GODZILLA ゴジラ : インタビュー
渡辺謙「GODZILLA」出演に込めた日本人としての願い
渡辺謙にとって「GODZILLA」への出演は、今の日本を見つめ直す機会になったのかもしれない。ゴジラの出現には核実験などが絡むため、どうしても東日本大震災や原発事故に思いを巡らせることになる。だが、被災地の1日も早い復興を願うからこそ、作品に込められたメッセージに目を背けず、決して風化させてはいけないと説く。一方、初めて“がっぷり四つ”に組んだゴジラには、その咆哮に希望の萌芽を見いだし目を細めていた。(取材・文/鈴木元、写真/堀弥生)
子どもの頃は、どちらかといえば東宝のゴジラよりはガメラ、大魔神の“大映派”だったという。ゴジラ映画も見たことはあるが、なぜこれほどまでに根強い、世界的な人気があるのかは疑問だった。しかし、初めてゴジラと真っ向から対じしたことで見えてきたものがある。
「なぜ皆がゴジラのことを好きなのか、あれだけ街が破壊されているのに、そこに何を見いだそうとしているんだろうという“式”だけはあったけれど、今まで答えを導き出そうと思ったこともなかった。でも今回、僕の中でなるほどなあと思うものは見えてきたかな。恐らく、あの咆哮(ほうこう)に怒りや恐れといったものが全部内包されている気がした。もちろんビルや街を破壊するけれど、不動明王のような怒りや恐れの先にある安寧みたいなものを想起させてくる、そういうものを感じたんですよ」
それだけに、ラストシーンで渡辺扮する芹沢博士がゴジラに向ける優しい表情は印象的。詳述はできないが、ゴジラの存在意義をほのかににおわせる感動的な場面だ。
「今、僕らの近くにも恐怖や恐れみたいなものは漠然とあるわけじゃないですか。それこそ原発事故や津波があって、多くの人の命がなくなり人間の立ち入れない場所ができている。そういう中でも僕たちは、別の未来に向かってやり直せるんだという希望みたいなものをかみしめられた。そういうものを感じさせてくれるキャラクターなんですよ、この人は」
そう言って、テーブルに置かれた資料の写真をトントンと叩きながら笑みをこぼす。相当な手応えを得ている様子がうかがえるが、元をたどればギャレス・エドワーズ監督がゴジラの世界観に対して持っている思いが出演を決意させるきっかけになった。
「今なぜゴジラなのかという不可解な部分があったので、ギャレスと会って話をしたんです。彼自身が広島や長崎、そして福島のことについても本当にいろんな思いがあり理解者だった。日本人にとって、ゴジラファンにとって、あるいは人類にとってゴジラの存在って何なんだろうという問いに対して、非常に深い理解が感じられた」
加えて、その時に用意された10分ほどの映像でゴジラの造形を確認。人間ドラマに重きを置き、1954年の第1作「ゴジラ」を踏襲した脚本にもほれ込んだ。日本人俳優として、日本映画としてできない悔しさはのぞかせつつも、参加すべきとの判断を下す。
「本編で使われてもいいくらいの映像で、これはやる気なんだと十分に伝わって得心がいった。脚本も非常にオリジナルを想起させる部分があったんです。もちろん、21世紀のコンテンポラリーな話で、本当は福島を体験した我々がやらなきゃいけない。なぜできないんだという忸怩(じくじ)たる思いはあったけれど、日本の俳優として出なきゃいかんだろうという義務感じゃないけれどレスポンスは感じたよね」
核実験に起因してMUTOというモンスター、そしてゴジラが出現し、芹沢という役名など第1作をイメージさせる要素は多いが、日本代表ということも含め特に意識はしなかったという。それ以上にゴジラの感情とどう向き合うか、招いた事態をいかに収拾するかという思いに専心したと振り返る。
「ゴジラやMUTOを見ているまな差しは科学者であり、ある種フランケンシュタイン博士のような立場でもあるので、なかなか複雑な役をいただけたと思います。今まで調べてきたもの、想像してきたものがいきなり目の前に現れるから驚きはするけれど、喜びも含めた驚きだったりする。1人だけ、おまえ違うよって感じ(笑)。ただ、この事態をつくってしまった責任というか自責の念も含まれているので、その部分では非常に苦悩するというところもありましたね」
その芹沢が冒頭で取り出す壊れた懐中時計が、後に重要な意味を持つ。エドワーズ監督もこだわったという、米軍の司令長官と広島の原爆投下について話すシーンにつながるのだが、脚本上は芹沢の背景について詳細な記述があり、実際に撮影もしたという。
「(芹沢の)父親が広島で悲惨な体験をしたことをロングスピーチで語り、原爆を使って怪獣を倒すのをやめてほしいって言うんですよ。(完成した作品では)形見ですってことになっているけれど、逆にそれが自分の中で1回咀嚼(そしゃく)されたことで、彼のバックグラウンドができ上がったところがあった」
当然、他にも多くのシーンが編集でカットはされており、エドワーズ監督もかなり試行錯誤したそうだが、結果的にはゴジラとMUTOの戦いだけでなく、それを取り巻く人間模様もグッと凝縮された。渡辺も安どするとともに、長編2作目の新鋭を称える。
「ギャレスはものすごく丁寧に話を聞くし、いろんな議論に対して根気強く一緒に答えを探してくれる。スタジオともやり合ったようだけれど、粘り腰だったんじゃないかな。うまくまとめてもらったんで、正直ホッとした。いろんなものを落としていったけれど、ひとつのシークエンスに懸けるギャレスの濃度みたいなものは変わらずに残っている。怪獣映画には収まっていない、人間ドラマの部分がちゃんと伝わっている気がしたんだよね」
その言葉通り、「GODZILLA」は米国をはじめ62の国と地域で公開週末の興収1位を記録し、世界を席巻している。だが、やはりゴジラの故郷である日本での公開には心に期するものがある。
「日本でどういうふうに受け止められるか、しっかりと届けないと間違えちゃうから。他の国に比べるとハードルが高いけれど、ある意味覚悟を持って届けていかなければいけないと思っている」
加えて津波や廃墟が映るシーンもあるため、上映の際に注釈をつけた方いいのではと配給の東宝に進言するなど、東日本大震災の被災者への配慮も忘れてはいない。それも含め、「GODZILLA」が日本で公開される意義を真摯に唱えた。
「津波や廃墟をもう目にしたくないと、疑問を呈するお客さまもいるかもしれないけれど、逆に言えば今我々が忘れちゃいけないことをもう1回想起させてくれる気がする。それこそ60年前に『ゴジラ』が作られた状況からテクノロジー、文明、科学はすべて先に進んでいるはずなのに、人間が引き受ける恐怖は変わっていない。そのことに僕たちは気づくべきだと思う。あくまでエンタテインメントだから、原発論争をしようとは思わないけれど、人間が自然と対じする時に本当に必要なものは何だろうという大事なものを内包している映画なんだよね」
一方で、「お客さまには、こっちが思うほどハードルを上げないで、ゴジラの映画を楽しんでほしい」とも。渡辺の思いを胸に、日本が世界に誇る怪獣王・ゴジラの活躍を見届けていただきたい。