チョコレートドーナツのレビュー・感想・評価
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お涙頂戴と侮るなかれ
年のせいか涙腺が緩んで困る(笑)。
本作は、ヤク中の母親が逮捕されて天涯孤独の身になってしまったダウン症の少年と、たまたまアパートの隣に住んでいたという縁で彼を仕方なく引き取ることになった中年のゲイカップルの間に本当の家族のような愛情が芽生えるのだが周囲は理解してくれず…という物語である。
これが泣かずにおられようか。涙腺決壊である(笑)。
特にダウン症の少年マルコが涙を誘う。
マルコのポツンと寂しそうな背中が映るたびに涙腺が刺激されるのだけれど、物語もさることながらマルコ役を演じたダウン症の少年が撮影現場という緊張を強いられる場所で頑張って演技をしたことを想像してウルウルしてしまうのである。
ある意味ちょっとあざとい映画だとも言える。
ベースとなる実話はあるのだけれど、あくまでベースであって、少年の監護権を巡る裁判沙汰や、ラストに少年の身に起こる事件などは全て創作である。
物語のかなりの部分が創作だからといってこの作品の価値が減じるわけではないけれど、人によっては創作と知って興醒めしたと感じるだろうし、LGBTQに対する世間の差別的態度を強調するために話を盛っていると感じるかもしれない。
確かに本作はLGBTQに対する差別をなくそうという一種の啓蒙映画であって、物語自体はそんなに意外性はなくけっこう先が読めてしまうし、主人公たちの前に立ち塞がる保守的な人たちもかなりステレオタイプな描かれ方をしている。
一歩間違えばLGBTQのためのプロパガンダ映画になりかねないのであり、事実そう感じて拒絶反応を示す人もいるかもしれない。
でもこの作品はLGBTQのための政治的映画という枠を超えて自分の心に深く突き刺さってきた。
それはもちろん劇中のマルコ少年の健気な姿に涙腺を刺激されたというのもあるのだけれど、それよりも主演のアラン・カミングが体当たりで演じてみせたゲイの中年男性の生々しい姿に感銘を受けたというのが一番大きい。
アラン・カミングはバイセクシャルであることを公言しており、一度女性と結婚したが離婚して、その後男性と結婚している。
こういう言い方が適切かどうか分からないけれどアラン・カミングは「本物」であり、この映画には「本物」が持つ生々しい迫力が感じられるのである。
アラン・カミングは確かな演技力を持つ一流の俳優だけれど、とりたててイケメンというわけではない。もちろん顔立ちは整っているし華のある俳優なのだけれど、いわゆるハリウッド的な美男子ではない。しかも撮影当時アラン・カミングは四十代後半である。
うっすら髭の生えた中年のアラン・カミングがゲイバーで女装して歌う姿や裸で彼氏とイチャつく姿など、こう言ってはなんだけれど美しくもないし格好良くもない。
この、美しくもないし格好良くもないゲイの中年男性の生々しい姿を堂々と演じ切った「本物」のアラン・カミングの姿を見て、たとえ周りや世間から嘲笑されようと毛嫌いされようと自分自身のセクシャリティに正直に生きることの大切さ、いや、セクシャリティに限定しなくても自分自身に正直に生きることの大切さを教わったような気がして自分は震えるほどの感銘を受けたのである。
この作品は、自分に自信があって世間を堂々と渡っていける強い人たちから見れば、LGBTQの政治的主張が鼻につくあざといお涙頂戴映画ということで片付けられてしまうのかもしれない。
でも、さまざまなコンプレックスを抱えて世間の中で生きづらい思い、肩身の狭い思いをしている人たち、かく言う自分もそういうコンプレックスだらけの一人なのだけれど、そういう人たちにほんの少し顔を上げ、ほんの少し胸を張って生きる勇気を与えてくれる、そんな稀有な映画でもあるのだ。
お涙頂戴と侮るなかれ。
自分は本作の製作に携わった全ての人に、よくぞこの作品を世に送り出してくれたと最大級の感謝を捧げたい。
すごく考えさせられる作品
合同会社everfreeの代表、梶清智志です。
TikTokのお薦めで上がっていたので鑑賞してみたのですが、すごく考えさせられました。
深く胸に刺さる作品でした。
偏見や制度に翻弄されながらも、「愛すること」「守ること」に誠実であろうとする主人公たちの姿が印象的で、何度も心を揺さぶられました。
小さな行動が社会を変えていく、その連鎖の力を信じたくなる物語。
悲しみも希望もリアルに描かれ、「本当に大切なこととは何か?」と静かに問いかけてくるようでした。
ラストには言葉が出ませんでした。
ものすごく衝撃を受けるとともに、深く深く心に刻まれるものになりました。
経営者として、会社を、事業を営む者として、自分の行動を見直すきっかけになりました。
今を生きるすべての人に観てほしい、魂に触れる作品です。
他者を認める
アラン•カミングさんを初めて観たのは、
ドラマ『グッド•ワイフ』。選挙請負人?
