複製された男のレビュー・感想・評価
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いかなる前情報も仕入れちゃイカン、俺のも読むな
「灼熱の魂」「プリズナーズ」のドゥニ・ビルヌーブ監督作品。
と書いても、ミスリードしてしまいそう。
「複製された男」という邦題自体は、原作があろうともこれまでの作品群からすると、これまでタブーを描いてきた監督の作品からすると極めて「真っ当な」でも「今回もそれか?」とすでに映画ファンからすると、一定のイメージを与えかねないタイトル。
冒頭母親からの電話の内容や、いきなり不穏なショーから始まるや、うって変って糖尿病のような歩き方の猫背なギレンホールが登場する。
この冒頭から、ある種の想像が付きまとう。
「同一人物ではないのか?」
どんなに繊細な性格だとしても、実はそうじゃないだろ、と思わせる顔の濃いギレンホール、比較的タイプの近い顔のガドン、ロラン。
その後も非常に多くの複線や小ネタを挟む。
一方が、役名もない三流役者で、の割には、いい暮らし、それと例のアブノーマルなショーの主催者的な存在の意味。
一方は、WEB検索では、その名前と職業が、ピンポイントで「誰かがかつて」検索したワードが存在する。
ガトンがアダムに会いに行き、別れ際、アンソニーの携帯に電話をするが、アダムが視界から消えた時、アンソニーが受信をキャッチする。そのあと息を切らして帰宅するアンソニー、など、芸が細かい。
母親がイザベラ・ロッセリーニ、というのがまたこの映画の「ヒッチコック」的かつ「リンチ」的な部分を担っていてニヤリ。
時折の空撮が、町を俯瞰した、ある種、世の征服者が街を見下ろすような絵、実際絵として登場する巨大な蜘蛛、近未来的でエロチックなビルのフォルム。セピアがかった映像に「ウルトラセブン」を少し思わす。
簡単に、蜘蛛の復讐劇、てな見方でも全然よくって、ただ単に、ガドンとロランの神がかり的な美しさと、ギレンホールのどこまでもあたふたした二人の男の演じ分けの素晴らしさ、始終不穏な音が、なんでこんなところでこんな音やねん(笑)な音響、先ほど述べた、やはり不穏な撮影。
ずっとニヤニヤしながら楽しめるという一面もある。
追記
映画の原題「ENEMY」について
蜘蛛星人の侵略、でも全然いいと思う。ラストからエンドロールはそういったクラシックなSFテレビドラマ風でかっこいいし。
あるいは、アダムにとって、アンソニーは敵であり、アンソニーにとっても然り。だが、アンソニーの、アダムの提案が猛烈に俗っぽくて、バカっぽいが、笑えそうで笑えない。気持ちもわからんでもない。
それは言い換えれば、いつもと違う「封印してた」「しかた」でしたいけど、パートナーにそんな「しかた」を今晩しちゃっていい?て聞くより、「ああ、今日のなんか違う」と思わせたいだけなんかもね。
同じ顔だろ❓
過去に、レンタルで観ました💿
アダムとアンソニーを演じたジェイク・ギレンホールは流石の演技力🙂
2人はなぜ瓜二つなのか❓
最後まで目が離せませんでした😀
メラニー・ロランとサラ・ガドンも、それぞれ親しい女性を好演🙂
私は途中から何がなんだかよくわからなくなりましたが😅
あの結末はつまり、アダムまだ何かしようとしていて、それを彼女は察知した…❓
難解な映画でした🤔
ドッペルゲンガー(自己像幻視)
原作がノーベル賞作家と言うことに魅かれて鑑賞、ところが自分そっくりな男の存在を知ったばかりに、妻や恋人を巻き込んで人生が急変するというサイコミステリーでした。
普通はよくある「他人の空似」と思って流すでしょうに、主人公は異常なほど執着、最初は隠されていた双子と疑ったりもしたが後天的な体の傷迄一致はあり得ませんね。
そんな設定だから、摩訶不思議な蜘蛛まで出してミステリーと言うよりSFやファンタジーを臭わせて辻褄を併せていました。原作者のジョゼ・サラマーゴさんは段落が通常の小説の章の長さに匹敵するほどの長文を特徴としているようだが監督のドゥニ・ビルヌーブさんも極めて個性的、やたら、顔のアップや照明不足やピント外れの映像を多用、反して建物は俯瞰の緻密な撮影、必然性のない妊婦の裸身シーンなど違和感の方が先に立つし、そもそも中年オヤジの私生活など興味が湧かないから無駄に長いスローテンポな展開に疲れました。結局、何が言いたい映画なのか私にはさっぱりでした。
