インヒアレント・ヴァイス : 映画評論・批評
2015年4月7日更新
2015年4月18日よりヒューマントラストシネマ渋谷ほかにてロードショー
生と死が限りなく近づき、戯れる秘密の場所
アメリカの現代文学を代表する作家と言うよりも、アメリカ現代文学の巨人と言う方が似つかわしいトマス・ピンチョン。寡作、膨大な文字量に加え、博学、誇大妄想、横滑りに時空の自由な横断と過剰な享楽快楽道楽自堕落、その計り知れない時間と空間の広がりの中で、読者はひたすら戸惑い続ける。ピンチョン作品を映画化するなんて、どうやっても無理。まともな映画にできっこない。60年代から70年代カリフォルニアを舞台にした「LAヴァイス」もそんな小説のひとつだ。
だから無理は承知。物語はダイジェストで十分だと、この映画は宣言しているかのようだ。探偵である主人公の現在と別れた恋人との過去が入り乱れ、元恋人と彼女の大富豪の愛人の失踪、その疾走の謎を追うというとりあえずの物語が流れるうちに巡り会う事件と事故と更なる謎の数々。断片化されたそれらのエピソードが重なり合い絡み合い縺れ合う。探偵は一体何を探していたのだろうか。映画を観た誰にもそれを説明できないだろう。そんな断片の混乱。しかしその中で、音楽だけが、どれもほぼ1曲丸ごと流れる。その曲を聴いただけで、否応無しに心が躍る、胸騒ぎがする。これは映画ではなく音楽で、わたしたちは音楽をこそ観ているのだとさえ言いたくなる。
確かに音楽の時代だったのかもしれない。ラジオから流れるアメリカの音楽に世界中が心をときめかせ、その歌が示した鮮烈な光景を全身で観るように聴いた。そんな日々があった。その光景の強さ、あの日あの時の会話、あの場所の光。印象的な音楽が示す光景が、わたしたちの身体を駆け巡る。だが目の前に映るこの映画の風景は、それとも違う。何しろホアキン・フェニックス扮する、もじゃもじゃ髪のだらしない探偵。退屈な時間が流れる。いや、流れるのではなく、断片が重なり混じり合うに連れ、時間は希薄になる。透明になる。生きていることと死んでいることとがイコールとなる。探偵は、そんな場所をこそ探していたのではないのか。そしてそれこそ「映画」。生と死が限りなく近づき、戯れる秘密の場所。わたしたちは探偵とともに、「映画」を観るのだ。
(樋口泰人)