短髪でいつもスーツのキリッとした紳士。
ルディの外見にはちょっとビックリした。
職業はバーの歌手&ダンサー。
女装してドラァグクイーンだが見た目ムサい。
もっと歌手として活躍したいと希望を持つ。
パートナーのポールは弁護士。
離婚歴がある。
ルディと付き合う時点でカミングアウトはしていない。
国が違うからか鈍いからか、
男性2人が連んでいても友人だな、ぐらいにしか。
だが、作品中では2人をゲイカップルと決めつけた
言葉や態度が何度も見受けられた。
さらに蔑みの視線。
🇺🇸では同性愛者の権利が州法により様々らしいし、
人々の意識なんて想像できない。
数年前に教育用として
お父さんと多分10歳前後の息子が出かけボートに乗る。
そこへお父さんの恋人❤️として男性が一緒に乗る。
3人が楽しく談笑する様子のストーリーが表された
絵本を見た。
どこの国だったか?欧米だった。
ポールはルディから何度も認めろ、カミングアウトしろ、
と促されていたが、なかなか。
職業柄、言いにくいのもあるのだろうか。
この事もいろいろ考えさせられる。
同性愛は、私の理解の範疇を超えているのだが。
愛情というのは、本人の気持ちによるモノで、
他者が愛せ、嫌え、と言ってもできるモノでは
無いとはわかっている。
だから、異性ではなく同性しか愛せないのなら
仕方ないことだと思う。
この考えからだと偏見や差別が生じない筈だが、
現実は違う。
子孫繁栄から考えただけでも間違っていると
捉えられるのかもしれないが。
そして多分、人間だけだろう。
ルディたちがマルコに執着する気持ちがわかりにくい。
法廷でポールが、
「太って背の低い知的障害児を誰が養子にする?
俺たちしかいない。」 と言ってた。
この言葉では理解しにくい。
マルコの純粋無垢な心❤️が好きだったのか⁉️
法廷で裁判長がいろいろな証人の話のもとに、
2人が愛情豊かにマルコに接し、
マルコも2人が好きでいろんな面の成長もある、
と認めているのに‥‥。
検察の差し金か、マルコの母を異例の措置で
釈放して、マルコを引き取らせる。
実の母子が一緒になるのだから、ルディたちには、
手も足も出ない。
子を思う普通の親子なら幸せだったかもしれないが、
そうなら以前にマルコがひとりぼっちには
なったりしていない筈で普通の親子じゃなかったからだ。
なぜ裁判所とかはこの事実に目を向けようとしないのだ。
母親が急に子供思いになったと思っているのか。
マルコの人権を無視したな、みすみす‥‥と私は理解。
大学進学も、独り暮らしも、就職も望めない
昨今のポリコレは・・・
「ハッピーエンドがいい」の言葉が・・・
作り手側の熱量と優しさを感じる
ルディの前向きな性格に勇気をもらえる
色んなところでおすすめされて気になってた作品。障害者とLGBTの話とかどうせお涙頂戴でしょ?と期待してなかったけど、今作は最初からグイグイ引き込まれた。
ルディの前向きな性格に勇気をもらえた。ただでさえ自分がゲイで生きづらいのに、他人の子でしかも自閉症の子を育てようとする覚悟がすごい。
アラン・カミングの演技力も抜群で、見た目はおっさんなのに立ち振る舞いとか仕草で女性にしか見えなくなってくる。
ハッピーエンドじゃないのに驚いた。マルコの「ハッピーエンドが好き」発言は死亡フラグだったのか...。
ただ個人的にハッピーエンドは好きじゃないので、バッドな終わり方で好きだな。こっちの方が現実は上手くいかない感が出ててリアルに感じたし、難しく重いテーマの雰囲気と合ってたと思う。
素晴らしい
マルコかわいい。
ラストが読めてしまったのが残念。
事実はどうなのか知らないけど、
でもそれが一番ましな終わり方なのかもしれないと思った。
あのまま二人を待ち続けて生きながらえると思ったらやり切れない。
途中あれやこれやと考えてしまって消化不良。
でも何度観てもそうなのかもしれない。
アラン・カミングが好きで観たけどやっぱり大好きなアラン・カミングだった。
