「フィロミナさんこそ奇跡。人としての器。」あなたを抱きしめる日まで とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
フィロミナさんこそ奇跡。人としての器。
「赦しには苦しみが伴うのよ」それでもあなたは「赦す」という。どれだけの思いで発せられた言葉なのだろうか。
この、人としての器の大きさを示す言葉を、絞り出すように口にしたのは、
宗教者でもなく、
国一番の大学を出て政治の中枢に関わっていた、知的なエリートでもなく、
車に乗ればお菓子を差出し、ビジネスクラスや高級ホテルのサービスに興奮し、今直面している悩みのためとはいえブランデー1本を一人で空けてしまい、とんでもない言葉を口にし、リンカーン記念館よりTVドラマに興味を示し、ロマンスが大好きな、下世話で俗物っぽく描かれる田舎のおばさん。
正直、品性が劣ると見下しがちなおばさんが、シスターよりも、かってファーストクラスに乗っていた記者よりも、実は人としては格段に人格者というラストの衝撃。
勝ち組・負け組という言葉は嫌いだとか言いつつも、どこかで人を値踏みしていた自分に気づかされて、冷や水を浴びせられたような気分になった。
他にも「上り坂の時に会う人は、下り坂の時にも会うから、いつでも感謝を忘れないことよ(思い出し引用)」とか、はっとさせられた。
趣向もそれまでの生き方も合わない二人の珍道中で、重くなりそうな話を重苦しくさせないための脚本と思っていたエピソードの数々。それが最後に大逆転として意味を持つ。
勿論、息子の生きざまによっては赦しどころの話ではないだろう。
そして、どんなふうに成長しようが、成長を見守り育てたかったという時間のロスは埋めようもない。
簡単に”赦す”という言葉ですむ話ではない。苦しい。苦しさに押し潰されそうになる。心がどす黒く染まっていく。そこに一条の光=”赦し”。その葛藤の繰り返しなのではないか。苦しさを手放す手段としての”赦し”。尤も、これが一番難しいのだけれど。
フィロミナさんは敬虔なカソリック信者だが、ある場面で教会に告解に行くものの、教会を出る時、聖水をまかなかった時がある。信仰を捨てたのか?
そして、”赦し”。
既存の”神””宗教”という枠組みを超えた”赦し”? 教義とかそんなものに縛られない、もっと高次元の、普遍的な”赦し”。
だから、カソリックを糾弾するのでもなく、一つの事実として、息子の生きた証として、本にまとめて欲しかったのかな。
この時代の教会での人身売買を簡単には非難できない。
『この道は母へと続く』でも、孤児の人身売買は描かれていて、もっとシビアな現実まで盛り込まれていた。
未婚の母。カソリックの根強い地域では、相当な苦労を強いられて、母も、子も、まともに生活できないと聞いている。売春婦や乞食等になって生きていく以外なかったと聞いている。
そして、子を育てるにはお金がかかる。昔の孤児院のイメージとしては『赤毛のアン』の栄養状態も悪くガリガリの体。今も昔も寄付や税金をつぎ込む以外に道がない。今の日本はタイガーマスクが時折現れるし、税金もあるけれど、昔は?
親と子。両方への情報提供も難しい。中には、実の親子とはいえ、恐喝ネタになる場合もあるし、それぞれの家族のこともあるし。
事態は複雑で一概に”こう”すればいいというものではない。
という事情を考えたとしても、
希望しない親の子を養子に出すなんて。
亡くなった方のお墓もちゃんとされていないなんて。
お互いが求めあっているのに、ひきあわせないなんて。
それが、快楽を求めた罰だなんて。
それが、宗教の教義だなんて。
否、聞くところによるとイエス・キリストは売春婦を弟子にしたとか。
となると、神の前に、自分だけ良い子でいればいいと言う、自分だけが正しいと言う、他を顧みない傲慢な態度が一番問題なんだろう。
だけれども、フィロミナさんは赦した。心の中に息子を抱きしめて。
まるで、観音様のようだ。
演じるデンチさんが素晴らしい。
ク―ガン氏は、『80デイズ』でも絶妙な演技をしていらしたが、ここでも良い味出している。
このお二人の抑えた、けれど、十分に伝わってくるおかしみ、悲しみ、怒り、絶望と救いがあればこその映画だと思う。
フィロミナさんは、ご自身の中でご自身なりの着地点を見つけられたようですが、他の引き裂かれた母子にも幸せが訪れますようにお祈りします。
とみいじょんさん、
2000 年前の当時からナザレのイエスは「女と貧乏人の神」と揶揄され、あざ笑われていたようですね。
なぜなら彼自身が当時のユダヤ教世界では許されざる「ててなし子」だったからです。
クリスマス・ストーリーは、今ではロマンチックな演出ですが、その実、結婚前に誰かの子を身ごもってしまった村娘を死刑から救い出した大工の若者の危機一髪の救出劇があったのでした。
聖書本文中にもマリヤのことを「大酒飲み=淫売」と周囲が呼んでいたことが記されています。
「ててなし子」と「未婚の母」の味方であり守り神だったイエス・キリストなのに、その後のキリスト教会の変容によって「裁きの神」に仕立て上げられていくのは恐ろしい事です。