12月6日より新宿シネマカリテほかにてロードショー
キム・ギドクが突きつける、終わりなき人間の欲望と性(さが)
浮気している夫への復讐心から、何と無残にも、代わりに息子の性器をナイフで切り取り、食してしまう母親。代わりにって酷すぎる!? だが、キム・ギドクはそもそもこの強引なロジックに首を傾げる暇すら与えない。男の印をなくして周囲から踏みつけにされる息子と、哀れな我が子を自己犠牲的行動で救おうとする父親の姿は痛々しくも滑稽すぎて、全編に漂う血生臭さすら忘れさせるほどだ。
中でも、項垂れて自暴自棄になる息子を見かねた父親が、ギドク映画の十八番である自傷行為によって射精と同じ快楽が得られることを実地体験し、それを息子に教えようとする件では爆笑必至。しかし、繰り返される苦痛と快感の反復を笑いながら眺めているうちに、やがて笑顔は凍結するに違いない。失われた性器が誘う物語は、欲望の結果としてこの世に生まれた我々が、たとえ性器をなくしても尚、欲望を再生し続ける生き物であることを突きつけてくるからだ。そこには家族も夫婦も親子もない。永遠に捻れては戻るメビウスの輪の如く、終わりのない時間の帯に身を委ねるしかないと言わんばかりに。
この映画には台詞がないと言われている。実はそれは間違いで、人間が怒りや喜びを行動に移す直前と直後に存在する“一瞬の静寂”を切り取り、繋ぎ合わせたという方が正しい。行動で語るべきテーマに説明は不必要だし、3人の俳優たちは台詞に代わる表情だけで感情を表現するという難行に挑み、成功していると思う。一方で、ギドクは母親と父親の愛人を同じ女優(イ・ウヌ)に演じさせることで、彼が崇拝する女体の普遍性を際立せようともしている。鑑賞後、眼底に残るのは右往左往する男たちとその性器ではなく、イ・ウヌの堂々としてふてぶてしい乳房と、度々無造作に広げられ、肌色のパンティも露わな下半身なのだ。
(清藤秀人)