蜘蛛に取り込まれ、足掻く男
難解な作品で、一回見ただけでは何が何だか解らないが、二回見ると何となく解るようになる。
アダムとアンソニーは同一人物で二重人格者、売れない役者もやっていたが、妻ヘレンの妊娠がわかってからは、大学の講師一本に絞って真面目な生活をしているようだ。
ただ本人は、そんな生活が窮屈に感じている。アンソニー(指輪をつけていた)がいた秘密の風俗っぽい部屋で、女性が蜘蛛を踏み潰すシーンは、ラストで出てくる大きな蜘蛛のような妻ヘレンからの解放を意味している。そこで 、独身のアダムという二重人格が生まれたと考えられる。
母親が「彼女と揉めたくないでしょ」という彼女とは、妻ヘレンの事であり、ヘレンがアンソニーを問い詰める時の「あの女」というのは、浮気相手のメアリーの事と思われる。
ヘレンは、アンソニーが自分にそっくりな人物がいると嘘をついていると考え、確かめに大学に行き、アダムがヘレンと初対面のような演技(役者ですからね)をしていると疑って、アンソニーに電話をかけてみたが、アダムが視界から消えてから電話に出たことで、アダムがアンソニーである確信を持ったはずである。アンソニーが嘘をつく理由としては、アンソニーが他の女と歩いているところを見られたとしても、「あれはそっくりさんだ」と嘘をつけるからである。
ブルーベリーの件でも、母親がやたらとブルーベリーを進めるので、子供の時から沢山食べてきたはずで、頑なに食べないというのはおかしな話である。よってあの時の人格は、本当の自分から解き放されたいと考えているもう一つの人格アダムであり、ブルーベリーをよく食べるアンソニーの方が本物ということができる。
本名がアダムなのかアンソニーなのかは謎であるが、妻がアンソニーと言い、マンションの人物もクレアと言っているので、そちらが本名のようにも思われる。アダムと言っているのはメアリーだけで、映画を進めた同僚はアダムとは言っていない。大学のHPにはアダムという名前はあるが、顔写真はないので、同僚の名前をメアリーに言っているだけかもしれない。
一見、二重人格で生まれた方が明るいアンソニーの方で、暗いアダムは元々の人格という先入観があるが、これが逆なので、複雑なストーリーと感じてしまう。
ラストでは、それぞれが別の女性と会うが、同一人物が同時に他の女性と会うことはできないので、どちらかが幻である。
メアリーがアダムの指の指輪痕を見て「別人だ!」と大騒ぎするが、指輪痕くらいで別人だと思うだろうか。せいぜい、「さっきまで指輪をつけてたの?」と思う程度だろう。これは、いつかメアリーに既婚者だとバレてしまうだろうというアダムの畏れが幻になっていたのではと思える。
ラストシーンも面白い。アダムは怪しい鍵を手に入れ、今夜は怪しい部屋に行けるとワクワクする。そこでヘレンに「今夜は出かける」と告げる。
しかし、おかしな事に気がつかないだろうか。アダムはこの後アンソニーと会い、またチェンジして元に戻り、アンソニーは普通に家に帰って来るのだ。本当にアンソニーが別人だと思っているなら、自分がここに戻ってくる未来はないので、わざわざ「今夜は出かける」なんて言う必要がない。
ここでは、アダムはもう本当の人格アンソニーに戻っているのだ。怪しい部屋への強烈なワクワク感が、アダムを素に戻したのだ。
そこでヘレンを見たアンソニーは、大きな蜘蛛を見る。アンソニーはヘレンを自分を束縛する蜘蛛として見ていたのだ。ヘレンが蜘蛛として見えることで、自分がアダムではなくアンソニーだと気づいたのだった。
人間の男女の姿を蜘蛛のオスとメスの関係になぞらえたシニカルな作品
これは登場人物の顔ぶれや彼らの行動を見ていると、ナゾナゾのような映画である。
いろいろ解釈の幅があり、ジェイク・ギレンホール演じるアダムとアンソニーが、実は同じ人間の別人格のようにも見えるし、別人のようにも見える。どちらかに決めつけようとすると、どこかに無理が生じる。