とりあえずマルコが素晴らしくかわいかった。マルコかわいい。
人々が寛容でない時代の歪み
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主人公のオカマの隣人がドラッグで逮捕、子供が施設に預かられる。
この子供はダウン症で、施設がイヤで自宅に戻って来た。
オカマは哀れに思い、自分が親代わりになろうとする。
オカマの恋人は弁護士で、手続きを踏んで里親になる。
ところが当時はまだオカマが受け入れられない時代だった。
オカマの恋人の上司が2人の関係に気付き、恋人はクビ。
さらに裁判所に裏から手を回され、この子供も2人から取り上げられた。
そして本当の母親が子供を引き取る約束のもと出所を許された。
その母親は、この子供を毛嫌いするろくでもない男と交際した。
愛情に飢えた子供は冬空のもと、昔の家に戻ろうとして凍死。
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実話をもとにつくられた作品らしい。
性に寛容なアメリカでも、少し前までオカマに厳しかったのな。
オカマにせよダウン症にせよ、理解され出したのはほんの最近なんやなあ。
もう少し実話に寄せても良かったのでは
ラストが残酷すぎる。。現実のルディさんは美容師だったようだし、マルコの母親がジャンキーなのと、近所に住んでたルディさんがマルコを育てたのは事実らしいけど。その他は全くの創作だから、現実はあんな悲しい最期ではないと知ってホッとはしたけど。実際はどうだったのだろう?他人の子どもを、ましてや障がいのある子を育てるなんて、なかなか出来ることではないし、苦労もしただろうし、ルディさんは本当にすごい人だったんだなぁと尊敬する。
そしてこの映画は配役が良い。アランカミングさんは表情も演技も、本当に魅力的な人だなぁ、とファンになった。マルコ役の子もすごく可愛かったし。ヒガシの舞台も良かった。
差別・偏見と闘う、真実の家族愛!
初めて鑑賞し観終わった時は、しばらく動けずに感傷に浸るしかなかったことを覚えています。本当の家族とは本当の愛とは何なんだろう。ラストの結末には、胸が締め付けられる思い出いっぱいになりました。なぜ、こんなにも優しいく温かい人たちが幸せになれないのだろう…、なぜ幸せな家族になれないのだろう…。悔しさすら覚えてしまいます。
マルコの事なんかどうでもいい大人たちの、偏見と差別はいったい何なのだろうか。本当の親でない同性愛者ということだけで、なぜ裁判でそこまでする必要があるのだろうか。特にポールの上司の行動の意味が分からなかったです。
ルディが言いました。
「一人の人生の話だぞ、あんたらが気にも留めない人生だ!」
ポールも言いました。
「この世界中で誰も彼を求めていない、私たち以外は。私たちは彼が欲しいんです。彼を愛しているんです。」
言葉が深く響きます。ほんとです、なんでマルコの幸せを第一に考えてあげ無いのだろうか…。本当の母親の元に戻されるマルコは何度も言うんですよ!
「ここは、おうちでない。」
と。。。なのに、なぜ…。
本作は、このように胸に刺さる名言が本当に多かったと思います。1つ1つの言葉が深く全てに意味があります。ルディが歌う歌詞ですらも。
本当に心に残る映画でした。何度みても涙がこぼれます。ただ、本作を観て思ったのは、現代社会でも問題となっている子供への虐待から守ってあげれないのと一緒ですよね。結局、昔も今も変わっていないのかもしれないと、思わせてくれる映画でもありました。
泣きそう
人に優しくなれる作品
テーマが重そうで敬遠していたが…評判通りこれは間違いなく名作だ。
やはり重いテーマだったが、できるだけポップに描かれているので救われる。
そして主演2人の表情がとて印象的で、目が離せない。思い出の8ミリビデオシーンはよくある系だが、本作では特に効果的でグッとくる。
「過ぎた望みですか?」「子供のためを考えてください」「一人の人生の話だぞ」このシンプルな想いが、なぜ届かない?
