チョコレートドーナツのレビュー・感想・評価
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その子にとって本当の家族は誰か
『ゲイカップルがダウン症の子供と暮らす』
どんな設定だよ、と気になり見始めたら最後の最後までのめり込んでしまった
素直で愛らしいマルコは、それまでの暮らしはいいものとは言えなかったが、ルディとあのタイミングで出会ったこと、衣食住を当たり前に与えられたこと、2人の父親からたくさんの愛情を注がれたこと
たった1年だけれど、彩りのある充実した生活だったんだろうなぁ
とにかくアラン・カミングの演技が素晴らしかった
・マルコを一晩家に置いて、ポールに電話をした直後に手を繋ぐ
・嬉し泣きをしたマルコを抱き締める
・歌の発表でわたしたちの自慢の子、というようにポールと目を合わせる
どこをとっても慈愛に満ちていて、母親にしか見えなかった
ルディの歌にのせたホームビデオが幸せに溢れているのもとっても良かった
だからこそのラストはズドンと落ちたし悲しくてたまらなかった
ルディとポールの悲しむ様子(涙の描写)が無いのがより苦しい
マルコの切ない背中
最期まで二人がいる世界、ハッピーエンドを目指して歩いたのだろう
裁判のシーンでのポールの台詞、涙ながらに訴える表情
、そして復讐にもみえる手紙も、ルディのように激情型ではないからこそできる行動
マルコへの愛情はルディ程ではないのかなと思いきや熱いじゃないか!とまた泣いた
収入の安定していないルディがマルコの世話をしようとすることや、あまりにも早い同棲、ダウン症児との生活がファンタジーすぎるなど現実的ではない部分もあるがそこは映画ということで
ゲイカップルという描写、
全く気にならず誰よりも子供を愛す両親にしか見えなかったが、レビューをみる限り嫌悪感を抱く人はいるわけで、、難しいんだろうなー
自分が親の立場になったらまた見たい
血のつながりなんて関係ない。
たまたま隣同士に住んでいた、ゲイのルディとダウン症の少年マルコ。
ある日、マルコの母親が薬物所持の罪で連行されてしまいます。
ルディはそんな彼に愛情を持って、家族として一緒に生活をする決断をしますが、
世の中は法律も含め、彼への偏見で二人の関係が悪影響だと保護施設行きが妥当だとします。
この不利な状況で戦うゲイカップルの愛情溢れるお話です。
今でもLGBTQの差別偏見を無くそう。
現在、世間がその垣根が低く感じていて色々な生き方を受け入れようとしているが、
本作品は、1970年代のお話で実話がベースになっています。
この話は色々なメッセージがあると思う。
まず、差別という問題も大きなテーマであると思う。
そして、子供は親を選べないという事。
世の中で苦しんでいる子供が沢山いるんだと思うと辛い。
毎日の様に流れる虐待のニュース、何も罪がない子供が亡くなる現実。
色々と考えさせられる映画だった。
ゲイの映画だとか先入観と偏見を持たずに是非とも見て頂きたい。
『幸せを大切にし、それを守ろうとしたのに守れなかった』大人たちの物語
『幸せは自分で守るべき』という映画ではない。なぜならこれは『幸せを大切にし、それを守ろうとしたのに守れなかった』大人たちの物語だからだ。しかも誰かが悪いわけでもない。幸せを壊した方の大人たちも、70年代という時代の中、社会的な分業の中で自分の職責を果たそうとしただけだった。
両方の正義が衝突している間にマルコはボロボロになり、最後の決着では生きるのにあまりに過酷な環境へ追いやられてしまった。主人公たちが「あっちはマルコの実母。こっちは赤の他人」という事実によって、深い愛情とは対照的にアッサリと裁判に負けてしまう。『どうしようもない失意のどん底』の感情を実にうまく描いていると思う。
主人公の歌声があまりに美しいため、ラストシーンはどん底による暗澹たる気持ちだけではなく、マルコと過ごした幸せだった時間も蘇らせている。
あらすじ
二人のゲイ(「ゲイバーのパフォーマー」と「地方検事」)が一人のダウン症の少年(マルコ)を引き取って育てる。そこには真実の愛情が生まれるが、70年代の空気(同性愛者への偏見)の中で裁判により引き離されてしまう。
