危険なプロット : 映画評論・批評
2013年10月15日更新
2013年10月19日よりヒューマントラストシネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマほかにてロードショー
シニカルなスリラーとは異なる、きわめて個人的で誠実な人間ドラマ
今にして思えば、フランソワ・オゾン監督は長編デビュー作で「ホームドラマ」という作品を撮ったときから、「つづく」という文字によって物語が宙づりにされる連続ドラマの魔力に魅せられていたのかもしれない。「知りたい」という欲求をじらされればされるほど、よけい追いたくなるのが人間の心理というもの。オゾンは新作「危険なプロット」で、そんなからくりをじつに巧みに用いながら、操作する側とされる側の力学が逆転していくスリリングなサイコドラマを描いた。
始まりは文学をテーマにした教師と生徒の関わりだ。元小説家志望の国語教師ジェルマンは、有望な生徒クロードに出会い、自分の果たせなかった夢を彼に託すかのように発奮する。クラスメートの家庭について皮肉っぽく綴るクロードの作文は、いつも「つづく」という文字で終わっていた。そんな彼の指導に没頭するジェルマン。ここからがオゾンの真骨頂である。ジェルマンの情熱はやがてどちらが操られているのかわからない危うさを見せ、さらにクラスメートの母親に惹かれるクロード自身も書き手としての客観性を次第に失っていく。妄想、嫉妬、野心が絡み合い、どんどん危険な匂いが充満していくなかで、観客も監督の思惑通りに物語にのめり込んで行くはめになる。
だがそれでも、本作がヒッチコックのようなドライなスリラーと決定的に違うのは、監督自身も主人公のふたりに自己投影している所以だろう。同じく「創作」の苦しみとマジックを知る身として、オゾンはふたりに共感を寄せており、それが予想を上回るエモーショナルで余韻を残すエンディングに観客を導く。一見シニカルな娯楽作かと思いきや、きわめて個人的で誠実な人間ドラマに昇華されているという点に、この監督の個性と実力がにじみ出ている。
(佐藤久理子)