ダラス・バイヤーズクラブ : 映画評論・批評
2014年2月18日更新
2014年2月22日より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにてロードショー
劇的な感動を抑制し、折々の実感を拾い上げる
減量や増量は、いまや珍しい役作りではなくなった。「レイジング・ブル」のロバート・デ・ニーロを見たときは愕然としたものだが、「マシニスト」のクリチャン・ベールにはそう驚かなかった。「ダラス・バイヤーズクラブ」のマシュー・マコノヒーは、それを承知で20キロ以上の減量に踏み切っている。
勝負は減量の先だ。マコノヒーは、たぶんそう考えた。彼が扮したのは、エイズにかかったテキサスの電気技師ロンである。酒とドラッグと娼婦が好きで、ゲイを毛嫌いする典型的なレッドネック。そんな男がHIVウィルスに感染し、病院で余命30日を告げられたらどういう行動に出るか。
こういう話は、「難病もの」にしてはいけない。ダビデがゴリアテに挑む話にしても、予定調和になってしまう。まあ、後者の要素はどうしても入り込まざるを得ないが、その上で観客を納得させる必要がある。
もっとも、ロンは実在の人物だ。彼は意表をつく行動に出た。合法的な会員組織を作り上げ、会費を取る代わりに、政府が承認していない薬を会員に配布したのだ。最初は自分自身のためにはじめたことだが、それが奇妙な広がりをもっていく化学変化が面白い。
このプロセスで、マコノヒーはおかしくて陰翳豊かな演技を見せる。感傷や英雄主義を避け、孤立無援のロマンチシズムに足を取られない芝居。いいかえれば、マコノヒーは観念や情緒の暴走に振りまわされることなく、ひとつひとつの行動に伴う折々の実感を根気強く拾い上げていくのだ。だからこそ、彼の表す怒りや笑いや悲しみは、場面によって色や温度が異なる。脇を固めるジャレッド・レトやジェニファー・ガーナーも、マコノヒーの演技を妨げることなく、映画の外堀を着実に埋めていく。劇的な感動の抑制は、「ダラス・バイヤーズクラブ」の憲法第1条だった。
(芝山幹郎)