マルコは実母の元で地獄のような生活に戻される。母親は薬物中毒で、マルコをボロアパートの廊下に出して知らない男と行為に及んでしまう。耐えられないマルコは一人で家を出てしまうが、死体で見つかるという話。
ゲイの二人が出会ってマルコを引き取るまでは実にとんとん拍子で話が進む。この映画は97分しかないし、描きたいのは幸せを守れないプロセスだろうから序盤はあっさり。地方検事が家にマルコを受け入れるところなんて「お前はまだマルコにそんなに愛着ないだろ!w」と思ってしまった。でもテンポ大事だもんね。
社会制度に幸せが引き裂かれるプロセスが描かれる
実母が薬物で捕まってしまったのでマルコを引き受ける(一時監護権)ための法的な審理を受ける主人公二人。主人公二人は「我々はいとこ」だとウソをつく。このウソを礎にして監護権が認められ、3人での幸せな生活が営まれる。だが礎がウソなので、これがバレてしまうとさあ大変。マルコは施設に取り上げられる。彼を取り戻すために二人は永久監護権に変えて再度審理へ臨む。
70年代の空気の中、主人公たちは「同性愛者の男二人がダウン症の子どもを養育なんてできるのか」という社会の疑念にどうにか勝たなければならない。今度は証人として養護学校の教員、ゲイバーの同僚、児童福祉の担当者が呼ばれて次々と証言する。彼・彼女らは同性愛者に懐疑的な社会の風潮などどこ吹く風で、主人公二人が養育者としていかにふさわしいかを証言する。彼らが育んでいた愛情がまぎれもないために、証人たちがややもすると困難かもしれない証言であっても堂々と言ってくれる胸のすくシーンである。
しかし審理では永久監護権が却下される。
ついに裁判へ持ち込む二人。これまでのマルコへの愛情を再確認し強い決意で裁判に挑む。だが実母が早期釈放されてしまうと為す術もなくあっさり負け。マルコは施設から実母の家へ送還されることに。さっさと書いてしまったが、この過程で主人公二人はマルコへの愛を再確認し、どうしても彼を育てたいという気持ちを確かめていた。しかしどれだけ真摯な愛情があっても、実母の存在の前では(それがどれだけダメな母親であっても)裁判上まったく敵わないのである。このむなしさ、どうしようもなさ、失意のどん底が実によく描かれている。
言葉にならない感情を表現する
判決に従ってマルコは実母のもとへ帰される。マルコは家に帰れると聞いて喜ぶが、実母の家の方だと気付くと「ここは家じゃない」と言って聞かなくなる。だが押し込められてしまう。
家では前と同じように腐った母親が大音量でロックをかけ、知らない男とクスリをやっている。マルコは前と同じように少女の人形を抱きしめる。三人で幸せな生活をしているときには見かけることがなかったあの人形である。元に戻ってしまったのだ。廊下に出されたマルコはそのまま一人で外に出て行ってしまう。このシーンはラストにつながるところだが、これまでもマルコが一人で出かけてしまうことが描かれていたから、観ている方は「そりゃ出ちまうよな」と納得して自然に観ることができる。
ここまでひどくはないが、不安でいっぱいの家庭を味わったことがある者ならマルコの境遇には同情せずにおれないだろう。しかも貧しくて逃げ場の無いような狭い家ならどうしようもない。外に逃げ出すしかない。マルコの表情は安心と愛情を奪われ、不安と恐怖におびえる子どもの心を実によく現わしていた。
あるプロの批評コメントでこんな趣旨の指摘があった。主人公の一人(パフォーマーの方)がマルコを愛する理由は描かれないがそれでも納得感があるのは、彼の演技からこれまでの人生でどれほどの偏見や無理解に苦しめられてきたかがわかるからだろう。一人でいるときに震えるまつげ、顔をくしゃくしゃにしてマルコに微笑む姿、といったどれも印象深い表情である。この指摘は確かにその通りで、こんな繊細な彼だからこそ失意のどん底に落ちてしまっては敵わないのである。
このゲイパフォーマーの主人公は実力が評価され自分の歌声を披露する機会を得るのだが、これがめちゃくちゃうまい。この歌の歌詞がひとり彷徨うマルコとオーバーラップし、彼こそがマルコと一緒にいるべきであったことが強調される。
