孤独な天使たち : 映画評論・批評
2013年4月17日更新
2013年4月20日よりシネスイッチ銀座ほかにてロードショー
73歳になったベルトルッチが切り取る若さの苦さ
うつむいた頭がスクリーン中央を占拠している。豊かな髪をもたげて現れた顔が「時計じかけのオレンジ」のマルコム・マクダウェルを少し思わせる。それを十分、意識している開巻。そこに監督ベルナルド・ベルトルッチは車椅子の分析医を置く。転倒事故後、車椅子の生活を余儀なくされた監督が、そんな自身のありかをナイーブとそしられかねない率直さで観客に明示するのだ。同様の衒(てら)いなさで監督は、マクダウェルが体現した反抗する少年の魂と対峙し得る自身の若さを新作に映す。胸にちくりとささる棘にも似た懐かしい青春映画を差し出してみせる。
ヘッドセットの音の壁で世界を遮断している14歳の少年は、スキー学校をさぼりアパートの地下室で一週間、“ひとり”の時空を満喫しようと計画する。そこへずかずかと踏み込む異母姉。彼女のわがままがゆっくりと愛おしさへと変わり、互いが互いの孤高の心を映す存在と思われてくる。孤独な少年と少女と歌うイタリア語版デビッド・ボウイに伴われたダンスに至るまでベルトルッチ映画の変わらぬ印(部屋の映画、年上の女……)を確認させながら、めくるめくキャメラの動きの官能に代わって目を奪うのが姉弟の心のドラマを支える少年の顔、外を遮り内を守る壁然とした無表情のアップだ。それは「時計じかけ~」の少年と同じ名をもつオレゴンの16歳の少年の顔をやはり物語りの芯としたガス・バン・サント「パラノイド・パーク」(目深にかぶったパーカのフード)を想起させもする。無論、安易な比較は禁物だ。が、バン・サントと重ねたくなるほどにベルトルッチの映画が親密な心の震えのドラマを紡ごうとしていること。その新鮮さは見逃せない。
終幕。希望の朝にオリジナル版のボウイ、広漠とした宇宙に漂う人の静かな悲しさをみつめる歌詞を重ねて人生の複雑さに見惚れる73歳の監督、その柔らかな目が切り取る若さの苦さにくらりと巻き込まれた。
(川口敦子)