インターステラー : 映画評論・批評
2014年11月18日更新
2024年11月22日よりロードショー
マコノヒーの体温が 宇宙の果てでも感じられる
量子力学や相対性理論は皆目わからない。SF映画(とくにスペースオペラ系)は年々苦手になってきた。CGやVFXにはわれながら冷淡だと思うし、重々しい哲学や宗教的な荘厳さにはついそっぽを向きたくなる。
にもかかわらず、私は「インターステラー」に見入ってしまった。CGの使用を最小限に抑えたのも要因のひとつだが、マシュー・マコノヒーが映画を牽引する力がめざましい。
マコノヒーは、幼い子供たちを残して宇宙に飛び立つ。滅亡が近い地球の代わりに人類の住めそうな星を探査するのが、元宇宙飛行士の彼に課せられた使命だ。ただ、行く先は遠い。ワームホール(時の道穴)を抜けた先には、タイム・ダイレーション(ある星での2年は地球の23年に相当する)が待っている。
砂嵐、火災、巨大な波、凍結した荒地。黙示録的なイメージが頻出することは予期していた。キューブリックに触発されただまし絵のような映像の構築も想定内だった。
驚いたのは、どんなに壮大で奇怪なイメージと交わろうと、マコノヒーの体温がつねに感じられたことだ。しかも彼は、狂気やヒロイズムやニヒリズムといったありがちな要素で芝居を組み立てない。困惑し、悔恨し、落胆しながらも必死で思考し、観客とともに未知の時間と空間をくぐり抜けていく。ノーラン作品の登場人物としては「ダークナイト」のヒース・レジャーに次ぐ奮戦だ。彼を見ていると、相対性理論も少しはわかったような気になる。
(芝山幹郎)