悲しすぎる
すごく感動するんだけど、あまりに悲しすぎる。
この作品を見る前と見た後、ものの見方が変わりそうな衝撃を受けた。
テーマとして似ているのは「万引き家族」と「わたしは、はダニエル・ブレイク」だろうか。
法の隙間みたいなとこにいて、いわゆる常識じゃ守れない人たちを描いた作品。
幸せって人それぞれのものだから、
誰かが決めた”普通”じゃ叶えられない人が出てきちゃうわけで。
それって、たとえば法律とか常識とか
そういう巨大な力に踏みつぶされそうになったとき、どうするかっていう。
マルコの“ It's not my home."が、もう涙なしじゃ見てられない。
社会がどうのとか言うつもりは無いけど
家族の幸せ、子供の幸せと、自分の幸せを同じ線上に据えていきたいと強く思った。
最後にもう一度。
作品として素晴らしいのはもう脱帽するしかないくらいなんだけど
もうちょい救いを残してくれても良かったんじゃないの、とは思う。
差別、偏見は良くない。けれどそれぞれの正義もまたあるのかも。
お話では、マルコの自由や尊厳は認められず命まで奪われてしまいました。同時にルディーとポールの親としての存在も認められていないように感じ、悲しく思いました。
しかし最後の方で、黒人弁護士が「正義なんてないって、法律学校で最初に教わらなかったか?」「それでも戦うんだ」と言っていてまさにその通りだと思いました。
見る観点が違うことで、正義にも、悪にも、なってしまう…そんなことを考えさせられました。
この作品を見終わって、せめて私だけでも、他人への偏見や差別は持たないようにしようと思いました。
マルコ~、うますぎるよ!!
マルコ~、演技がうますぎるよ!! 演技じゃないかな。でも、とにかく凄いよ~!!
いやあ、感動した。感動した。感動した。
当時(2012年)は、電通がLGBTという言葉を認知しているかの調査の第1回を行った年。自分は当時、残念ながら自信をもって、LGBTに理解はなかった。まさに無理解。たった8年前なのに。この映画に渦巻く無理解で冷酷な周囲とまったく1mmのズレもない。今だからこそ、こうやって観ているが、当時の俺は、毛嫌いして観なかっただろうし、観たとしても、一言、「気持ち悪い」で終わっていただろう。
そんな俺が今はこうして、観て共感して、感動している。映画のおかげだ。俺へのLGBT教育は、ほんとうに映画がしてくれたと思う。この5年間観てきた映画で、多くの学びを得た。次から次へと映画を観ていくことは、LGBTの理解というか、"差別とはなにか" を俺にわからせてくれたように思う。ゆっくりとだが、確実に。ありがとう、映画。
誰にとっても、「自分のために」観る価値があると思う。差別のない世界をめざすために。
「ある一人の人間について知ったうえで、知恵を絞ってください」(少し意訳)
「家に帰るのなら、道が違うわよ」このセリフが、こうラストにつながるとは…。
子を産んだだけで”親”になるわけではない。だから「子育て」は「(親自身の)個育て」とも書くという。
昔、放送大学で聞いた講義で「子が育つには、母性と父性が必要だ。けれど、母性を男性
が担ってもいいし、父性を女性が担っても問題ないという、(幼児を対象とした)調査結果がある」と聞いた。
そんなことを思い出した。
そんなことを裏付けるように、ルディとポールの表情がどんどん変わってくる。
正直、わざと毛むくじゃらのままにしている?と思いたくなるような、むさいルディ。最初の登場で、女郎蜘蛛かカマキリかという目力の勢いでポールを落とす。それが、ラストのシャウト直前の、鏡の前の表情。ちあきなおみさんか?と目を疑った。酸いも甘いも生き抜きながらも微笑んでみせる深みのある女性にしか見えなかった。うっすら無精ひげは健在だというのに。
はじめは、ルディを遊び用として接近してきたようにみえるポール。マルコに対しても他人事⇒ルディへのご機嫌取り。なのに、いつの間にか”父”そして”人生のパートナー”の顔になっている。