「小さく埋もれた記事」「あんたらが気にも留めない人生だ」本当に残念で怒りも湧かないほどに落胆してしまった。
なかなか差別が無くならない人間社会、本作品の時代設定から40年ほど経った現在において、果たして同じ過ちを繰り返してはいないと本当に言えるだろうか。
血はつながらなくとも
切ない物語なのは、観る前から分かっていました。
基本、ハッピーエンドじゃないと映画見た後、へこむので
見るのを躊躇してましたが、★4超えてくる作品はなかなかないからどーしよーかと思って意を決して観ましたが
まず、マルコを二人が引き取ってから1年間のしあわせな日々の映像が流れた時点で号泣
あの、しあわせそうな笑顔が余計切なくさせます。
マルコは自分を蔑ろにしていた血のつながった母ではなく
血のつながりはないけれど、自分を本当に大切にしてくれたルディとポールのもとに帰りたかったんですね
周りが必死になってあの二人からマルコを引き裂こうとしてたのは、どんなに隠しても人間に備わってる恐れや不安からくる、異物を排除しようとする本能がそうさせてるのだと思いました。
自分達とは違うから、変なもので受け入れ難いものであるから、苦しんでもいいと思う。自分とは関係ないからと。
そんな残酷な考えは本当に嫌ではあるが、人間誰しも持ち合わせている本能だと思う。
だからこそ、人生を通して自分が弱い立場に立った時や、誰かに意地悪された時、また、自分が意地悪を誰かにしてしまった時、などいろんな経験を通して相手の気持ちになれるように、自分と違う人も受け入れられるように、学んでいくんだと思う。
法律事務所のボスや判事や弁護人たち、マルコを二人から引き裂いた人たちが、マルコやあの二人の境遇を少しでも 想像できていたら、もっと違った結果になったのかなとも思う。
あと、今の自分の生活がとてつもなく幸せに感じた。
心の底から幸せだと感じた。
それほど、この作品にはパワーがあった。
本当にいろんなことを考えることができた、素晴らしい作品だった。
生みの親より育ての親
imdb7.4。
Rotten Tomatoes79%と76%。
日本の主要映画レビューサイト(Yahoo映画、映画com、Filmarks)はすべて4超えだった。
海外の評価もいいが、評点からみても日本ですごく受けたし、いかにも日本人受けそうな映画だった。
(大受けの結果、2020年日本にて、世界ではじめて舞台化された。──とのこと。)
じぶんは皮肉っぽいが逆ばりやあまのじゃくは言わない。
したがってチョコレートドーナツは悪くない映画だった──という前提で言うのだが、この映画の日本での勝因は①社会的弱者orマイノリティ②虐げられた無辜(むこ)の者③フランダースの犬最終回──のセット導入だった。
このセットは日本映画「湯を沸かすほどの熱い愛」でも使われ大受けした。
端的に言うと①弱者②正直者③露命の三点セット。
三つとも臭気材料なので演出ポイントは臭み取りになる。
が、湯を沸かすほどの熱い愛では臭み取りがされていなかった。
なぜなら日本人にはお涙演出に対する耐性があるから。
チョコレートドーナツが日本人にウケたのはとうぜんだった。
(個人的に、この映画は「湯を沸かすほどの熱い愛」や「彼らが本気で編むときは、」に、直截的な影響を与えている──と思っている。)
──
えてして肉親が親として最良なわけではない。
親としてふさわしい他人はいるし、まともな人間に育てられる以上に健全な未成年期はないだろう。
そんな“ふさわしい親”からマルコ少年を引き離したのが時代性や司法だった。
1979年当時カリフォルニアでは同性愛嫌悪が蔓延していた。
法律上ゲイカップルに親権が認められてもいなかった。
逆に言えば、映画の構造的な緊張はただそれのみだった。
マルコ少年がルディとポールのもとで暮らせることになれば、マルコ少年からチョコレートドーナツを取り上げることさえできたに違いない。
境遇が不憫だから、誰も止めはしなかったが、彼は太り気味なうえ虫歯だらけだった。まちがってもチョコレートドーナツなんか食べさせてはいけない子だった。ほんとうにマルコ少年を思いやるのであれば、泣きわめかれてもチョコレートドーナツの一日の個制限を教え聞かせるべきだった。
そもそもマルコ少年の健康状態を慮る(おもんぱかる)なら彼を蝕むチョコレートドーナツをタイトルとすることなどあり得なかっただろう。
つまり邦題は完全に叙情に振っていた。泣かす気まんまんだった。
ただ時代とともにLGBTの権利は進化している。
本作が一昔前に設定されているのは、狭量な世界を体現し、登場人物たちを憂き目に遭わせるためだ。
すなわち映画は強引に三点へ落とし込んで悲哀な状況をつくっていた。
だいたいマルコ少年が母をたずねて三千里の主人公名と同じなのはさいしょから日本市場を狙ってのことかもしれない。──とさえ思った。かなり精密・意図的に日本人の琴線を撃ってきた映画だった、と思う。
しかし日本人であろうとも、お涙臭気=“泣かそうとする気配値”に敏感に反応する人はいる。じぶんはそうだ。だからすきじゃない。
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