例えば、実は多重人格の同一人物だとしたら、アンソニーがアダムを装ってメアリーとセックスしていて、「指輪の跡があるから」と別人と判断されるのが説明できない。
別人だとすると、アダムがアンソニーに出会う前からアンソニーとヘレン夫妻の記念写真の切れ端を所持していた理由が説明できない。
恐らく外見上はこうした解釈の多義性を残したまま、監督はストーリーとは別の物事を語ろうとしているのではなかろうか。言うまでもなく、それは男の性欲と女の蜘蛛の網である。
作品の冒頭、アンソニーが秘密の部屋でストリップ等の性的なショーを鑑賞するシーンがある。そこに出てきた蜘蛛は踏みつぶされる。メス蜘蛛の網の中では男が他の異性への性欲を全開に出来ないのだ。
しかし、市街を見れば、路面電車の上には電線が文字通り蜘蛛の巣のように広がり、蜘蛛の胴体そっくりな建築物が聳え立ち、やがて巨大な蜘蛛が街を睥睨する。
蜘蛛はさまざまな象徴として使用されているが、本作では男の性欲に対置されるものであることが明らかで、最も近いのは昆虫界のオスとメスの関係だろう。
男が配偶者や恋人を置いて、性欲の解放、充足を求めるのに対し、女は男を広大な網で絡め捕ろうとする。昆虫の世界では、オスは自分の5倍も大きなメスの作った大きな網の隅に同居しているが、やがて繁殖の用が済めば捕食されてしまう。
本作で繰り広げられるのは、蜘蛛のオスとメスと見紛うかのような男と女の関係であり、自分のメス以外に色目を使ったオスは、例えばアンソニーは無残な死を迎え、アダムはいったんはヘレンに性欲を充足してもらえるが、次のメスを狙おうとした瞬間、巨大な蜘蛛と化したヘレンに捕食されてしまうのである。
比較心理学では人間と人間の比較ばかりか、人間と動物の心理まで比較対照させて研究するが、監督はここで人間の男女を蜘蛛のオスとメスの姿になぞらえて、「バカですね~」とシニカルに呟いているように見えるw
不気味な街の佇まいと、それを強調する音事,事故のラジオ放送、2人で1人、面白かったが謎も多い
ドゥニ・ビルヌーブ監督による2013年製作(90分/R15+)カナダ・スペイン合作映画。
原題:Enemy、配給:クロックワークス、アルバトロス・フィルム
劇場公開日:2014年7月18日
3回見たが、正直良く分からなかった。
自動車事故は、ラジオ放送までされていたので、幻想やイマジネーションではなく事実と、自分には思われた。その一方で、母親は主人公のことを、教員で立派な家と言っていたので、彼女によれば、登場人物2人を合わせた存在ということになる。この2つの考えをごくごく素直に解釈すれば、1人の人格が、何故か2つに分けられたということになるのだが。
まあ、この性格が大きく異る超ソックリさん(ジェイク・ギレンホールが2役)が何故存在していたのかは置いといても、かなり面白く且つ興味深い映画だった。そして、区別がつけられない様な類似の高層住宅が立ち並ぶトロントの都市風景が執拗に映し出され、その中で区別不能なソックリさんが存在しても不思議は無い気にはさせられた。
外見はそっくりで同じ場所に同様の傷まであるらしい2人だが、性格だけでなく、仕事(大学助教授 vs 俳優)や暮らしぶり(質素なアパートvs 高級マンション)も随分と違っていた。ただ同じ大都市に居住し、好みの女性タイプは同じなのか、入れ違いを実施。共に女性側にはバレてしまった様だが、反応が対照的だったのが興味深い。俳優の方は、助教授の恋人(メラニー・ロラン)に猛烈に拒否され、自動車同乗中の大事故に繋がってしまう。一方、俳優の妊娠中の妻(サラ・ガドン)は入れ替わりを受け入れてくれた様に思えた。こっちの方が、自分及びお腹の中の子にgoodと冷静にリアルに判断したのだろうか?
最後のシーンの大きなクモは何なのだろうか?少し調べて見ると、ユング心理学では束縛する母親を象徴するとか。主人公の大学職員はブルーベリーを拒否していたことに象徴される様に母親の管理から逃れようとしている様であったが、入れ替わった男の妻、彼女が新たに束縛者になったということなのだろうか?イントロの女性がクモを踏み潰そうとする映像は、そういった女性による束縛を嫌ってる男の心情を反映した幻想?