「ゲイカップルが障害児を育てた」という1970年代の実話と、監督カップルが養子を迎えようとした実話をベースにした映画と聞く。
『きのう何食べた?』のシロさんが常に備えているような老後の心配から、養子を迎えようとしているのではない。
ルディがマルコを手元で育てたいと希望する理由は「ひとめぼれ」以外には言葉では語られない。でも、表情で語ってくる。
”世間並”ではないマルコ。常に母から、ぞんざいな扱いを受けて隅にいるマルコ。ルディは自分を重ねたのではないだろうか。自分の性的嗜好をうまく隠し、社会に居場所を作っているポールに比べ、隠せない?ルディ。自分が親からやってもらいたかったことすべてをやってあげたかったのではないか。ありのままを認めることも含めて。
施設。
物語の中の施設で思い出すのは、『赤毛のアン』・『あしながおじさん』・映画『この道は母へと続く』…
今ではそんなに待遇も悪くはあるまい。とは思うものの…。
漫画『凍りついた瞳』にもあるように、児童福祉は、日本なら18歳で打ち切り。自立を求められ、昔の日本なら、住むにも、就職するにも、保証人を求められた。けれど、身寄りのないものは?今でこそ、お金で解決できる保証会社があるけれど。1980年代には、それゆえに日雇い等での稼ぎがありながらも木賃宿や路上で生活せざるをない人々がたくさんいた。
マルコの場合は?成人したら、日本なら、障碍者福祉という行政分野に移って、NPO法人系の人々のお世話になるんだろうな。でも、マルコが生きているこの年代・この土地ではどうなる?福祉的援助が続いたとしても、同じ人に支えられてなんていう望みはあまり考えられない。物流の”物”みたいだ。その時々の制度に合わせて配送先が決まる。
もちろん、ルディ・ポールの方が先に逝く可能性はある。けれど、彼らなら、そのことも見越して、一番負担ないように、マルコの居場所を用意しそうだ。映画『海洋天堂』のように。
親になるということはそういうことだ。自分が寂しいからとか、見栄とかの為じゃなく、子のありのままを認めて、子と一緒に成長して、子が受け入れやすい準備をすること。
雨露がしのげ、衣食住が保障される場所があればいいという問題ではない。勿論それは最低限の必要。
裁判。
ある法学者がその講義の中で「情が切れたときに、法が出てくる」と言った。
法で解決できる・答えを知ることができることもあるけれど、万能じゃない。
最近の、野田の虐待事件の裁判でも、相模原の虐殺事件の裁判でもそうだけれど、「それを法に照らし合わせるとどうなのか」しか論議されない。なぜそんなことが起こったのか、最善の方法は何なのかを調べる場所ではない。
この映画の裁判を見ていると、素人ながら、そこの反論こうすればとかつい口出ししたくなる。「あなたは子どものためにハロウィンで仮装しないのですか?」とか、「この人形をマルコに与えたのは?」とか、8ミリ録画はなぜ証拠として採用されていないとか、診察した医師を証人にしないのかとか。とか、とか、とか。熱くなる。
マクロな視点ではなく、その証拠が法的にどうかというミニマムな視点。痴漢・レイプ・DVの裁判でも、この小さな論点が、被害者に有利になる反面、場合によってはセカンドレイプにもなる。
親権をとるためには、法的な手続きが必要なんだけれど、法律では人生は図れない…。
この映画だけを見ると、麻薬常習者よりもゲイの方が環境に悪いって言っているように見える。けれど、これが、麻薬常習者カップルVS同性愛カップルの親権争いなら、両方却下だろうか。1970年代、今より同性愛へのあたりはきつかった。反対に、ピッピー等の存在により、コカイン・ヘロイン・大麻…麻薬等に対しては今より許容的だった。児童虐待の講義を聞くとほぼ必ずと言ってよいほど最初に説明されるヘンリー・ケンプ医師の『被殴打児症候群』がUSAで報告されたのが1962年。でも、それが一般的に認知されるはもっともっと後の時代…。
法は、私たちを守るもの。だから守らなければいけないと学んできたはずなのに。
ゲイカップルへの差別を描いた映画という人もいる。
でも、私には、目の前の人を大切にするということはどういうことかを、胸に刻む映画だった。
