「シリーズから逸脱しない、極めて無難なゴジラ」GODZILLA ゴジラ チンプソンさんの映画レビュー(感想・評価)
シリーズから逸脱しない、極めて無難なゴジラ
1954年、水爆という人間の手によって葬り去ろうと企て、失敗した「ゴジラ」。
全生物の祖となる、“神”に等しいものとして畏怖する存在。
その神を殺そうとした人間の蛮行の反面教師のような存在として現れたのが、今回ゴジラの相手をする「ムートー」だ。
放射線を糧に繁殖、成長するムートーの存在は、ぶっちゃけて言うとゴジラよりゴジラらしい。
というのも今回のゴジラは、姿形は極めて巨大かつ壮大で圧巻する神の肩書きに相応しい描かれ方をしているが、一方でオリジナルの日本のゴジラのような世界の暗部を表現したような存在としてゴジラを描いておらず、
俯瞰的に地球を見据えた、本当に神という存在として描かれている。
俯瞰的な視点から見る存在という点では、もののけ姫のシシ神に似ている。そのぐらいこの映画のゴジラは大人しめな印象を受ける(咆哮は暴力的だが)。
そんなゴジラと戦うムートーは、まさしく原子力発電に使われている核物質そのもので、劇中ムートーを必死にコントロールしようと奔走する人間たちの思惑をことごとく壊していく。
「自然をコントロールすることは出来ない」と劇中でも登場する台詞だが、そのムートーは勿論(と言っていいのかな)ゴジラという神によって息を引き取る。
俯瞰的な視点から地球を見る神のゴジラが、人類の無謀な挑戦の相手であるムートーを殺すという結末は、一種の楽観的にも見え、ラストのゴジラのヒーロー的演出がその見方に拍車をかける。
ようは人類が負うべき後始末をゴジラが引き受けたようなもの。
都合のいい・・・と言ってしまってもおかしくないが、
別の見方をすれば、あのゴジラでさえピンチになるぐらい、ムートーという存在が大きかったというふうにも取れる。
神でさえ苦戦、神でなければ止めることが出来ない自然の暴走を、ラストの人類はどう見たのか。
「怪獣王は救世主か」
この言葉と海へと帰るゴジラの姿を見た人類が、なおゴジラに対して核を使うのかどうか。
そういう一つの分岐点を表したとも言える。
一方の人間ドラマのほうは残念というより、怪獣という伝達媒体として不自由なのを補うために設けられたような、目立たないものになっている。
渡辺謙なんかは特にそう。ゴジラという存在を解説するだけ解説したら、あとは本当に目立たずに空気な存在に。
もっぱら家族愛を想起させる主人公達を描いたもので、怪獣達から醸し出されるナチュラリズムなバックグラウンドとは別のラインで進行した物語といった感じ。
そのため蛇足感が否めず、ゴジラという強大な存在に対してパニック映画によくある普通の物語を展開されて、安っぽさを演出してしまっている感がある。
渡辺謙だけに絞ることはできなかったのだろうか・・・。
全体的に見れば、ゴジラシリーズの中に収まることが許される、極めてゴジラ映画らしいゴジラ映画になっており、
そこから超えたゴジラではない、良くも悪くもゴジラの範疇に収まった、無難なものに仕上がっている。
往年のファンには嬉しいものではあるが、初代ゴジラの思想的、社会的インパクトがない、演出面を追求したローカルな部分の出来に素晴らしさを感じた娯楽作。
少し残念だった気分もあるが、
この映画におけるゴジラの描き方は、拍手ものであることは間違いない。
熱線吐くシーンなんかは「来るぞ・・・来たぞ・・・」と興奮しました