そう言えば、支配者の様に街の上に大きく佇んでいた巨大な蜘蛛の様のものは、いったい何だったんだろう?誰かの幻想なのか、真実なのか?そして、大学助教授は、独裁者が食と娯楽を与える、或いは情報を制限するといった講義を行っていた。何か映画内容と関係がある様なくどさでもあった。
不気味なトロントの街の佇まいや、それを随分と強調する音楽の存在もあって、蜘蛛様乗り物を操る宇宙人イメージの街の独裁者が、支配強化のために密かに人を夢中にさせる様なヒトの部分的複製を仕掛けてきてるというSF的設定を、「メッセージ」を監督したドゥニ・ビルヌーブ監督ということもあり、自分はイメージしてしまった。あの2人は、1人の人間のある部分をそれぞれ体現した存在であると。
監督ドゥニ・ビルヌーブ、製作ニブ・フィッチマン M・A・ファウラ、製作総指揮フランソワ・イベルネル 、キャメロン・マクラッケン 、マーク・スローン、 ビクター・ロウイ、原作ジョゼ・サラマーゴ、脚本ハビエル・グヨン、撮影ニコラ・ボルデュク、美術パトリス・バーメット、衣装レネー・エイプリル、編集マシュー・ハンナム、音楽ダニー・ベンジー ソーンダー・ジュリアーンズ。
出演
ジェイク・ギレンホールアダム/アンソニー、メラニー・ロランメアリー、サラ・ガドンヘレン、イザベラ・ロッセリーニキャロライン、ジョシュ・ピース学校の先生、ティム・ポスト管理人、ケダー・ブラウン警備員、ダリル・ディンビデオ屋の店員、ミシャ・ハイステッド暗室の女性、メーガン・マン暗室の女性、アレクシス・ウイガ暗室の女性。
よくわからん
蜘蛛が何らかのメタファーなんだろうなということは分かる。
それ以外が全然わからん。
考察を見ると二重人格説やクローン説があるようで、原作ではもっとシンプルな展開にクローンっぽいが、映画だと原作にはない要素があるようなので、二重人格設定に変わっているのかもしれない。
全体としてはセリフが少なめで、間を取ってるシーンが多い。
また、終盤の事故のニュースでは事故が起きたことは分かるが、その被害者が誰かはわからない。つまり全然別の誰かが起こした事故という可能性もある。
そういったところから考えて、どうとでも解釈できる映画という気がする。
考察自体は楽しいかもしれないが、明確にこうだろうと推測できる要素が少ない。
スッキリした答えが欲しい人には向いていない映画と思う。
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自宅にて鑑賞。スペインとカナダの合作で原題"Enemy"。おおよそ内容を反映していない邦題。序盤から不穏なBGMが流れ続ける。D.リンチがよく引き合いに出される一作だが、もっとドライで都会的な雰囲気を持ち親しみ易い印象。工事中の鉄骨を含めた靄がかった都会の風景が佳い。流線型の思わせ振りな給水塔の造形も作為的。蜘蛛のモチーフに対して、クライマックスでの事故後にアップになる放射線状のガラスが恣意的乍ら佳い。一言で「謎」、「意味不明」と切り捨てる事も出来るのだろうが、テイストや画面等、嫌いじゃない。70/100点。
・冒頭のタイトルコール時、J.サラマーゴの原作からの引用"Chaos is order yet undeciphered."が本作を暗示・牽引する。
・当初、“アンソニー”・“アダム”役はJ.バルデムにオファーされたが、テストの段階で不適格となり、その後、C.ベイルにもオファーされたがこちらもスケジュールが合わず、最終的に監督の推すJ.ギレンホールに落ち着いた。
・“アンソニー”と“アダム”を演じたJ.ギレンホールは、同じシーンで二役を演じ分ける際、テニスボールと棒を相手に見立てて演技したらしい。
・きっかけとなる劇中作『道は開かれる "Where There's a Will, There's a Way"』は監督の高校時代の英語教師がよく口にした教訓から採られていると云う。亦、その中でクレジットされており、“アダム”が検索する"bellhops #1"、"bellhops #2"の"Fraser Ash"と"Kevin Krikst"は本作のアソシエイト・プロデューサーである。
・街中を闊歩する異形のモノは、彫刻家L.ブルジョワの代表作で世界各国九箇所(その内の一つは六本木ヒルズ)に展示されている"Maman"からインスパイアされている。
・キャスト陣はクランクインに当たり、プレスを始めとした部外者にその役どころやプロットを口外しないと云う秘密保持の契約を締結したと伝えられている。中でもユニークなのは、私見を含め本作の中で蜘蛛が暗示するモノやその意味を口にする事は厳しく禁じられたらしく、それだけ本作にとって蜘蛛と云うモチーフは大切に扱われた。
・鑑賞日:2017年6月10日(土)
2度観たくなる作品
最初想像していたようなSF映画かと思ったがよくわからない終わり方をされて疑問しか残らない作品だった。
1度観ただけでは⁇しか残らず正直わけのわからない作品だったのだが、解説などを見るになるほどそういう事だったのかと理解、納得する事が出来た。
作品が想像していたジャンルとは違ったがこれはこれで面白かったし、2度観ることで伏線が見事に回収されるのだと思った。どんでん返し系の小説を読み終わった後のような気分になります。
構造はあの有名な
構造は、あの有名な映画と同じなのかな?