3人の、お互いを必要とし、お互いの幸せを考え喜び合う家族と、法的に”正しい”とされる人々とのズレや、マルコの顛末を、観客の胸に刻むために、あえてそうしたのだと思われるが、
マルコが天使過ぎて、ダウン症特有の子育ての困難さがまったく描かれていない。子育てを描いた映画ではないのでいいのかもしれないが、その困難さがあっても家族となりたい覚悟が描かれていたら、もっと「マルコのことについて考えてください」が地に足ついたのになとも思う。なので、-0.5。
尤も、二兎を追うもの一兎も得ず。配分を間違えると瓦解する。
マルコと過ごした日々をファンタジーとして胸に焼き付けるには、これが一番よかったのだろう。
愛を知りたい人は観てほしい。
(引用セリフは思い出し引用)
何度見ても涙なくしては観れない…
常識や経験は正しいとは限らない
偏見や憶測について考え方を変えられた映画
法律や経験談が必ず未来を捉えられるわけではない。
触れられはしなかったが高校でゲイだと気づいたドナテロの今までの生涯がひしひしと台詞や行動に現れていた。
愛情のままに動こうとする姿勢はかっこいい。
静かに沁みる
ようやく観た。
というか、こんなに素晴らしい作品を今まで観なかった自分を叱りたい。
何度も感じたマイノリティーへの偏見に対する怒り。ポールが静かにタイプし、手紙を読むシーンに胸を打たれた。
こんな理不尽な判定ありえない!あの憎たらしい上司役の勝ち誇った顔!憤りは尽きない。
せめてその後は偏見をはねのけるために正義に燃える弁護士になったと思いたい。
マルコの表情がすごくいい。原題とかなり違うのがちょっと残念だけど、チョコレートドーナッツを見るたびにマルコとこの映画を思い出すのは間違いない。
万引き家族で描かれた家族の定義をもう一度考える
個人評価:4.0
自分自身がLGBTの人達に対して、どのような考え方をしているのかを問いかける作品。
自分が判事ならどう判決しただろうと。
実の母親を前にして、マルコを引き取りたい気持ちの根底は、どこから来るモノなのか。
純粋にマルコの為なのか、それとも子供を産めないゲイのカップルの愛の象徴だったのか。どの様にも捉えられ、見る側も判断できない。
しかし、本作で1番伝えたかったテーマは、そんな大人達が集まって考えた決断でも、小さな命を守れなかったという事実。
本当の家族とは?血の繋がりだけが家族?そうじゃない。自分で選ぶ家族もあるはずだ。本当の家族になれるはずだった3人。それを認めない世界。
是枝監督が万引き家族で描いた家族のあり方を、別の角度で描いている。
劇中最後に母親の場所に帰り「自分の家じゃない」と訴えたマルコの言葉が印象的だ。
好きな映画の話で、必ず話題に挙げる映画の一つ。
学生の頃、友人も恋人も連れずになんとなく初めて1人で映画館に立ち寄った際、
偶然観た映画がこの映画で本当に良かったと、今でも幸運に感じる。
誰かと一緒に観るというよりは、1人でじっくり観るべき映画だったから。
アラン・カミング演じるルディは、観ているうちに女性にしか見えなくなる。
彼の纏う雰囲気、溢れる母性が、
どの女性よりも女性らしく、強く、温かく、そしてとても美しいと感じる映画だ。
彼のその演技、歌唱力はこの映画の見どころであること間違いなし。
そして私もいつかルディのような、真っ直ぐな愛のある「母」になりたいと、強く思う映画だった。
マルコ、ルディ、ポールの3人は、周りからしたら少しばかりいびつな家族に映るかもしれない。
「1人の人生の話だ。
あんたらが気にも留ない人生だ」
裁判官、検察官、ポールの元上司、そしてマルコの戸籍上の母親・・・。
法に則り、固定概念に縛られ、正義を振りかざしているつもりで真実の愛を見ようとしない、見ることができない哀しい人たち。
本当は彼らにとって、マルコの人生とは、この裁判が終わったら「気にも留めない人生」でしかないのなら。
これまで数え切れないほど裁いてきた、ちっぽけな人生の一つでしかないのなら。
どうかそんな必死になって引き裂こうとしないで。
偏見や差別で彼らを隅に隅に追いやって、世の中から弾き出したのは誰?