難解な映画と聞いていたけど、話の構造は、『ファイトクラブ』と同じかな……と思う
タイトルが『複製された男』だと本当に同じ人物が2人ようにみえるが実は………
2人が直接会っている所に他の人はいない。母親との会話などが噛み合っていない。ヘレンとの会話の端々もおかしい。他にも気になる所がたくさんある。
俳優アンソニーは、大学講師アダムの願望であって決して2人いる訳ではない……と思う。
俳優をしていたがヘレンの妊娠により諦め大学講師をしていてメアリーは不倫相手だと思う。
俳優していた自分、不倫相手を捨てれない気持ちが実際にはいない自分を作り出した。
願望を捨て現実で生きる事にした様にみえるが実際は…………。
蜘蛛が話をややこしくしているのか
自分と同じ人間が存在する。その謎にどんな答えが待っているのかわから...
自分と同じ人間が存在する。その謎にどんな答えが待っているのかわからないまま物語は進行する。SF的なクローンの話なのか、自らが作り出した二重人格的な話なのか、二重人格であるならばどれが本体でどれが偽物なのか。はたまたどれもが本物、もしくはどれもが偽物なのか。最後まで明かされることはない。
唐突に現れる蜘蛛があまりにもSF的な奇怪さを放ち、その奇抜さゆえに蜘蛛は心理状態の異常性を表していることがわかる仕組みだが、女の束縛のメタファーになっているとのサイコロジカルな解釈は興味深いものがある。
最後のシーンの奇怪さはホラーとさえ言えるほどのインパクトを放ち、それまで見ていた全てが妄想なのではないかとさえ感じさせる悪い夢を見ていたかのような映画。カフカ的と言えば聞こえはいいが、そのカフカの世界は外側から眺めて初めて鑑賞できる冷静さを保てるのかもしれない。
誤まってその世界の内部に迷い込んでしまった時の恐怖を言葉にすることには何の意味もないだろう。言葉とは理解する相手がいて初めて成立する記号であって、相手のいない宇宙に宙吊りになる時に実感するのは、圧倒的な混乱と、自分が混乱していることをどこかで冷静に自覚している自分への絶望だけだからだ。おいそれとおすすめできる映画ではないけど鮮烈な印象を与えてくれるのは事実。
ラストはともかく、敢えて解き明かさない事が良い秀作
ラストシーン。
そんなのはどうでも良い映画。
複製された男。
日本の題名じゃなく、あっちの題名はなんだろね。
まぁ、アダムはクソ男だし、紐かな?と思ったら道楽息子だった。
アンソニーが、最初にアダムに接近した時は瓜二つだったけど。
終盤は別人にしか見えなくなっていたのが面白かった。
つまり
人は外見と内面でその人であって、外見だけ似ていても内面が一致しなければ、それは別人とも言える。
最初のシーンの意味が、本当に終盤でわかるので、あっあれかーって感じです。
VODで観てる人なら、是非、最初の方から再生しなおしてみて下さい。
ネタバレありなのでネタバレするなら
アンソニーが瓜二つを見つけてしまったと母親に相談しにいくけど、母親は凄く不機嫌になる。
更に
話してもいないのに『三流役者と私の息子を一緒にしないで』とか言っちゃう。
それは
本来の息子アダムがしょうもない奴で、愛してはいるが、嫌ってもいる母親の想い。
だから
アンソニーを作ったんだろう。
と。
アンソニーは、その瞬間に全て悟ったんだろうなぁ。
自分が複製された人間であることを…。
終盤、アダムは、アンソニーの女と一発やりたいが為に、アンソニーをゆする。
アンソニーは分かっていたはずだ。
でも、アンソニーは受け入れた。
恐らく、彼女には、身体の関係以上の想いは無かったんだろう。
でも
誠実でないと言えばそうなる。
そこは、複製されても、アダムの複製といったところか?