それは偏見や差別を持つ彼らのような人々だ。
彼らによって弾き出された先で、世の中の隅っこで、やっと見つけることの出来たささやかな幸せだ。
それなのに、これ以上何を奪いたい?
どうすれば気が済む?
マルコの死は、マルコを死に追いやった彼らに束の間の罪悪感を与えるかもしれない。
しかししばらくするとそんなことなど忘れて、マルコの人生など「気にも留めない人生」の一つとして記憶の奥に埋もれていくのだろう。
マルコの死が彼らに与える影響は、残酷で悲しいことにその程度のものなのだろう。
あまりに残酷なラストの傍ら、チョコレートドーナツを頬張ったマルコの笑顔を思い出す。
映画や小説のバッドエンドというものは嫌いではない。
しかしマルコの人生は、どうしてもハッピーエンドであってほしかった。
今の時代に見るからこそ、余計心に刺さる。
「泣ける話」という口コミと、長髪男子が微笑むポスターは知っていたけど。
マイノリティーな感じの話だし、ドーナツがどうしたの?。
と見逃していた自分に、喝!
まずポスターの青年が誰か気づいてませんでした。大好きなアラン・カミンとは。ますます喝!
いろんな人がいろんな生き方で、日々過ごしている今。
当たり前になりつつあるのは、過去にいろんな人が涙してきたからこそなんだな。
弁護士ポールは、最初ゲイであることを職場に隠し。ルディをいとこ扱い。
職場にルディとカップルであることがバレ(ここの上司が嫌味男)、クビに。
「偽りの人生を捨てて本当の自分に。今こそカミングアウトして、世界を変えよう」。
ルディの胸を張っている生き様が、かっこいい。
そんな二人とともに生活し、たくさんの愛情を受けてきたマルコ。
「寝る前にお話しして。ハッピーエンドがいい」。
健気じゃありませんか。
3人で過ごした1年間。多分8ミリで撮った記録が、胸をざわめかす。
「こんな幸せな日々は、そんなに長くは続かないんだろうな」って。
マルコを誰が育てるか。ルディたちなのか、それとも。
裁判の場面が多かったのも、意外な展開。
「深い愛って、なんだ?」。
今の時代に見るからこそ、余計心に刺さる。これを泣かずしてどうする。
実に奥深い作品。是非。
洪水警報な話
たった1人でも誤った相手の耳に入れば、、、
マルコの担任この言葉が戦いの合図。
3人で過ごせたはずの家族の時間が奪われている描写
養育能力のない母親より、同性愛者が社会で受け入れられない現状に憤りを感じた。
2人が窮地に陥っただけではなく、マルコが犠牲になってしまった。
ハッピーエンドが大好きなマルコの結末に、辛い余韻が残った。
赤の他人
【余りに切ない物語だが、そこから問いかけてくるものを考えさせられる作品】
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