そのうちラストシーンの意味合いも考えてれば見えてくるんだろうなぁ…
どこまでも疑ってみよう
この作品はラストのワンカットに囚われすぎたり、もしくは、邦題によってミスリードされると内容理解が難しくなってしまうかもしれない。
これが決定的な真実だ、とは断定しにくい作品である。
でも断片的に情報をまとめ自分なりの解釈を導き出してみたいと思う。
ネタバレ
見逃すべきでない点はここだと思う。
・役者であるアンソニー宅。夫から同じ声の男から電話がかかってきたとき。「またあの女と会ったの⁈」と詰め寄る妻。
・大学で歴史を教える教授である主人公アダム。母親はブルーベリーを差し出し、「あなたは教師で、立派な家に住んでいる」と言う。しかし主人公の家は非常に簡素である。
・アンソニー宅。ブルーベリーを欠かさず食べている。端役でしか映画に出ていない三流役者なのに、マンションの作り・内装は近代的で洗練されており立派。妻は妊娠中で働いていない。
・ラスト近く、ラジオでは早朝の事故と伝えている。しかしアンソニーの事故は深夜のように見える。ラジオが伝えるのはアンソニーの事故ではない。
時系列がずれており、アンソニーの事故の後にラストのカットがあるわけではない。
…以上から、つまり、教師と役者は同一人物。
母親には役者をしている事は言っていない。
妻は教師をしている事を知らない?
母親には母親の、妻には妻の、それぞれが求める役割を演じようとしてしまい、それが彼を抑圧している。
一人で教師と役者の人生を演じ分けている。
彼は妻が妊娠した事で欲求不満になり、怪しいストリップ小屋に通っている。
それだけでは飽き足らず、バスで見かけた美しい女性の跡をつけ、誘い出し何度かデート(このあたりの描写の時系列が前後している
)
妻は夫の行動に気づいてしまい、多分何度か詰め寄っている。
そこで、自分にそっくりの男がいてその男が女性と付き合っていると妻にかいま見せ浮気を言い逃れようとしている。
が妻はどう見てもアンソニーとアダムは同一人物なので浮気に再度気づき、またアンソニーの言い逃れに傷付きやや不安定になっている。
ラストのワンカット。あれは主人公の恐る女性からの抑圧を表しているのか。
時系列はバラバラだが、事故のシーンが時間的には最後か。
ラストの出勤前のカットが時間的に始めに来るのかもしれない。
この作品の原題は「ENEMY」である。
敵とは誰か?主人公を抑圧する女性(母、妻)か、もしくは欲望に抗えずかといって全てを周囲に曝けだせない自分自身かもしれない。
道は開かれる
というレンタルDVDから端を発するストーリーなのだが、現実でも、今作品原題『アンエネミー』を延滞してしまい、高くついてしまった顛末である。
監督、主演とも、去年くらいから注目度が高い人物なので、今作品に対する期待は俄然高く、ハードルの上げすぎを抑制しながらの鑑賞である。
始めに結論から言うと、大変な哲学的問題作なのだ。いや、それ位完成度が高いということではなく、常人にはサッパリ理解出来ない展開が淡々と繰広げられる。いくつものフリと、しかし回収されないオチ。いくつものテーマが交差する中で、最終的にあの禍々しい蜘蛛がメタファーとして示唆しているのは、『後ろめたさに男は結局元鞘に収まる』という結論を公式に監督は公表しているらしい。とにかく何が何だか狐に摘まれるような、全体がセピア掛かった色彩にイメージが重層的に溢れてきて、脳が蕩けるような作品だ。でも、嫌いにもならないのは何故だろう?やはりこの手の作品を仕上げることに長けた異才かと改めて感心した。
カフカの読後感のような
ジェイク・ギレンホールが出ていること、ノーベル賞作家の原作ということ以外は全く情報をいれずに観た。
最初はよくある近未来SFのように実際に複製された男がいて、謎の組織やらが出てきて私闘でも繰り広げたりするのかと勝手に妄想(笑)、固唾をのんで見守っていた。
しかし、なにか起こりそうな緊迫感が続くも、なかなか何も起こらない。そのうち、いやこれは「二重人格」とかそういう話かもしれないと頭を切り替えて見つつも、なかなか話の核心に迫らない。
図体がでかい割に、サランラップに巻かれたように窮屈でオタオタしたジェイクの演技にイライラ。
映画終わっちゃうよ!早く展開してよ!と焦っていたら最後は蜘蛛で終わり。カフカの変身かと思っちゃったよ。
これはとんでもない映画を観てしまったと思った。
だが落ち着いて振り返ってみると、結構面白い映画だったのかもしれない。
解説サイトで確認すると、やはり男の恐怖心と深層心理を描いた映画だったことが判明。そこには書いていないことを、自分なりに解釈してみました。
【謎とき】
要約すると二重人格の男の話であり、一つの体の支配権をめぐる葛藤を描いたものだと思います。
さて教授と俳優、どちらが本物か。
最初の主格は俳優で、途中で教授にチェンジ。
教授という存在は、売れない俳優が妻の妊娠と不甲斐ない自分の現実に抑圧され、産み出されたもう一人の自分。
⇒冒頭の秘密クラブ、母親からの「いつまでフラフラしているの?」という留守番電話で示唆。教授の自宅には家具がほとんどないことからも妻が妊娠してから生まれた別人格だとうかがえる。
妻が教授に会いに行く⇒教授が建物の影に隠れてから俳優が電話に出ることから、二人同時に存在していないことを示唆。
帰宅後の妻の台詞から、夫に別人格が宿っていることや、もしくは彼がそのように演技しているのではと彼女が疑っていることがわかる。
⇒劇中一度も教授と俳優が同時に存在している場面を、他人が意識的に見ている場面はない。
ホテルでの会合は、どちらが主格になるかのせめぎ合い。
複製された教授は、このまま会話を続けていくと「存在を消されてしまう」とおののき、その場を後にする。
主格となった教授は妻への元へ行き、背徳感に耐えられなくなり、奔放で浮気を止められない俳優を己から抹消する=事故は本当に起きたことではなく、もう一人の自分を抹消した過程であり、それまでの恋人とのもつれの場面は、「このまま浮気を続けていたらこうなることは明白」という不幸のシナリオ。
もしくは、恋人ともつれた場面までが本物であり、そこから先の車の場面だけが俳優抹消の過程かもしれない。
⇒指輪の跡がある!と大騒ぎした不倫相手の女が、自分を捨てた男の車で悠々と送られるのも不自然。
かくして勝利した教授だったが、結局「秘密クラブの鍵」を手にして再び誘惑が首をもたげる。
=誘惑に負けた教授が目にした妻は、自由を絡め取る糸を張り巡らす蜘蛛のように映る。
マンションそのものは無個性になっていくことへの恐怖、妻のいる部屋は抑圧の対象でしかないから、教授が見上げる部屋はいつも恐怖の音楽に彩られている。
【解けない謎】
・教授の職は本物か
妻が大学に行ったときに講義室が空っぽだったことから、すべて妄想だったともとれるし、半年間教授として働いていた可能性もある。だが母親との会話で、「大学教授である息子のあなたと売れない俳優と一緒にしないで」という台詞があるが、それが冒頭の留守番電話のシーンと矛盾するので空想の可能性は高い。
妻に隠れて教授として働いていたのか、教授ごっこをしていたのか定かではないが、「君にそっくりな奴が出演している」と映画の存在を教えてくれた同僚すらも架空の存在になってしまうので、ちょっと判断はし難い。
長々と書きましたがあくまで個人の感想です。原作を読んだらまた解釈が変わるかもしれませんね。
とにかくこの主人公はダメ男じゃん、ということ。
最低
これはあかん。検索して解釈を知った上でもあかん。これは夢の話でした、なんていうメタ視点は一番観客をバカにするものだと思う。「メッセージ」もひどかったし、ダメ監督のレッテルを貼るしかない。邦題は完全にミスリードしており最悪。
浮気隠しのドッペルゲンガー
謎解き映画か?
二人は一つでJ・ギレンホールの一人芝居で「ファイト・クラブ」状態か?
奥さんは全てを悟り哀しい眼差しで彼を呆れ半分に生活を続けていたのか!?
浮気隠しの自作自演か?
ラストの蜘蛛がオドロオドロしい。
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